Cover Photos Archive
This page archives former cover photos related to Kyoto City Trams.

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鉄道ファン半世紀|車両写真|向日葵写真館|京都市電の廃線跡を探る


円町の安全地帯は交差点手前が原則だったが,東詰のみ相対式で設置されていたため,丸太町線・東行では二重停車が行われた。バス停の名称は昔から「西ノ京円町」であり,バス停が旧大字を冠した町名を使用する傾向にあるのは白梅町も同様であるが,市電廃止後に設置されたJRの駅は「円町」を踏襲している。写真は,相対式の東詰停留場で客扱いをする12甲系統1646号。(1973.3)


中書島へ向かう932号の手前の架線から下がる信号機は,伏見線の併用軌道区間に設置されていた「簡易式踏切警報機」。写真の下板橋通の他に,下油掛町(魚屋通)と毛利橋通にも設置されていたが,後者は津知橋通踏切と同タイプの,より本格的なものであった。(1969.12)


高野橋を渡り終えた6い系統1920号。高野橋の電停(急行通過)は,東行が西詰,西行が東詰という特異な配置だったため,両方向の停留場は100M近く離れていた。高野橋の旧橋は,市電1号線の敷設に伴って1932(昭和7)年に竣工したが,老朽化のため2001(平成13)年に架け替えられた。高野川左岸を「下鴨」と呼ぶことには違和感があるが,今も下鴨署があり,戦中はこの1ブロック手前から右へ下鴨集荷場の引込み線が分岐していた。奈良交通・観光バスの旧塗装も懐かしい。(1977.6)


千本今出川を東へ渡る11系統1803号。10・11系統は乙のみがワンマン運行だったので,この交差点を西へ渡る11系統は最後までツーマン運行だった。東北角の戦前からあった時計塔(ミヨシ堂→庵原商会)やその隣の文具店は健在だが,さらに北側に屋根がのぞく旧・東京貯蔵銀行(現・三菱UFJ銀行の前身の1つ)の赤煉瓦は,京都信用金庫の敷地に消えた。画面左端には三方分岐の信号機も見える。(1971.3)


山陰線の線路際から,大宮跨線橋を南下する1800型を見上げる。この時期,1800型は九条車庫には配属が無かったため,21甲系統だと判る(実は折返しを写したコマから,1832号と推察できる)。山陰線は非電化だったが,この区間には架線が存在し,跨線橋の門型架線柱は今世紀まで一部が残った。(1971.3)


今出川線が消えた最晩年の河原町今出川。13系統2002号が四条河原町へ向かう。この交差点から北へ0.1kmは,旧京電の特許引継ぎ路線の扱いだった。地名としては「出町交差点」の方が馴染みがあり,北側の三菱銀行と富士銀行も,合併で行名は変わったが店名は「出町支店」のまま営業中。(1977.5)


七条烏丸と並んで,最も遅くまで三方分岐が運用された河原町今出川交差点。当所も含めて今出川線には信号塔が多く残されていた。2乙系統1829号が曲がる亘り線は,1931年秋の河原町~百万遍間開通時には存在せず,系統(銀閣寺~河原町今出川)の烏丸塩小路延長に伴い,4年遅れて敷設された。(1973.3)


大文字を背に丸太町橋を渡る2甲系統1653(?)号。川端通の拡幅前は,現在の北行車線部分は様々な用途に利用されていて,左岸南側,現在の神宮丸太町駅1番出口の付近には,かつて市電操車場の引込み線が敷かれていた。(1973.3)


東福寺に停車中の22甲系統1825号。後方の第一赤十字病院は1996年からの改築工事で変わったが,2012年竣工のC棟は,旧建物の円弧状外壁イメージを残した設計(内藤建築事務所)が採用された。(1977.7)


烏丸中学前~上立売間を南下する6ろ系統708号。伏見線廃止以前の烏丸は,間接制御車の牙城だったため,700型直接制御車の在籍は,伏見線廃止から烏丸線廃止に至る4年間にほぼ限られる。708号は九条からの転属だが,この時期の6ろ系統はツーマン運転だったため,錦林・九条と比べて,ツーマン車が多めに配置されていた。もう時効だが,運転士氏の両手はスマホでも持つような位置に見え,手放し運転中?(1972.3)