Cover Photos Archive
This page archives former cover photos related to Kyoto City Trams.

当分の間,更新が滞ります。その間,アーカイブ化された過去年間のTop画像(15ページ)を一括再掲します。(Sept. 30, 2019)


西大路八条~西大路駅前間を行く8甲系統1838号。市電が東海道線を横断する4箇所のうち唯一のアンダーパスで,竣工の遅れにより約7ヶ月,前後で折返し運転をしていた時期がある。しかし開通後も,冠水のため折返し運転になる場合があった。当時,東海道線の快速は京都~高槻間無停車だったので,西大路には京都~西明石間の国電のみが停車した。(1977.5)


壬生廃止前日の七条大宮。営業運転の10・11甲系統886号の次位は,円板無しで九条へ転属回送される881号。画面右手前に交差点南詰から東詰への曲線レールを埋めたアスファルトが見えるが,この渡り線が何時どういう目的で敷設されたかは謎。(1972.1)


安全地帯の無い七条烏丸東詰の停留場を出て,京都駅に向かう6い系統1811号。信号塔が残る三方分岐交差点という点で,河原町今出川・百万遍と類似していた。(1972.3)


七条烏丸を右折する6ろ系統1851号だが,6系統がこの交差点を経由するのも後数ヶ月。6系統の前身と目される「き」系統は,設定から半年は塩小路高倉経由だった経緯があるので,最後は元に戻ったとも考えられる。丸物(→京都近鉄)百貨店は戦前期の京都を代表する近代建築の1つだったが,旧・市街地建築物法の31m規制により,当時の大建築は殆どが7階建で揃っている。(1977.5)


正月の市電と言えば,稲荷が思い出される。残念ながら正月の写真は無いが,河原町線からの臨時も運転され大混雑した。写真は廃止間際の稲荷終点を折返す503号だが,運転士氏は何やら乗客対応中。交通局電話の関係か,弘亜社の停留場標識がやけに高い位置に設置されていた。背景に国鉄線の「ハエ叩き」が1本写り込んでいるが,これも通信線の近代化と共に消え去った。(1970.3)


島原口の10・11甲系統721号と,先行する九条の1600型。市電1期線の道路幅員は狭く,60年代に入って申し訳程度の歩道が設置されたが,これでは電柱に阻まれて車椅子の通行は不可能。戦後永く使われた,白地に赤字のバス停標識が懐かしい。(1971.3)


北大路橋を渡る(臨)2606号。系統は特定できないが,方向幕が「烏丸車庫入庫」なので,13い系統の可能性が高い。市電7号線は,1923年10月に烏丸今出川~北大路橋西詰間で開業したが,それから11年間に渡って,加茂街道交差点が「植物園前終点」だった歴史がある。(1977.6)


二条駅前~出生稲荷前間を行く1乙系統1807号だが,一部の1800型は当初車番が白ペンキ塗だった。撮影位置は押小路の少し北に当たり,中京中学校の北側には櫓のある木造の建物も見えるが,京都市明細図によれば旅館として建てられたものらしい。押小路通には明治期は京電,現在は地下鉄東西線が走るが,二条駅高架化以前は国鉄用地で行き止まりだった。(1971.3)


今出川線・銀閣寺道への登りを行く2乙系統1664号。農学部正門へ通じる構内道路入口は,農学部前と北白川の中間に位置したが,市電があった当時は夜鳴きソバ屋の出没場所だった。(1973.3)


府立病院前で5乙系統の2600型同士が離合する。南行はラストナンバー2618号だが,北行の車番は見えない。立命館は衣笠への移転が進行中で,まだ広小路校舎は使われていたが,産業社会学部の建物は既に京都救世会館になっている。バス化後に府立医大病院前と,大学を強調した停留場名に変わるが,当時は本部棟の隣に管理棟が建設中だった。(1977.7)