市電梅津線と梅津車庫

Umezu Line and Trackless Depot

←西院巽町付近を行く515号。©namachan様
梅津線は市電として初めて単架線で建設された路線であるが,戦中の突貫工事ゆえ路盤が不完全であり,交差道路など一部を除いて軌道敷は枕木がむき出しだった。従って改修に多額の費用を要する点が,市電路線としての維持を断念する一因となり,1958年12月1日に無軌条線に転換された。


壬生千丸円町西四梅津
梅津出→5:135:18|195:225:29|305:37
梅津入←23:5523:50|4923:4623:39|3823:31
壬生七大西七西四梅津
梅津B出→1954.3.1に追加設定
梅津B入←
市電梅津線と出入庫系統

1945.2.2の天神川までの部分開業時に梅津"線"操車場が開設されているが,「梅津操車場」で無いところがミソで,その所在地は西大路四条だった。その後,梅津まで延長されたが操車場は移転することなく,交差点南西側の阪急からの借地に所在した。梅津終点のような棒線停留場では,車両留置は困難であるのに対し西大路四条西詰には片渡りがあった為,銀閣寺・天王町操車場と同様に車両留置が可能だった。東貝川町には,無軌条転換前後に市電200/300型の廃車体が置かれていたが,西大路四条~梅津間には分岐も渡り線も存在しなかった為,これは市電運行とは関係しない仮設事務所だったと推察できる。なお梅津線操車場は,53.6.8付で操車係員が無配置化されている。

左に梅津線の路線図を示すが,路線の上側が電車時代の停留場名,下側が松尾橋延長後の無軌条線停留場名(バス停留場名に変更ある場合は追記)である。電車時代の運転時分は7~8分だった為,2両投入で10分間隔,3両で6~7分間隔,4両で5分間隔になる。実際に何両配車されていたかは承知しないが,市電梅津線の運転は,廃止直前に110回だったので概ね10分間隔であり,基本は2両で朝夕混雑時には3両と言ったところだろうか。所属は壬生で,壬生との間に出入庫系統が設定されていた。

表上段は52.12.1の系統全面改訂時の出入庫系統で,初電・終電時刻も記載している。梅津出入系統は途中で2回も進行方向が変わる複雑な系統だった為,全区間を旅客営業したかは定かではないが,他の出入庫系統の例に倣うと,この系統だけが回送運転だったとは考えにくい。だとすれば他線とは直通しない梅津線ではあったが,初電・終電時と朝ラッシュ前後には直通系統が僅かながら存在し可能性もある。

錦林操車場開設と同じ54.3.1には,方向転換を要しない梅津B出入系統(表下段)が設定されたが,この時点で従前の出入庫系統は廃止されておらず,例えば初電時の2本を別経路とすることで若干の利便性を図ったと見ることも出来る。この場合,従前の出入庫系統は梅津A出入系統に改称されたと考えるのが順当だろう。

梅津車庫

梅津線の無軌条転換に伴い,58.12.1付で梅津線操車場と,四条坊城にあった無軌条線操車場は廃止され,代わって無軌条線を管轄する壬生運輸事務所梅津支所が東貝川町に設置され,停留場名も梅津車庫前に改称された。「さよなら京都市電」(1978)には市電各車庫の配置図が掲載されているが,梅津車庫は除外されているため,国土画像情報から61.5.1撮影の航空写真を掲載する。

府の旧・自動車試験場の敷地を交通局が取得したものであり,米軍が46年に撮影した航空写真では,この場所には複雑なテストコースが見られる。梅津車庫の敷地は,5,908.64坪(=19,532.7平米)と,6,873.00坪の烏丸と3,779.46坪の錦林の中間的な面積があった。61年5月は支所時代末期だが,ループ線より北側は広大な空地になっていて,敷地利用率は高くない。東隣には当時から京都外大が存在したが,確かに手狭に見える。

(Mouse-on)の建物番号だが,①は支所(→運輸事務所)庁舎,②は検車棟,③は検車棟付属屋,④は変電所である。⑤の建物名称は不明だが,恐らくは車両整備工場に類するものだと推察される。(トロバスは一般的な自動車で牽引・推進が可能なので,架線が無くても差し支えない。)外回りのループ線は記載を省略しているが,留置車両は内回り線に5両,外回り線に2両,短絡線上に1両と,検車棟から頭を出しているのが1両の計9両※注1)が見え,支所前にも1両が停車中である。この当時の在籍車は100型6両+200型2両+300型11両※注2)の計19両だったから,約半数が車庫周辺に居たことになる。
※注1)外回り線・短絡線・支所前の各1両(計3両)は車体の短い100型と思われる。
※注2)61年4月中旬に3両が追加新造されたので,これを含めると300型は14両になる。

ループ線の内側は,かつては広大な芝生になっていた。敷地に余裕があったため,この年8月の北野線廃止時には狭軌車両の一時保管場所となった由だが,芝生エリア南側に見える3両分の車体らしき物体は,その先陣かも知れない。


Wiring of Trackless Trolley Line in Kyoto
無軌条線配線図

京都市の無軌条線は,100系統とその亜系統のみの単純な路線だったため分岐は少ないが,図中に赤で示す6ヶ所には「電気フロッグ」が設置されていた。晩年には四条大宮~西大路四条間の100F系統は運転されていなかったが,折返し系統の設定があった西大路四条西詰と高畝町に並んで,西大路四条東詰にも架線分岐器と(↑→×)信号機が設置されていた。

西大路四条の2基と高畝町は自動化されており,梅津車庫の3基は信号保安装置に収容されていた。梅津の車庫内には複線の留置用ループ線があったが,壬生や九条のループ線と異なり,2線とも反時計回りで運用された。しかしトロリーバスの特性として,隣接する架線にポールを移動すれば簡単に方向転換ができた。梅津の検車棟の手前には左へ分岐する架線(構内短絡線)があった。上述の通り,四条大宮から壬生への出入庫線については架線は接続されておらず,出入庫時にはポールの付替えを要した。

無軌条線転換時には,最頻区間の四条大宮~西大路四条間で235回,最も少ない梅津車庫~梅津間で201回の高頻度運転がなされたが,廃止2年前の67年6月時点でも,四条大宮~松尾橋間の通し運転は1日180回が維持されていた。当時は100型6両+200型2両+300型18両の計26両が在籍していたが,中央扉のみの100型はワンマン化に適さないため68年9月に廃車され,ワンマン改造済の200型+300型の計20両で廃線を迎えた。

(8/26/2023)