交差点

Switching at Intersections


分岐方式

交差点におけるポイント操作は,古くは手動(交差点横の詰所に人員が配置されていて,電車が来るごとにタンレールを直接動かす),ついで信号塔からのリモートコントロールの時期を経て自動化された。

自動化の方式には主として2種類あって,1つは進路選択信号が交互に点灯し,希望する進路が点灯しているときに電車を進めると進路が設定される方式(時間選択式)。 もう1つは,トロリーコンタクターが2つ設置されていて,1個叩いて一旦停止するか,2個一気に叩くかで進路を区別する方式(位置選択式)である。現存路線では,たとえば鹿児島・長崎・高知は前者のタイプ,熊本・広島・松山は後者のタイプに分類される。ただ後者の方式では,3方分岐は物理的に困難であり,軌道敷に右折車が侵入していると,希望進路を選択することが不可能になる場合がある。

京都の場合は,前者の方式を軌道回路を用いて採用していた。集電子(ビューゲル等)が車両中央設置であるか,車両の方向転換の可能性がない場合にしか,トロリーコンタクターを採用することは現実的ではないからである。(ただし車両検知だけを目的とする箇所には,トロリーコンタクターも採用されていた。)

なお2010年現在,国内では富山地鉄・丸の内停留場のみ上記の方式に依らず,トランスポンダによる分岐を採用している。
京都市で最初に自動化された分岐点である勧進橋北詰の進路選択信号機と出発信号機(↑←×)。ターミナル以外では唯一の待合室付停留場の手前に1次停止線があり,進路方向に点灯した時に停留場へ進入する。 左の写真の信号機部分を拡大。進路選択信号機右肩に点灯しているのは,自動扱いを示す(自)のランプ。駅名標の付いた電柱の根元には制御箱も見える。(1969.12) 白黒では点灯状況がわかりにくいので,黄昏迫る七条烏丸東詰の写真を掲載する。この写真では判らないが,なぜか右折時に点灯する進路選択信号機左下のランプには当初青紫,後に赤紫のレンズがかかっていた。

分岐器の駆動方式には,電気式と電空式の2種類があった。前者はモータを用いてテコを扱うのに対して,後者では交差点にコンプレッサーを用意し,圧搾空気を送ってテコを扱った。むろん方式としては,前者の方が簡単そうに思えるが,後者は概ね今出川以南,千本・大宮以東の,比較的古い路線に属する交差点に設置されていた。

右・左折信号は,片方の信号機が黄色になると同時に(後に全赤現示が導入されると,全赤になると同時に)点灯したが,1回の黄・赤(または全赤)現示の間に右・左折信号を2回分扱うことができた。この場合,交差点に到着した電車の動線が交錯するか否かを考慮して,ポイントと信号が連動するという,相当高度な制御を行っていた。

たとえば,南から西へ曲がる電車と東から南に曲がる電車が交差点にさしかかった場合には,ポイントは直ちに切り替わり矢印信号も同時に出たが,西から南に曲がる電車と南から東に曲がる電車がさしかかった場合には,先着した電車が曲がり切るのを待って,ポイントが切り替わるのと同時に矢印信号が出た。コンピュータのない時代に,機械式でこうした制御を行っていたため,電気配線は必然的に複雑なものであった。

上の七条烏丸東詰の写真では,対岸の交通信号機の下段に左折の黄矢印が出ているのが見える。

交差点の遺物

自動化以後,京都駅前を除いて信号塔は通常使用されなかったが,廃線まで交差点の片隅に佇立していた。信号塔のあった交差点は以下の通りであるが,これらの交差点は基本的に電空式であったと思われる。

烏丸今出川(北西角),河原町今出川(北東角),百万遍(南西角),七条烏丸(南東角)。

東山七条のように,信号塔がなくても電空式の交差点もあったので,信号塔の存在は十分条件ではあっても必要条件ではない。ただし東山七条・祇園には信号所,四条大宮・西大路七条・塩小路高倉・九条大宮には信号塔が,かつて存在した記録がある。
七条烏丸を西へ曲がる2607号と南東角の信号塔
交差点を含む主要停留場には,交通局専用電話(要するに鉄道電話)のボックスが設置されていた。公衆電話が普及する以前には,業務連絡用に自前の通信回線が不可欠であったためである。

1900型のうち早くに廃車された1両(1922号)は,千本北大路折り返しの運用で,運転手が折り返し後の行先を照会するために専用電話を掛けている間に無人で滑走(大徳寺方向へ逆走),後続車と正面衝突したものである。列車無線があれば(またはワンマンでなければ)発生しなかった事故と言えよう。

この通信線を利用して,主要交差点に設置されていた市電関連工作物に電気時計がある。昭和大礼を記念して1929年に沿線に配備された由で,市電の通信線を使って駆動する親子時計であった。時計に限らず,身の回りに計時機能付の電子機器が溢れる今日では必要性を感じないが,時計が貴重品であった時代には,信頼性の高い街頭時計は重宝されたのだろう。戦後は25ヶ所に設置されていたが,市電廃止に伴って(多分誰にも惜しまれることなく)順次姿を消した。

七条烏丸の電気時計は南西角にあった。