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Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

14系統

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22甲系統は平日(当時は月~土)朝夕混雑時のみ運転だったので,比較的見ることが少なかったが,それでも終日運転だった時期もあった為,14系統に比べればマシと言えた。設定期間も1955年1月~72年1月の17年間に及んだが,14系統は52年12月~63年6月の10年半と短かった。普段目にしない系統であるにも拘らず,西京大学前(→府立大学前)の系統通知信号機には(14)が点灯するのが謎だった。その後平日朝夕運転であることを知り,61年頃だと思うが,わざわざ放課後に百万遍まで往復乗車した経験がある。乗ってみれば,何の変哲もない系統だったが,(14)の円板の裏が(白)であることを確認できた。百万遍北詰にはかつて折返し線が存在したが,これは既に撤去済(56年5月)だった。

2021年4月の記事に「66年頃だと思うが,烏丸運輸事務所の横に廃止された(14)系統の横板が並んでいるのを見た」と書いたが,内容は全く記憶に残っていない。それを捏造したのが右の図だが,烏丸車庫以西については15系統の横板と同じにしている。しかし平日朝夕運転系統に急行通過停留場である「金閣寺」を採用したかは疑わしい。ただ急行運転の開始は62年3月で,この横板はそれ以前から使われていたはずだ(この当時烏丸横板の広告主は「かねてつ」が多かったが復元困難)。大徳寺前の系統通知信号機には(14)の設定が無いが,烏丸車庫以西は15甲と一致するため,(15)を通知すれば車庫前の発車順位から区別が付いたはずだ。

運転系統図では系統は単色の線で表記されたが,14系統のみ黄・緑の2色使用だった記憶がある。都電14系統(杉並線)も京都と同じ63年に消えた(12月)が,大阪の14系統(守口~あべの橋)は全廃直前となる68年暮れまで残った。(1/11/2024)


赤バス・青バス

「赤バス・青バス」と聞くと,多項選択モデルのIIA (independence of irrelevant alternatives)特性の例を想起するが,それとは関係無く,各地の路線バスで終車の方向幕を赤ランプで,その1本前の方向幕を緑ランプで照らすことの通称として使われて来た※注。赤バスを逃すと後が無いが,青バスなら待てばもう1本あると安心できる。
※注:信号機の"green light"を「青信号」と呼称するのと同様,日本語では慣用的に「青」の範囲が広い。

画像は22系統の青バス(中書島)だが,LED車になると方向幕を照らすことが不可能な為,幕表示部分を赤色または緑色の点列で囲むことで代用されるが,これには少なくとも3色LEDが必須になる。運転席スイッチでは前者を「終車灯」後者を「終前灯」と呼ぶのが一般的だが,ボンネット時代の京都市バスで「続行灯」と称するスイッチを見た記憶がある。電車の場合「続行灯」は単線区間の続行運転を示すのに使われた(例:下之一色線)ので全く意味が違う。

元は都電の方向幕に起源があるとも言われるが,京都では終電が「終」の円板で示されただけで「青電」は無関係に見えるが誤りだ。表は1953年頃の終電時刻表の5乙系統部分を抜粋したものだが,5乙青前(烏特1へ着発)→5乙青→5乙終の順に記載されていて,少なくとも当時は部内的には「青電」が明確に定義され,それに関しても他系統接続が考慮されていたことが読み取れる。(12/6/2023)


Overtourism and Trams

東山通の市バス混雑を見るに付け,市電が残っていたら違っただろうと考える人は多い。たとえば,
Merkmal: 京都市の「観光公害」45年前廃止の「市電」が現役だったら避けられた? (11/12/2023)
軌道の場合は,広島や宇都宮のような30m級連節車(HU300形で定員160人)を導入すれば,輸送力を格段に増強することが可能になるが,現況の交通状況と迂回経路が存在せず,発掘調査が必須になることを考えると,一度撤去した軌道の再敷設は不可能に近い。だとすれば運転手の労働生産性を上げる方法は連節バスになるが,定員を通常の11mノンステップ車の約75名から120名程度に増やすことが可能だ(日野ブルーリボンの例)。しかし超低床車の場合,東山七条交差点のような急勾配箇所では,底を擦る可能性があり,また東山通の幅員に余裕がない点も条件的に厳しい(最小回転半径は11m車の約8mから約10mに増加する)ため,道路改修が必要になる。→More

東山への鉄軌道アクセスについては,当サイトでは京都駅~七条(五条)間の京阪線への枝線(路線延長約1km)を提唱している。地下線のため費用は嵩むがB/C的にはクリア可能だと考えるが,京都市にも(京阪にも)その財力はないため,別スキームが必要になる(観光庁のオーバーツーリズム対策予算等では桁が不足)。清水寺の場合,五条坂バス停からの0.8km(徒歩14分)に対し,清水五条駅からは1.5km(24分)になるため近いとは言えないが,川端~東山間の歩行者空間を整備すれば克服可能な範囲だろう。しかし歩行者空間と言えば,「歩くまち・京都」構想の要だった都心部の歩道拡幅事業について,2015年10月に完成した四条通(烏丸~川端間)について,タクシー事業者や交差街路住民等からの評判が悪く,これに続く東山通の歩道拡幅については整備が凍結されている。

四条通については,御池通・五条通が迂回路になり得るが,東山通については川端通しかなく,また混雑の主体が府外ナンバー車の混入にあり,整備後の渋滞は一層激しくなると予想されるためである。とは言え,清水道や五条坂のバス停付近は歩行者空間の体を為しておらず,安全上も歩道の拡幅は避けられないから,最低でも祇園~五条坂間は車道の2車線化が必要だろう。その場合,バス・タクシー等の公共交通と,指定車・許可車以外の通行を制限するトランジットモールとしての運用が現実的であり,四条通以上に沿道の理解が必須になる。2車線化で車線幅に余裕が出れば,連節バスの運行も容易になると考えられる。

軌道再敷設の困難さからも,東山通等に市電を残すべきだったという意見は多く,5年前のNewsweekにも同様の記事が掲載されていた(既出)。
Newsweek: 京都は40年前に路面電車を廃止した、大きな過ちだった (5/29/2018)
しかし実際問題として,再敷設をするならば車両基地の確保を含めて課題山積と言える。(11/15/2023*)


信号塔/Switch Towers

交差点の信号塔は,1970年の再建計画による路線廃止開始時点では,左表の水色枠で囲った5ヶ所(京都駅前を含む)が残っていたが,このうち信号扱所として機能していたのは京都駅前のみである。59年時点には,塩小路高倉-九条大宮-西大路七条の3ヶ所にも信号塔が残っていたが,そのうち西大路七条は59年10月24日付で撤去されている。建坪は塩小路高倉を除いて0.93~1.47坪(3.07~4.86平米)と狭小であり,基本的には柱上式平屋建だったため,建坪=敷地面積とすれば容積率100%だったが,京都駅前のみ総2階建のため200%になる。

他に四条大宮北東角にも信号塔が存在したが,56年2月25日に用途廃止となり,57年4月4日付で自動転轍機が使用開始されている。また四条線の反対側,祇園には機械式転轍機を扱う信号小屋があったとされる。祇園の転轍機自動化は59年12月15日付であり,比較的遅くまで存在したはずだが,写真等が見当たらないため形態は不明だ。京都駅前操車塔については,烏丸線七条以北の廃止(49年4月1日)に伴い用途廃止になったが,躯体は巨大な「市電・市バス案内盤」(目的地のボタンを押すと経路を表示)の建屋に流用された。
左は46年10月米軍撮影の航空写真で,左から順に西大路七条-九条大宮-塩小路高倉付近を抽出したものである。撤去された信号塔がどこに在ったかだが,信号塔は3平米ほどの小さな構造物であり,モノクロ航空写真では街路樹と区別が付かないが,敢えてこれではないか,というものを(Mouse-on)で示しているが自信はない。特に塩小路高倉については僅か1.41平米の極小物件だが,この時点には南~東方向の分岐は存在しない点に注意されたい。なお信号塔の建設時期については,1938年頃とされるため,終戦時には存在していた。西大路七条については,「信号塔を廃止して器具函を設置した」とあるが,電空式転轍装置の器具函はコンプレッサー等を含む大型キャビネットで,その設置位置は交差点南西側だったので,敢えて信号塔と別の場所に置いたのか,信号塔の位置を読み違えたのか不明だ。(11/8/2023)


車号記載位置

京都市電では,車体側面の車号は左の梅小路公園の1605号の如く,車体中央に局章の下に記載される(多くの場合切抜き数字)のが原則だった。ところが広軌I型29号では,車体中央の局章は変わらないものの車号は腰板左下隅に記載されている。その後の200/300型でも,下の記事の271号に見るように車号は左下隅にあり,514型も同様だった。ただし200/300型については,塗色変更の際に車体中央に車号が移されている。古い車両がすべて同様かと言えばN電は違っていて,車体中央には車号のみで局章は腰板右下隅にペイントされていた。※注
※注:現車は平安神宮神苑に保存され,2020年に重要文化財に指定されたが,塗装が劣化しているため,「デジタル青信号」所載の画像を加工。

大型車(3扉車)については,1001号に見るように中扉の左側に車号,右側に局章と分離されている。2000/2600/1800型の前中扉車では,1605号と同様に局章と車号がまとめて配置された。しかし車体長が長かった為か,1900型については車号と局章が分離されたが,中扉左側に局章,右側に車号と,1000/500型とは逆の配置になった。

妻面の車号は,29号や271号に見るように,かつては幕板左側に記載された。当時は救助網が大きく,車両後部に畳んだ状態では腰板の車号は見難い為だと思われる。200/300/500型では,幕板の車号は切抜き数字が使われたが,塗色変更と相前後して前照灯右下の位置にペイントされるようになった。それでも昭和40年代初頭までは,500型で幕板の切抜き数字と腰板のペンキ文字が並存した車両が散見された。(10/15/2023)




広軌単車200/300型

広軌単車200/300型については,乗ったに違いないが明確な記憶がない。広軌線の単車は1958.12.24付で,700型2次車入籍と同時に全廃されたが,実は57.1.22付で壬生配置が終了し,最後の2年弱は九条のみで運用された為,四条以北では乗る機会が無かった。下表は200/300型の配属を手元資料からまとめたものだが,300型は25(大正14)年,200型は27(昭和2)年の製造で,500型ボギー車登場後の単車回帰であることを含め,第1次大戦後にアメリカで流行したBirney Carとの類似性が見られる。200型の方が新しいにも拘らず,半鋼製でありながら腰板が鋼板ではなく,短冊板張りであったため古風に見え,淘汰は200型が先行したように見える。なお52.10.1時点の配属は,両数のみ判明している。

←271号@壬生(交通局archive)
壬生烏丸九条
50.1.1250-280
301-329
60201-219,237-24932220-236,281-293
330-350
51143
52.10.131154490
56.10.12205,206,208,247,248,251,257,261,266
301,302,304-306,310
15232,237,245,280
311,313,315,317,322,329,332-337,339-341,
343-345,349,350
2439
58.12.1205,206,248
305,310,313,315,329,336,337,341,343,344,349
1414
300型は50両,200型は93両が製造され,1950.1.1時点には全車健在だったが,戦後の新造車投入と共に,急速に数を減らして行った経緯が読み取れる。広軌I型が最後まで残ったのも九条だったが,伏見線の為か,どうも九条車庫は冷遇されていたようにも見える。なお55.1.16に錦林車庫が新設されているが,錦林には単車は配属されなかった。

200/300型は単車ながらエアブレーキが装備された点で広軌I型とは大きく異なるが,電動機は広軌I型と同じ25HP(18.5kW)×2を搭載していた。余りに非力だった為か,1935年から37年に掛けて8両が35HP(26kW)×2に換装されたが,以後中断し戦後49年になって再開されている。換装は廃車直前の55年まで続けられたが,戦後施工の一部については,出力が40HP(30kW)×2に強化されている。

200/300型の塗色は当初マルーン1色だったが,1935年登場の514型で採用された濃淡茶色塗装に順次変更された。モノクロ写真では600型で採用された青電色(黄土色+濃緑色)の塗装と殆ど区別が付かないが,マツモト模型で製作された300型模型の塗色が参考になる。さらに戦後の49年頃から,在来車の青電色への統一が進んだから,全廃時点には濃淡茶色の旧塗色車は存在しなかったはずだ。(10/4/2023)


差別運賃

本年6月頃,市バスの混雑対策として,住民と観光客に差別運賃を導入することが,京都市において検討されていることが報道された。その時の ニュースはまだ見ることができる。これは市が,来年度(令和6年度)の政府予算に対する要望事項として提出したもので,決定事項ではないため,些かセンセーショナルに扱われた面はあるが,問題の箇所は要望書(PDFファイル)19ページの以下の記述である。
⑷ 新型コロナウイルス感染症のような不測の事態により変化する需要動向や物価高騰等の社会情勢に応じて、機動的・弾力的な運賃設定を可能とするなど、自由度の高い運賃制度を構築すること。
 特に、本市においては、観光利用が多い特性を踏まえ、観光利用と日常生活を中心とした市民利用との棲み分けについて、運賃制度をはじめ各種規制を柔軟に運用できるような制度構築に向け検討を行うとともに、必要な財政支援措置を講じること。

小人運賃や障害者運賃は,社会的に承認された一種の差別運賃であるが,これらは京都市民であるか否かを問わない(ただし後者については,京都市居住者は福祉乗車証により無料)。しかし交通機関利用者から「観光客」を識別することは困難である。上の「ニュース」で紹介されている,交通系ICカードをマイナンバーカードに紐付ける方法では,京都市民は識別できても,京都に通勤・通学している人を識別できない。仮に滋賀・奈良・大阪等の隣接府県居住者まで通常料金にするとしても,単身赴任者や遠距離介護者は別途登録が必要になる。また一部の観光地最寄り停留場(例えば金閣寺道や清水道)での乗降に割増運賃を適用する場合,それらの観光社寺周辺にも一般市民が居住するため現実的とは言えない。

基本は賃金と同様,"equal service"なら"equal fare"とすべきだろう。一部の公共施設では,2部料金制の考え方を用いて,固定費用部分は市民税によって賄われるとして,相当額を非市民から追加徴収することが行われる。しかし公共交通(特に地下鉄建設補助金)には,国民の税金が少なからず投入されているから,市民だけを優遇することには問題がある。京都市には,財源不足を非市民に負担させようとする性向がありそうだ(cf.「古都保存協力税」)。現実的には,観光用急行バス(現在運休中の100番台系統)等で,サービスの質の差別化を図ることや,混雑緩和策としての大型荷物料金徴収が考えられるが,後者はワンマンカーでは技術的に難しい。

途上国では,公共施設(博物館等)に外国人料金を設ける例があるが,鉄道における差別運賃としては中国鉄路の例が想起される。1995年の兌換紙幣(FEC)廃止と相前後して廃止されたが,それ以前は外国人運賃(1.75倍?)が設定されていた。ただし外国人窓口で並ばずに切符を購入できる等,サービス面で若干の差別化が図られていたが,差別運賃の導入に言及すること自体,日本が途上国レベルになったことを物語るように思える。(9/19/2023*)


戦前の横板と横幕


横板(側面方向板)の掲出は1953.6.8からと記録されるが,これは戦後の話であって,戦前にも横板の掲出はあった。梅寿堂茶舗さんご提供の写真にある系統の横板を拡大・判読した結果を左上に示す。写真からは戦後と同様のフック付き鉄製看板(ただし無広告)に見えるが,白黒写真では色は全く判らない。系統がこの経路だったのは43.12.24迄だが,43.8.12に金属回収令が公布・施行されているので,恐らくは回収対象となって戦前の横板は消滅したのではないか,と想像される。

左下は戦前の600型だが,この当時は前扉すぐ後ろの戸袋窓に,室内側から側面方向幕(横幕?)が設置されていた。写真では白幕になっているが,停留場では戸袋窓と扉で合わせて3枚のガラス越しに見る必要があり,かつ着座者を考えて高い位置に設置されたため,相当見難かったはずである。結果的に余り良い考えでは無かったと見えて,使用が続けられることもなく,他形式への波及も無かったようだ。

大阪市電では,一部の車両に外付けの側面方向幕が使用された。右写真は循環15系統1700型のものだが※注,中扉の直前(京都でも3扉車の横板はこの位置)に設置されていた。これだとガラス3枚を介する必要は無いが,雨水浸入や車両限界が気になる。
※注:15系統は,都島車庫<四ツ橋筋>なんば<堺筋>都島車庫。小林庄三「なにわの市電」(トンボ出版,1995)掲載の写真を加工。

今なら京阪3000系プレミアムカーに採用された液晶ディスプレイ内蔵複層ガラスが利用可能だが,コスト的に疑問。(9/3/2023)