電車乗継券・調査票など

Transfers and Survey Slips

このページでは,京都独特の「電車乗継券」などを紹介します。

戦後,大都市の路面電車は申し合わせたように「乗切制」になり,乗換えができなくなったが,戦前はどこの都市でも乗換えが可能であった。その当時は乗車券自体が路線図入りで,最終目的地を入鋏する場合が多かったようである。左に一例として,昭和11年の今里発行の乗車券の例を挙げる(大阪市電廃止記念乗車券の図柄として復刻されたもの)。年月日まで印刷され,さらに午前と午後では色違いという厳密なもので,「のりかへ」「のりかへなし」を入鋏するようになっている。



均一運賃で乗換えができなければ目的地を表示する必要がないため,路線図入りの乗車券は大都市からは姿を消した(名鉄や小田急の車内補充券は近年まで路線図入りだった)が,京都市では路線図入りの「乗継券」が発行され続けた。実際には「乗継券」の殆どは車庫前における運行調整で系統変更・打ち切り等になる場合の救済措置として発行された。材質はザラ半紙で日付が赤で印字されていた。特に電車の進行方向を東西南北の入鋏で示すのは,街路が碁盤の目状である京都市特有のものである。

以下に路線廃止の各段階における「乗継券」を示す。伏見線には稲荷と七条河原町以北・深草下川原町以南を勧進橋で乗継げる制度があったが,伏見線廃止後は「乗継券」が発行されるか否かは確率的であって,同じ日付の券を揃えることなど不可能に近い。

財政再建計画による撤去開始以前(1969.9.30まで)の乗継券。細かく見ると「八条口」が「南口」と記載されているため,1964年以前の券であることが判る。入鋏は烏丸車庫前で東行の5系統に乗継げることを示すが,有効時刻の入鋏はない。トロバスの系統名は「無」が正当だが,券面上「梅」で入鋏される。
1969.10.1~1970.3.31の乗継券。トロバス廃止でできた余白に「乗継券」の使用に関する注意が赤刷りされる。この段階までは伏見線内の制度的乗継ぎの際にも発行された。入鋏は烏丸車庫前で西行の15系統に18時まで乗継げることを示している。既廃止系統である3・14・16・梅も引き続き印刷されている。
1970.4.1~1972.1.22の乗継券。伏見線は廃止されたが旧市内のネットワークはまだ完全である。この時点から,乗継券に印刷される系統番号は現存系統に限られるようになる。ワンマン化の進展に伴い,殆どの場合「乗継券」への入鋏は省略されるようになる。
1972.1.23~1974.3.31の乗継券。千本・大宮・四条線廃止により系統数は一挙に6減となり,市電の面的ネットワークは損なわれる。
1974.4.1~1976.3.31の乗継券。烏丸線七条以北の廃止後に対応する。
1976.4.1~1977.9.30の乗継券。今出川・丸太町・白川線廃止後に対応。
1977.10.1~1978.9.30の市電最後の乗継券。河原町・西七条線廃止後は2箇系統に激減し,乗継券が発行される場面は22系統が烏丸車庫前で系変等になる場合だけとなったため,入手は比較的困難であったと思われる。

「乗継券」と同じように路線図が入る可能性があるものに交通量調査の調査票がある。1967年6月6日の交通量調査では,調査員は各停留所での乗降客数をカウントするだけであり,乗客が受け取る調査票はなかった。これでは発生・集中交通量はわかってもOD(起終点)は不明なので,次の1972年9月19日の調査から乗車時に乗車停留場をチェックした調査票を渡して,降車時に回収する形となった。

この方法だとアンリンクトトリップのODが判る点で進歩ではあるが,前後の乗継ぎが不明のため,真のトリップODはわからない。同じ時期,大阪市では乗継ぎ関係も尋ねる調査を実施しているが,前後の交通機関の部分を調査票からちぎる形式だったので,後の掃除が大変だったと思われる。この種の調査では,詳細な情報を期待して調査票を複雑にするとまじめに答えてもらえなくなるため,その辺のバランスが悩ましい所である。

上は1972年9月の調査票(6号系統),左は1975年6月の調査票(22号系統)