「市民しんぶん」交通問題特集号
   このページでは,1971年6月に京都市広報課が全世帯に配布した「市民しんぶん」号外を転載します。明らかに「京都の市電を守る会」の提言に対するネガティヴキャンペーンを意図した「怪文書」と言えます。市電撤去のためには手段を選ばない,市当局の世論誘導工作の一端を記録に留めるのも,それなりの歴史的意義があると考える次第です。
   なお1971年は,1967年2月以来市長の座にあった革新系の富井清が病に倒れ,助役であった舩橋求己が市長に就任した直後に相当します。当時の京都市の政治状況については,こちらのページを参照して下さい。(敬称略)


車の洪水で動きがとれない市電-四条通で

京都の市電は,明治45年に私たちの祖先が作ってから,長い間「市民の足」として大きな働きをしてきましたが,最近はスピードも落ち,お客も減って,みなさんの「足」としての役目が十分果たせなくなりました。

こうした状態をなんとか打ち破るため,京都市では昨年11月,地下鉄の建設を前提として市電路線の約半分を撤去し,そのあとはバスに切り替える「交通事業財政再建計画」を市議会の議決を経て決定しました。

最近,市民の間でこの問題について真剣に検討され,具体的な提案をいただいたりしていますので,この際みなさんのご理解をいただくため,特集することにしました。


錦林車庫で解体される市電群。方向幕から烏丸所属車であることが判る。(朝日新聞京都版,1971年7月)
同じ1971年7月に,交通局は錦林車庫の白川通寄りの柳線に集められていた,700型を除く全ての間接自動制御車と605号を除く600型,1000型の一部を廃車解体処分にした。交通局は「決して撤去のための早手回しの解体ではありません。あくまで定年車の解体です。」とコメントしたが,1937年製の1600型を残す一方で1955年製の900型を解体した訳で,市電の存続年数が数年に限られることを見越した処分であった。他の全廃が決定した都市でも,整備に手間がかかるという理由で間接制御車から先に廃車されたから,市電を「半分残す」つもりがないことは明らかであった。

財政再建団体に指定されると借入金の利子が補填されるが,赤字削減計画と従業員のベア実施が引き換えになるなど,事業全般に渡って自治省の指導・監督を受けることになる。当時の自治省担当者からは路面電車が最大の赤字源に見えた訳で,事実上路面電車廃止が財政再建計画の認可条件になった。一方で高度成長末期から石油危機にかけてのインフレ下,労働組合に賃金凍結を強いる訳にも行かぬため,交通局としては廃止に走らざるを得なかった事情は理解できる。

問題は交通の専門家集団ではない自治省が,赤字削減という唯一の尺度で交通企業体のあり方を決定することで,言わば「病気は治ったが病人は死んだ」状態になることが懸念された。交通のように外部経済効果(社会的便益)の大きい事業が,企業会計の視点のみで評価される点に批判が集中したため,議論が噛み合わない面はあった。