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Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

高瀬川の河道変遷

1912年陸地測量部1:200001925年陸地測量部1:250001932年陸地測量部1:25000 1965年国土地理院1:25000地理院地図(2025.3)※注1
高瀬川は角倉了以(1554-1614)父子により,1614(慶長16)年に竣工した運河であり,市内中心部では木屋町通沿いの都市景観を形作っているが,六条以南の河道は長年に亘り数多の変遷を経て来た。当初は渉成園(枳殻邸)の敷地を流れていたと言われ,園内の印月池は明治期まで高瀬川から取水していた。渉成園は1653(承応2)年完成とされるので,高瀬川開削から半世紀も経ぬうちに流路が変更されたことになる。御土居は基本的に高瀬川右岸に沿っていたが,その築造(1591(天正19)年頃)は高瀬川開削より早いから,御土居の外側に沿って高瀬川が開削されたと見るのが自然だろう。従って,高瀬川は基本的に御土居の外側を流れていたが,唯一御土居の内側に構築された船着場が「内浜」だった。高瀬川沿いの御土居は江戸末期には大部分失われていたようだが,左の絵図(「改正増補京繪圖大成」竹原好兵衛,1862(文久2)※注2)によれば,六条~七条間の流路変更後に移設された御土居は残存していたようだ。
※注1:今昔マップon the webによる。識別の為,単色地形図では高瀬川水系を水色で彩色している。
※注2:七条通南側に「金蓮寺」と記載されるが,この位置にあったのは四条道場・金蓮寺ではなく,七条道場・金光寺だった。寺域の発掘報告には,ほぼ同位置にあった京電の車庫遺構は触れられていない。

内浜の埋立ては市電(広軌線)開業と同じ1912(明治45/大正1)年とされるが,市電停留場には「内浜」の名称が残された。1912年の地形図には内浜が記載されるが,この図には広軌線は登場しない。内浜へは下流側から水路が通じており,京電はこの水路と内浜本体を渡る必要があったが,これら2ヶ所の橋梁は内浜の埋立てによって消滅した。旧東海道線から南側の河道はかなり折れ曲がっていたことが判るが,東海道線の南側への移設(14年8月)に支障した為,1925年地形図の頃迄には塩小路~東寺道付近を旧東海道線沿いに付け替え,直線的に鉄道用地と交差する河道に変更されている。この時期には,図の範囲で市電との交差は七条小橋1ヶ所になったが,高瀬川を利用した舟運は20(大正9)年6月迄に終焉を迎えた。

29年1月には,塩小路高倉~七条内浜間の軌道が計画14号線に付け替えられたが,この時には流路の変更が無かった為,河原町線の市電は高瀬川を2度渡ることになった。32年の地形図では,七条内浜交差点にS字カーブが生じているが,七条以北の軌道表記が狭軌時代から改訂されていないように見える。狭軌線が走った頃は新寺町通と呼ばれていたが,14号線開通までに道路拡幅とそれに伴う軌道移設が行われたはずだ。65年の地形図は伏見線が掲載された最後の図だが,東九条地区(東寺道~九条間)で河道の直線化が行われ,更に2002年には,2025年時点の地理院地図に見るように,崇仁地区再開発と関連して,塩小路通の前後で河道の直線化が実施された。その結果,14号線街路との交差は解消され,旧河道も消えつつある。(5/2/2025)