梅寿堂写真館(1)
このページでは千本今出川北西角のお茶屋,梅寿堂茶舗さんが公開されている昔の写真から,市電に関するものを順次取り上げ,若干の考証を加えてみたいと思います。


壬生の運輸事務所をアルバムで紹介しているのとは別の角度から眺めてみました(電車は20甲系統1030号;1971年7月撮影)。一番右に見える建物が操車窓口です。この建物は戦前からありました。下がその証拠写真です。

© 梅寿堂茶舗(許可を得て転載)
さてこの写真の撮影年代はいつ頃でしょうか?車庫前に佇む男性の服装からして,戦中という雰囲気ではなく,まだ何となく余裕が感じられます。
この写真を読み解く鍵は系統板にあります。京都市電がひらがなの系統記号を採用していたのは,1935年3月26日から1945年3月25日のちょうど10年間です。ここには,(あ)(う)(ゑ)(を)(か)の5種類の系統板が見えます。壬生操車場がこれに(い)を加えた6箇系統を担当していた期間は,記録から1937年4月5日から1943年12月24日の6年8ヶ月なので,写真の撮影時期はこの間と特定できます。写真には(い)(ゑ)(を)の側面方向板も写っていますが,(う)(ゑ)系統は1939年7月5日に系統変更をしています。そこで(ゑ)系統を詳しく見てみましょう。
1939年7月4日まで:ミブ→七条大宮→京都駅→烏丸車庫→千本北大路→ミブ(循環)
1939年7月5日以降:ミブ-七条大宮-京都駅(往復)です。
ところで,写真左列上から4枚目に見える(ゑ)の側面方向板の左端の文字は「京都駅」になっています。と言うことは,この写真の撮影時期は,1939年7月5日以降1943年12月24日までの約4年半にまで絞ることができます。更に男性の平和な服装からして,1941年以前の撮影である可能性が高いかも知れません。