Cover Photos Archive
This page archives former cover photos related to Kyoto City Trams.

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鉄道ファン半世紀|車両写真|向日葵写真館|京都市電の廃線跡を探る

西大路三条で信号待ちの22乙系統1834(?)号の前を,四条大宮行の嵐電が横切る。市電沿線にあった5ヶ所の私鉄との平面交差のうち,最後まで残った3ヶ所の1つ。当時嵐電の停留場は「三条口」と称した。(1977.7)

今出川線から河原町線に入る15系統1924号。下鴨線が無かった時代,この亘りは烏丸の河原町線への主要経路だったが,その後も同志社への通学を考慮して運転が続けられた。烏丸線の廃止後に,四河から北野経由烏車方面への系統は設定されず,使用中止になった。(1974.3)

烏丸五条を行き交う4乙A系統2610号と続行する6ろ系統700型,北向する恐らく4乙B系統の2000型。何れの電車も満員で「乗客減のため廃止」という交通局の説明には無理があった。(1972.3)

西大路七条から京都駅へ向かう4A系統2613号。西大路七条の亘線は東詰にあり,今出川線全通後暫くは22乙系統がここで折返していた。17系統は既に廃止されていたので,安全地帯で待つのは,8乙系統で七条河原町以東を目指す人々になる。(1977.6)

高倉跨線橋から京都駅へ向かう9系統934号。崇仁北部第一地区の改良住宅は1967年~84年に建設されたが,22号棟は70年の竣工であり,廃止目前となった塩小路高倉南詰の路側停留場の真横で工事が進む。50年の時を経て,京都市立芸術大学の新キャンパス(C地区)となり,22号棟は音楽ホールを含むA棟の敷地になった。(1970.3)

壬生廃止後のくまの交差点を行く6ろ系統707号。かつて烏丸には700型間接制御車が集中配置されていたが壬生廃止時に廃車され,代わりに九条から転入した直接制御車はレベルダウンが否めなかった。画面右端のトラス柱に設置された進路選択信号機は横に向けられているが,柱の根元には不鮮明ながらポイントマシンが見える。(1973.3)

通常は急行通過だが,墓参の便を図って旧盆期間中は急行が臨時停車した五条坂電停。客扱い中の6ろ系統2613号の後から,五条バイパス高架橋(1967年開通)をくぐって22甲系統1800型が接近する。写真の当時は,残存線区の軌道敷内通行が再度禁止されていたが,外郭線のうち特に混雑が激しい熊野神社~東山七条,九条油小路~京阪国道口間は規制除外されていた。(1977.6)

九条大宮を曲がる7乙系統1609号。九条大宮での写真は,東寺の塔をバックに北西向に撮るのが一般的であり,逆方向のショットは少ない。大宮通の拡幅はここ迄で,九条以南は一方通行の細い道になるが,右隅に僅かに三和銀行の看板が見える。建物は改築されたが現在も三菱UFJ銀行として存続するのに対し,北東角の三井銀行は売却されて京都銀行になった。(1971.3)