「市民しんぶん」交通問題特集号(その2)

いま「市民の足」の主役はバスです


道路はすっきり事故も半減   バスに切り替えた北野・伏見線


人も車も安全になった 現在の竹田街道(久保町付近)
これまでに,36(1961)年に北野線,45(1970)年には,伏見線の市電が市バスに代わっています。市電の時には家の軒スレスレに電車が走り,危なかった北野線も,今は中立売通り,西洞院通りをご覧になってもわかるように,道が広くなってスッキリしています。

伏見線も片側に寄って市電が走り,安全地帯もなく,交通の難所だった竹田街道が,歩道もできて見違えるように変わってきています。そして何よりも,交通事故が半分に減り,市電より回数が増えスピードの上がったバスで,お客さんも増えてきています。


市電で動きがとれなかったころ(同じ場所で)
勧進橋以南の竹田街道は,市電廃止後道路が東へ5m以上拡幅された。東側の歩道部分はすべて拡幅された部分に含まれる。道路自体が物理的に広くなったのを,あたかも市電が廃止されたから広くなったように記述するのは作為的。市電9系統の運転本数130回(1967.6)と比べ,市バス81系統の運転本数124回(1972.9)は増えたとは言い難く,竹田久保町~竹田出橋間の乗客数は17,174人(1967.6)から9,175人(1972.9)に減少している。

*1日のお客*  市バス35万人 市電33万人

最近,ドーナツ化現象で市の中心部の人口が減り,周辺部はどんどんふくれ,いまでは別図のように市電の外周線の中の人口と,外の人口がほぼ同じになってしまいました。

郊外に住むようになった人びとは,市電だけでは通勤通学ができませんので,この人びとの「足」として,市はバスの路線をふやしてきました。

こうして以前は,市電の方が多かったお客さんも,昭和45年度では,市電33万人,市バス35万人と逆転しました。この傾向はこれからもますます強くなる見込みで,市ではバスをふやすことに力を入れていく考えです。

路線を廃止すれば乗客が減少するのは当然の帰結。逆に市バスの路線は延びているので,単純に乗客数だけで論じるのは誤りである。33万人という乗客数が正しいなら,伏見線廃止後の市電の営業キロ60.963kmに対する乗客密度は5,413人/kmとなる。1967年6月時点の営業キロ74.020km(トロバスを含む),乗客数656,542人に対する乗客密度8,870人/kmに比べると実に39%の減少である。同時期のバスの乗客密度は,1967年6月の958人/kmから965人/kmへと微増しているので,バスに軍配が上がることは事実。

その陰には,たとえば岩倉への直通系統増加に伴って,叡電→市電の乗継旅客がバスに転換したなどの理由があった。しかしバスの天下も長く続かず,左の地図に示す小野郷・大原や山科地区からは市バスは既に撤退している。市電撤去の際の懸念は,まさに次は市バスが廃止の運命をたどることであった。



現代はスピード時代

   働く市民のみなさんは朝の出勤で自動車に囲まれて身動きのとれない市電の中でイライラした経験をおもちのことでしょう。
   昭和29年(市電が最も速く走れた時期)には,時速14.2kmで走れた市電が,とくに混雑のひどい四条線では,夕方には時速8kmでしか走れないというのが現状です。
   この原因はやはり自動車のふえたことですが,とくに四条通は別図のように2.6kmの間に ,信号が13ヶ所,横断歩道が19ヶ所という有様で,急には停まれない市電は,どうしてもノロノロでしか走れません。

「時速16kmで走れば黒字になる」という案がありますが,市内の自動車が2万台の昭和29年の平均時速が14.2km。現在市内の自動車は24万台。この中 を,平均時速16kmで走らせることは,到底できない相談で,夢物語に過ぎません。
自動車の締め出しはお商売にもさしつかえ

   「市電がスムーズに通れるように,マイカーをはじめ自動車の通行を規制したら」という意見がありますが,現在市内に24万台ある自動車は,それぞれが日常の仕事で走っている車です。私たちの食べ物,衣服,家を直したりする機材などを,お店やお宅に運んでいるのです。
   こうした中で,自動車を直ちに,市街地へ入れないなどというのは,とうていできないことです。
   しかし,このまま自動車を野放しにしておくことはできません。一度に多くの人を運ぶ市電や市バスを優先して走らせるように交通規制を求めてきましたし,これからも強く要望していきます。