梅寿堂写真館(2)
このページでは千本今出川北西角のお茶屋,梅寿堂茶舗さんが公開されている昔の写真から,市電に関するものを順次取り上げ,若干の考証を加えてみたいと思います。


© 梅寿堂茶舗(許可を得て転載)
千本今出川南西角(旧・西陣警察署の辺り)から千本通北側を望んだ写真です。手前では今出川通千本以西の拡幅のため,立ち退きが行われたことがわかります。千本今出川の電車は,千本丸太町~烏丸今出川間が第1期線の一部として敷設され,1912(大正元)年9月12日に最初の電車が到着しましたが,部分開通による千本今出川折返しが約2ヶ月続きました。次いで千本今出川~千本北大路間は第2期線の一部として,1929(昭和4)年12月10日に開通しましたが,この時も線内折り返しで,大徳寺~烏丸車庫間の開通は2年後の1931(昭和6)年12月25日でした。

興味深いのは,この時は千本通を直進する軌道は敷設されず,かつての札幌市電・薄野のような配線になっていたことです。しかし実際には千本今出川から北へ行く電車は千本今出川北詰折返しで,北~東の渡りを使う常設系統はありませんでした。この頃の代表的系統は,

(13)千本今出川-烏丸車庫-河原町今出川-烏丸塩小路
で,1931年12月25日から平仮名系統に変わる前日(1935年3月25日)まで運転されました。平仮名系統実施当初は,河原町線を南下して烏丸線を北上する循環系統(た)とその逆回り(ち)が運転されましたが,余りに複雑だったためか,半年後の1935年9月21日から個別往復系統に変更されました。
(た)千本今出川-烏丸車庫-河原町今出川-烏丸塩小路(旧・13系統)
(ち)千本今出川-烏丸車庫-京都駅
この当時,市電の行先は,京都駅前ループ線に入るもののみを「京都駅」行と称し,ループ線に入らない,後の東のりば折返しの系統は「烏丸塩小路」行として区別されました。

画面中央の電車は,ポールの向きから北へ向かって転線しようとしています。電車は200型か300型ですが,他の電車も全て一色塗りなので,下の写真より撮影時期は古いことは確実です。しかし当時は系統板は前面のみに掲出したので,後ろ姿からでは系統板を用いた撮影時期の特定は不可能です。系統板が数字であれば限定できるのですが,道路拡幅工事の時期など他の情報を調べる必要があります。


© 梅寿堂茶舗(許可を得て転載)
この状況が変化したのは,千本今出川交差点の配線変更工事完成に伴う系統変更が実施された1937(昭和12)年4月5日です。この時,千本通を直進する軌道が追加され,従来千本今出川で曲がり,烏丸今出川から京都駅へ向かった(う)(ゑ)系統が,烏丸車庫経由に変更されました。同時に(た)(ち)系統は烏丸車庫打切りとなって,千本今出川へ姿を見せなくなります。この時はじめて北~東の渡り線を使用して,(ね)系統が運転されます。
(う)ミブ→千本北大路→烏丸車庫→京都駅→七条大宮→ミブ
(ゑ):(う)の逆回り
(ね)烏丸車庫-千本今出川-烏丸今出川-京都駅
(の)烏丸車庫-千本北大路-四条大宮-ギオン
ところで上の写真は(ち)系統248号が千本今出川北詰で折返しの準備をしている情景を捉えています(ブリル79E系台車もよく見えています)。当時は進行方向にしか系統板を表示しなかったので,運転手氏が系統板を外す暇もなく客扱いをしている間に,車掌氏は後部のダブルポールを下げていて電車は給電されていません。ともあれ,この写真の撮影時期は,1935年3月26日から37年4月4日の間であることが判ります。

514型改造車に初めて採用された濃淡茶色塗装への在来車の塗り替えは,1936年頃から順次実施されたので,248号の塗り替え時期がわかれば,もう少し絞れるはずです。人々の服装からは厳寒でも盛夏でもない季節のようです。