古都に路面電車を残したかった
~京都の市電存続運動の8年間~
広原盛明

<目次>
1.最終電車を見送って
2.京都を交通政策の転換点に
3.市電撤去をめぐる政治攻防戦
4.遅かった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5.市電撤去推進の論理
6.京都の市電をまもる思想と論理
7.「まもる会」の多彩な活動
8.これからこそ大変
9.結びにかえて

1.最終電車を見送って
 1978年9月30日、この日のことを私は永久に忘れられないだろうと思う。普段はひっそりとしている烏丸車庫界隈もこの日ばかりは特別だった。カメラをもった小中学生、家族づれのサラリーマン、女子学生グループそして、お年寄り夫妻など老若男女を問わず文字通りあらゆる階層の京都市民がこの日のために集まっていた。土曜日ということもあって全国から来た人たちも多かった。いずれも京都の市電の最後を一目でもみようとする人たちばかりで、目には愛惜の念が溢れていた。
 だが、まるで“屠殺場”に連れて行かれる牛でも見送るような感じで集まってきているこれらの人たちに接して、私はなぜか形容しがたい複雑な気特に襲われていた。一つは「これだけ多くの人が市電全廃を惜しんでいてくれるのか」という共感、そしてもう一つは「なにを今更」という反発。こんな相反する気持の整理もつかないままに、そして写真一枚写す気持にもならないままに、とにかく私たち「京都の市電をまもる会」は否応なく市電全廃の日を迎えたのだった。
 思い出すのも辛いことだが、もう私たちは過去4回もの最終市電を見送ってきている。1972年1月22日に千本・大宮・四条線を壬生車庫前で、1974年3月31日に烏丸線を鳥丸車庫前で、1976年3月31日に今出川・丸太町・白川線を錦林車庫前で、そして1977年3月31日に河原町・七条線を九条車庫前で、ある。
 壬生車庫の時は、市民の大運動を押しきって廃止を強行した市当局への怒りが渦巻いていた。錦林車庫の時は、市電を残すために最後まで努力を重ねてきた運転手たちと周辺市民との間に交わされた熱い連帯の交換が印象的たった。そして九条車庫の時は、人通りもまばらな夜に「市電持去反対」のシュプレヒコールだけがこだました。
 私たちも若かったのだろう。率直にいって、市電撤去の日だけに花束を持ってくるような人たちには激しい怒りを覚えた。市電を潰しておきながら市電を惜しむふりをする市長や交通局の幹部、市電存続の市民運動を一方では冷ややかに眺めながら他方では市電が好きだという一部のマニアたちに対してである。だがこんな気持ちも今となっては懐かしい思い出の一つでしかない。とにかく私たちは今度の全廃の日にも「市電をまもる会」らしい方法で最終電車を見送った。「市電撤去反対」「京郡の市電をまもろう」「京都に市電を取り戻そう」とのシュプレヒコールの中で‥‥。



2.京都を交通政策の転換点に
 市電全廃が近づくにつれ、いろんなマスコミやジャーナリズムから取材があった。その中で共通していた質問は、「なぜこの運動を始めたのか」と「全廃を迎えての感慨は」との2つが多かった。運動の始まりと終りへの質問だから当然なのだろう。
 「まもる会」は多様な市民から構成されている。だから運動の動機は人によって異なるであろうが、少なくとも私自身に関していえば、公害聞題や都市環境問題への取り組みがその発端になっている。不思議なことにその後の「まもる会」の中心になっていただいた1人の主婦、堤愛子さんも、この運動への参加のきっかけは排気ガス公害だった。「京都を自動車公害から守りたい」という発想が会の運動に一貫して強く流れているのは、そのためである。
 案外知られていないことだが、京都の大気汚染には2つの特徴がある。1つは汚染源の7割までが自動車の排気ガスであるということ、もう1つ周辺を山で囲まれているので、汚染され易い地域だということである。だから市内中心部ではCOxでもNOxでも日本有数の汚染地帯となっており、これを解決するには自動車の走行キロを抜本的に減らす以外に方法がない。「ノーカー通勤」といった精神主義的なやり方もあるが、これではとても多数の市民の支持を得ることはむずかしい。やはりマイカーに乗らなくても住めるような街にすることが基本である。そのためには、公害を出さない市電をもっと便利にして拡充することが京都の都市環境と市民生活をまもるなによりの近道ではないか。これが私たちの運動の原点であり、かつ出発点であった。
 それからもう1つ、土木工学的な視点からではなく都市を市民の生活空間として把えたい。こんな立場から郡市計画の研究をしている私にとっては、マイカーは単に公害で郡市環境を破壊するばかりでなく、郡市構造ひいては市民の人間性そのものを非人間的なかたちに変えていくとの認識があった。マイカーは住居を都心部から郊外に分散させて、都心部の空洞化と郊外のスプロール化を惹き起した。そして「職住遠離」を拡大して著しく非効率的な市街地をつくり出した。マイカーは市民の中に「マイカー的生活様式」を蔓延させた。戸外で遊ぶことや遠足を嫌がる子ども、「駐車場付パチンコ屋」にしか出かけない青年、そして老婆の横断すらもクラクションを鳴らして脅かすような人間を育ててきた。
 だが、自動車交通を基礎として成立してきた土木的交通工学やその交通工学を土台として構成されている都市計画には、残念ながらこのような批判的視点はない。都市計画のほんの一部分でしかない道路計画をあたかもその総てであるかの如く錯覚し、市電を撤去し地下鉄と高速道路をつくることがあたかも京都の近代化の鍵であるかのような主張が当時は堂々と罷り通っていた。私はこのような土木的イデオロギーを批判しなければならないと思っていた。それも単なる学説上の論争としてだけではなく、市民生活や交通行政の現場に結びついた実践的な批判として展開しなければならないと考えていた。
 モータリゼーション政策の主流や尻馬に乗った各都市の都市交通計画をなんとか転換させたい。東京や大阪の二の舞を京都にさせたくない。もし京都で市電を残せれば、それが日本の都市交通政策のターニング・ポイントになるかも知れないのではないか。京都でならそれがやれるかも知れない。また京都でしかそれができないかも知れない。この瞬間に、この土地に存在する者の誰かがこの歴史的な任務を果たさなければ、京都市民は後世の人たちや他都市の市民かち非難さても仕方がない。大げさにいえば、70年代に入って市電問題と本格的に取組み始めた私の中にはこんな自負と決意が漲っていた。



3.市電撤去をめぐる政治攻防戦
 だが、市電撤去の方針が打ち出されてきた歴史は今日や昨日のことではない。京都でこのことがはじめて公的に打ち出されたのは、高山市長のもとで1964年2月に設置され、翌12月に結論を出した「京都市交通事業審議会」(会長・米谷栄二京大土木工学科教授)の「市内交通体系整備計画の基本的構想に関する答申」においてである。答申の趣旨は、「長期的構想としては、路面電車・バスの併用を高速鉄道・バス併用に改めるべきだが、1日57万人の利用する市電撤去は、地域住民の安全性・経済性についての配慮のもとに段階的に処理されるべきであると共に、路面交通における大衆輸送優先の原則が望ましい」というものであった。しかし皮肉なことには、この答申とあたかも軌を一にするようにして市電軌道敷内への自動車乗入れの許可が公安委員会により実施された。こうして市電撤去の理念は段階的に、しかし現実的施策は即時的に、京都の都市交通政策は急転回し始めたのである。
 一方これと平行して、注目すべきものに1964年から市内部で作業が始まり、1966年8月にその成果が審議会に付議された「京都市長期開発計画察」がある。この計画は主として高山市長の後継者・井上市長によって推進されたもので、「郡市とは自動車を容れる器」として位置づけ、「都市の土地利用を自動車交通との関連で計画する」ことを掲げたものだった。この計画案の提出を契機として、市電を全廃し地下鉄と高速自動車道を建設することが京都市の基本方針としていっそう固められることとなった。
 またちょうどその頃、第61国会で「地方公営企業法改正案」が可決された。地方公営企業が政府から財政援助を受けようと思えば、「財政再建計画」という名の厳しい合理化計画をのまざるを得ないような制度が成立したのである。既に市電全廃の方向で路線決定をしていた市交通局は早速この制度にとびつき、1966年の暮の市議会の議決を経て、1967年1月に「財政再建団体」としての自治大臣指定を受けた。
 ところがその直後に井上市長が急死するという事態が発生する。そして革新首長としての冨井市長が登場するに及んで方針の転換が図られた。しかしその方針は少数与党のために否決され、「近代的輸送機関の構想を具体化するとともに、その進行に合わせて市電を順次撤去する」との基本方針のもとに、1967年11月の「財政再建計画」が可決される。ただし実質的内容は、富井市長の怒力によって「運行環境の悪条件にありながらも、路面電車はなお大衆論送機関としで重要な役割を果たしている状況にあるので、当分は現状の維持に努め、輸送効率の向上を図りつつ市民輸送の確保を対するものとする」という方向に改められ、1966年度から8カ年で市電在籍車両数を372両から306両に締らすという「小幅撤去計画」にとどまった。
 にもかかわらず事態は好転しなかった。とくに市長与党である社共両党の間に市電存廃をめぐる意見のズレが大きくなり、1968年3月に「将来の京都市交通体系の基本構想およびこれに伴う近代的輸送機関の建設計画」を審議する「京都市交通対策審議会(米谷光二会長)」が発足して以降、ほとんどの交通部業案件は自社公民4党の主導で可決されていくことになる。そして1968年11月に出された答申は、「路面電車は大都市の大量交通機関としての役割を果し待なくなり」、「東京・大阪をはじめ名古屋・横浜・神戸の各都市においては、路面電車の廃止とそれにかわる地下鉄など高速鉄道の建設が決定されている」ので、「将来の京都市の交通体系としては、市内交通の主流を処理する根幹輸送機関として高速鉄道を建設し、これを補完するため原則としてバスを有機的に配するべきである」というものであった。この答申に基づき、1969年2月市議会は地下鉄建設を前提に1977年までに市営営業路線68・8kmのうち38.2kmを廃止する「財政再建計画第1次変更案」を可決した。



4.遅かった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 今から思うと私たちの立ち上りは余りにも遅かった、という一言に尽きる。既に市電撤去をめぐる攻防戦は1964年頃から始まっているというのに、私たちがこの問題に気がついたのはなんと事態が6年も経過した段階からであった。誰よりも先見性のある洞察力をもたなければならない研究者がこのような有様では、まったくその不明を恥じる他はない。
 ただ少し弁解がましいことをいうなら、当時の日本を襲っていた高度成長政策とモータリゼーション政策は、1若手研究者をして市電撤去政策に疑問を抱かせるにはあまりにも激しく、またすさまじいものであった。今でこそ新聞やテレビもモータリゼーションには批判的であるが、当時のスクラップを読みかえしてみると「ノロノロ市電」だとか「ダンゴ市電」だとかまるで市電を「イモ虫」あつかいしている大新聞も少なくない。交通渋滞の「元凶」が路面電車であり、路面電車の撤去こそが都市交通問題解決の鍵であるかのような記事が紙面に溢れていたのである。
 ともあれ、私たちがやっとこの問題について行動を起したのは1970年11月の臨時市議会のことである。富井市長が病気で倒れた後、船橋助役(現市長)が市長代行として提示した「財政再建計画第2次変更案」は、「第1次変更案」を更に大幅に変更して1973年度末までに35.8kmを撤去するというものだった。もう北野線(1961年7月廃止)や伏見線(1970年3月廃止)の時の二の舞はしたくない。これ以上市電がとられれば大変なことになる。若手研究者を中心にして多くの研究者が市役所や市議会に押しかけたが結果はあまりにも惨めなものだった。「政治」の仕組みなど何ひとつ知らない学者グループのあしらいなど、百戦錬磨の市会議員や市当局にとってはまるで赤子の手首をねじるようなものだったのだろう。「第2次変更案」は議論ひとつするでなく、いきなり本会議で可決されてしまった。
 私たちはこのことから幾つかの貴重な教訓を学んだように思う。それは如何なるすぐれた理論といえども、市民の生活や運動と結合しなければ現実を変革していく力となり得ないこと、研究者の問題意識は単に学会や研究室のみならず市民の生活現場においてきたえられねば有効なものになり得ないこと、などである。こうして、私たちの運動は遅れはせながら始まった。市議会で廃止が決ってから市電存続避動を始めたのである。
 だが、それにもかかわらず市民の反響は大きかった。1971年3月に発表したバンフレット・「市電を生かした速くて便利な京都の都市交通システムの提案一住みよい京都のまちづくりヴィジョンをふまえて」は予想を上回る共感を呼んだ。「市電は決して時代遅れの乗物ではない」「市電は京都によく似合う乗物だ」「市電を守ることは京都のまちをまもることと同じ」「市民運動として市電存続に取り組もう」。期せずしてこのような声が各層から出され、各界著名人のよびかけによる「京都の市電をまもる会」が1971年4月に発足した。



5.市電撤去推進の論理
 市交通局を中心とする市電撤去側の主張は、「市電時代遅れ論」と「市電赤字論」の2つである。もともとこの2つの主張は表裏一体のものであるが、技術的観点からの時代遅れ論がまず底流としてあり、次に財政的困難が顕在化するにつれて経営的視点からの赤字論が急速に比重を増し、そして最終的には市電全廃論にむけて両者が合体していくという構造をもっていた。つまり、「市電は古い乗物」だから「赤字を出す不経済な乗物」だという論理の組みたて方である。
 ここに市電撤去側の巧妙な論理のすりかえがある。それは、市電は本来的に古い乗物だから、いかに経営改善の努力をしても赤字は必然的であり、したがって廃止する他はないというもので、自らの経営や技術改良に対する無責任さをあたかも市電そのものの欠陥でもあるかのように他に転嫁していくやり方である。それからもう1つ、市交通局側は、時代遅れ論は主として地下鉄との対比において展開し、赤字論は専ら市バスとの比較において宣伝するという意図的な方法をとった。より具体的な主張はこうである。
 まず技術的観点からの時代遅れ論は、地下鉄が市電に比べて速くて大量の乗客を運び、郊外までネットワークが組めるのに対して、市電は遅くて中量の乗客しか運べず、路線も市内中心部に限られているというものである。すなわち「高速・大量・広域」の特性をもつ地下鉄に対して、「低速・中量・狭域」の市電は交通機関として技術的に劣っており、だから「地下鉄をつくれば市電はいらない」というものだった。次に経営的視点からの赤字諭は、市バスは市電に比べて人件費をはじめ諸経費が安く、その反対に市電は割高で市民の税金を無駄使いしすぎるというものだった。だから当面「市電を市バスにかえることが再建の道」であると主張した。
 この2つの宣伝は意外に広く市民の間に浸透していた。市の広報紙・「市民しんぶん」でくり返し強調されれば、ごく普通の市民なら決して疑問に思ったりはしない。また、地下鉄に対する素朴なあこがれや明日にでもすぐ開通するような錯覚もある。加えて、何よりも現実の市電が自動車に邪魔されてなかなかやってこないし、走れない。市バスには時刻表が各停留所につけられているが、市電には始発・終発時刻しか書かないという差別行政も行なわれている。要するに、「市電はもう駄目なんだ」と市民に思わせるような交通政策があらゆる手段を使ってすすめられ、その結果市民は知らず知らずの間に当局側の主張をうのみするようになっていたのである。



6.京都の市電をまもる思想と論理
 「まもる会」がまず取り組んだのは、「市電は本来的に時代遅れの乗物か」ということである。
 赤字論の克明も重要だが、肝心の路面電車そのものが現代的交通システムとして市民要求に応え得ないのであれば、市民を説得することはむずかしいと考えたからである。まず会は「地下鉄か市電か」という当局の二者択一的発想を批判した。確かに東京・大阪等の過大都市では通勤圏が著しく拡大した結果、いわゆる「線交通」といわれるラッシュ時の大量交通を短時間にさばく交通機関が必要不可欠であろう。しかし都市交通にはもうひとつ、ビジネスやショッビングなどに代表される「面交通」がある。それは一定の地域内をブラウン運動的にきめ細かく動く交通であり、同時に線交通の拠点からの分散・集約機能を受けもつ交通である。このような性格の異なった2つつの都市交通に対して、地下鉄は線交通畿関、市電は面交通機関としての任務分担を明確にすべきであり、二者択一的発想は誤りで両者共存の形態こそ望ましいと会は主張した。
 だがここで強調しなければならないことは、会の立場は単なる両者共存論ではなかったことである.確かに財政が豊かであり地下鉄が簡単につくられるのなら、技術的には共存システムがもっとも望ましいであろう。しかし京都市のおかれている現状はそのような事態とはほど遠い、限られた苦しい条件の下でのギリギリの選択が迫られているのが常であって、決して余裕のある選択が行なえるわけではない。理想としては共存システムを考えながらも、実際には二者択一論をとらざるを得ないのが現実であり、ここに地下鉄をとるか、市電をとるかという市当局と会との鋭い対決点があったのである。
 会の論理は明快である。京都程度の大都市では、路面電車を技術改良して近代化することにより線交通・面交通の両磯能を受けもつ交通システムが可能だというものである。周知の如く、ヨーロッパ型の高性能路面電車を導入すれば、郊外への路線拡張によって「広域」ネットワークが可能となり、定員増によって「大量性」に近づき、専用軌道化によって「高速性」と「定時性」が確保できる。即ち、地下鉄に比べて市電時代遅れ論の根拠とされている「低・中・狭」という路面電車の性能は悉く技術的解決が可能なのであり、加えて建設費が用地買収をふくめても地下鉄の1/20~1/15という「経済性」での決定的な優位性を有しているのである。
 一方、市バスに比較しての赤字論についてはどうか。市当局はこと地下鉄については「経済性」を語りたがらないが、市バスについては殊の外雄弁である.しかしここにも「つくられてきた市電の赤字」と「市電撤去によって軽減された市バスの赤字」の関係を見逃す訳にはいかない。まず市電の労働者の新規採用はここ十数年間に亘って一切停止されてきた。その結果、労働者の年令構成が中高年令層に異常に偏り、これに退職金の積立金が加わるとなれば経常費の中で人件費が極度に肥大化するのは当然である。一方市バスの場合は、市電撤去時の代替バスに若年の新規採用者を集中的にあててきた。市電撤去により市バス労働者の平均年令を下げ、平均給与水準を下げることで赤字の幅を小さくしてきたのである。しかし市電が正常なかたちで運行していた頃には、乗客1人当りの経費は明らかに市電の方が安かった。労働者1人当りの運べる乗客数は、保修部門の要員を加えても市電の方が多い。また今後の技術革新の可能性にしても、市バスには1台あたりの定員増には技術的限界があるが、市電は連接・連結事の採用によって1編成で市バスの3倍から5倍の乗客を運ぶことができる。つまり、市バスに比べずっと「経済性」が高いのである。
 以上は、いわば市当局から仕掛けられた宣伝に対する会の反論である。私たちは冒頭にものべてきたように、市電のもつ現代的特性としての「無公害性」「福祉性」「文化性」についても強く市民に訴えた。まず都市交通機関の技術的発展の方向は、公害性のものから低公害性・無公害性への変化が歴史の歩みに叶っていること。国鉄ではSLからディーゼルカーへ、そして電車へと一路電化の道を走っているというのに、なぜ路面交通だけが電車からディーゼルバスや自動車に後戻りしなければならないのかということ。都市交通機関の必須条件として都市環境を破壊しない機能をもっと重視すべきこと。そして路面電車の撤去は、路面を自動事に解放することによりいっそう公害を激化させること。これらが第1の柱であった。
 第2は、路面電車のもつ得難い福祉性についてである。路面電車はまさにその「路面性」によって、老人・身障者・妊婦をはじめとして多くの交通弱者の基本的な交通手段となってきた。屈強な若者や成人にしか利用されないような乗物は、都市交通機関としての資格に欠ける。ビルの数階分も上り下りしなければならないような地下鉄や高架鉄道は面交通に適さない。急発進をくりかえす市バスは時間を急ぐ壮年たちの要求に応えても、お年寄りには危険きわまりない乗物になる。「市電に乗っていつも東寺の弘法さんに行くのが楽しみどす」。こんな老婆のなにげない言葉の中に、路面電車のもつ限りないすぐれた情緒があらわれているのではないか。
 第3は、とりわけ千年の古都、京都にとって路面電車のもつ「文化性」についてである。都市交通機関はその都市の文化を象徴する存在であってほしい。これが会の思想であり哲学である。世界中どこの都市に行っても同じメーカーの自動車の群を見ることほど嫌なものはない。やはりその土地土地の臭いを身体中から発散させているような個性ある乗物にのりたい。これは誰もが抱くごく当然の気持だろう。京都を訪れる人々は、ほぼ例外なく市電を愛してくれた。市電に乗りながら車窓に流れる風景や自然を楽しんでくれた。「脇見運転のできないマイカー」や「真暗な穴ぐらを走る地下鉄」は京都に似合わない。ゆっくりと走り、道中を楽しみ、そして行先の分り易い市電こそまさしく「京都らしい乗物」だったのである。



7.「まもる会」の多彩な活動
 「京都の市電をまもる会」の運動は自画自賛するのもおかしいが、京都の数ある市民運動の中でもきわめてユニークであり、かつ多彩な内容に満ちあふれていたと思う。それはなによりも会の構成メンバーがきわめて広汎な人たちに亘っており、それぞれの人たちが各々の意志に基づいて主体的な参加をしたからである。ぜんそくの子どもを抱えているお母さんは公害防止の立場から、夜間大学に学ぶ二部学生は自らの足を守るために、病院へ通う患者はお互いの身体をいたわるために、お年寄りはお寺まいりのために、そして学者・文化人の多くは「京都の良さを守る」ために、などなどである。
 それに会が発足してからの10カ月に亘る署名運動は圧巻だった。京都中が「市電撤去計画の再検討を求める請麒署名」運動であふれ、市役所や市議会は要請行動の市民で埋めつくされた。少なくとも25万人を下まわらない市民がこの署名運動に協力した。また1975年の暮から翌年の1月にかけて展開された「市電存続市条例改正直接請求署名」運動は、運動にとってもっとも困難な時期であるにもかかわらず、市内有権者の1/4を上回る27万人の署名を収集した。いずれもこの運動を支持してくれる市民諸各層や各種労組・団体の力強い活動の成果だった。
 他都市や全国の人たちはおそらくこの数字をきいて驚くにちがいない。なぜそれほど多くの市民が市電存続の意志表示をしているというのに、市電は残らなかったのかと。その理由はあとでのべるとして、ここでは結果だけを記すにとどめよう。まず「市電撤去計画再検討請願署名」は、1971年12月25日に自社公民4党の手によって、「市電存続市条例改正直接請求署名」は1976年2月19日に船橋市長と同じ4党の手で、いずれも一切の討論ぬきで否決された。
 会の運動のユニークさを誇るもう一つの側面は、会員に研究者が多いことを反映して多様な調査活動を蓄積してきたことである。市電撤去予定路線の利用者に対する世論調査、撤去後の代替バスの利用実態調査、撤去沿線住民の健康診断調査、撤去後の自動車交通量調査、中高校生の通学条件調査、大阪の地下鉄建設公害実態調査、国内の各都市路面電車の現地調査、ヨーロッパとアメリカの各都市における路面電車の現地調査、等々である。
 また、これらの資料を基にして3回に亘る「交通政策提言パンフ」を発行し、10回近い「路面電車を見直すシンポジウム」や「公開討論会」を開催した。提言パンフの内容は、第1回が会の発足の契機となった1971年3月のもので、当時存在していた全路線を積極的に活用すれば市電存続は十分可能というもの。第2回は、千本・大宮・四条・烏丸線が撤去されたという1975年9月段階の状況をふまえて、「市内は市電、郊外は市バス」という市電と市バスのゾーン・システムを提案し、それぞれの地域分担を明確にして市内の市電の活用を図ろうとしたもの。第3回は、市電全廃を控えた1978年1月に提案したところの、もはや市電の経営に意志も能力もない市交通局に代って市民出資の市電公社をつくり、せめて外周線だけでも存続させようというものである。
 シンポジウム関係では、主だったものだけを拾ってみると、全国から都市交通研究者・交通局管理部門職員・交通労働者・地方議員・市民など約700人が参加した1971年7月の「第1回都市交通のあり方を考える全国シンポジウム」、1971年9月に約500人が参加した市交通局との「市電撤去問題をめぐる公開討論会」、同種のメンバーによる1972年10月の「第2回全国シンポジウム」、交通評論家や東京・大阪の路面電車メーカー、それに長崎、岡山などの路面電車の経営陣も参加して1975年9月に開催された「第3回全国シンポジウム」、4人の京都市交通事業審議会委員の参加を得て開かれた1976年2月の「京都の市電存続問題を考える自由討論会」、身障者、公害反対運動団体、高校生など市民各層が参加した1976年11月の「第1回京都の都市交通の現状とあり方を考える市民シンポジウム」、そして“市電公社構想“を発表した1978年1月の「第2回市民シンポジウム」などである。



8.これからこそ大変
 とにかく会の市電存続運動は終った。ひょっとすると、市関係者は「これで市電をまもる会もやってこないだろう」とほっとしているかもしれない。だが、京都市にとって本当に大変な問題が始まるのはこれからなのである。
 まず市交通計画の根幹輸送機関・地下鉄の建設状況はどうか。南北11.2kmの烏丸線は、路線免許申請から6年有余を経過した現在、その中の6.9kmの「緊急整備区間」ですら60%程度の進ちょく率にすぎない。残りの区間に烏丸車庫以北と京都駅以南であるが、いずれも数百軒の民家の立退きが必要であり、そう簡単に進むとは到底考えられない。加えて工事費の恐るべき高騰がある。市交通局は当初40億円/kmなどといっていたが、現に200億円/kmへと5倍にもはねあがっている。今後必要と予測される資金は、国の補助金を除いても市の一般会計からの持出し分50億円、1981年3月に予定されている一部開通後は元利償還分が年間100億円に達するというものだが、既に市当局内部では交通局と市長部局との間に財源をめぐる激しい対立が生れてきている。また20 km 近い東西方向の御地線に至っては「幻の地下鉄」と新聞でも呼ばれているように現時点では「夢のまた夢」でしかない。
 市バスについても楽観は許されない。市電全廃後の京都の公共交通機関は「バスのみ」という異常な事態になった。しかし1981年に僅か7 km ばかりの地下鉄が開通したとしても、それほど情勢は変ると思えない。好むと好まざるにかかわらず、市バスは他都市のように市電と同じ運命に直面しなければならなくなる。すでに市電が全廃された以上、代替バスによる若年労働者の新規採用は望めない。これから平均年令は上昇する一方であり、今後は市バスの人件費問題・赤字問題が最大の問題となってくるだろう。
 私は、市民が運動を通して行政や政治に働きかけている時こそが、市当局や市議会にとってもっとも幸福な時であろうと考える。行政課題に対する市民のコンセンサスを形成し、協力を求め、そして実行に移していく絶好の機会だと思うからである。わけても交通行政のような市民と密着した部門では、市民の協力が得られなければ成功は望めない。「マイカー規制」ひとつをとってみてもこのことは明らかである。だが惜しむらくは、京都市はこのチャンスを自らのものにすることができなかった。それどころか市民の多くを反感の彼方に追いやったのである。「観光マイカー拒否宣言」「京都に青空を」など次から次へと打ち出される市のスローガンが、その日のうちから空虚な紙切れと化していくのはそのためである。



9.結びにかえて
 この数日間、「まもる会はこれからどうなるのですか」とよく聞かれる。「まもるべき対象を失った以上、会はやはり解散する他はないでしょうね」というのが私たちの返答である。「でも京都の交通問題はこれからじゃないですか」という反論には、卒直にいって回答につまる。
 たしかに京都の交通問題はこれからである。事態が重大化・深刻化していくことは誰の目にも見えている。しかしそうだと分っていても、市民運動はやはり一般的・抽象的課題では成立しない。
 具体的で価値ある対象があり、自らが参加することに情熱を感じるような運動対象が必要なのである。市民の気持と心をひきつけるようなテーマがなければ駄目なのである。
 「京都の市電をまもる」ことは京都にふさわしい価値あるテーマだった。それは市民の心をかきたて、あふれるようなロマンを与えた運動だった。私はこの歴史的な時期に京都にいて、このテーマと遭遇したことは本当に幸せだったと思う。そして、会のメンバーもいま等しくそのように感じている。
(1978・10・4)

◆広原盛明氏のサイト"Hirohara.Com"が消滅したため,archivesから復活させました(フォーマット変更と一部誤字を修正)。この転載に疑義ある権利者の方はご連絡下さい。(2010.5.29)