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京都電気鉄道(京電)は系統記号ではなく,行先を書いたかなり大型のサボを用いたようであるが,京都市電は設立当初から系統数字を用いた。京電との合併(大正6年7月)の結果,系統が複雑化したこともあり,1922(大正11)年12月1日から系統数字の円板を掲出するようになった。 写真から判定すると,円板の大きさは後の急行板と似たようなものである。たとえば,この当時北野線(東線経由・西線経由共)は「12」系統であった。ただし,白黒写真では系統数字の色までは判らない。当時は救助網が大型であり,これを畳むと円板を掲出できないこともあって,円板の掲出は前部(向かって右側)のみであった。
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| 木屋町御池の12系統北野行 N125号(「世界の鉄道'83」) | ||
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しかし1935(昭和10)年3月26日から,系統記号は平仮名に改められ,北野線は「ろ」系統となる。この当時,大阪・名古屋など,関西地方は平仮名の系統記号が流行していたため,それに倣ったものと思われる。電車は平仮名の系統記号を書いた円板を前部に掲出した。基本的には,あ行・か・な行が壬生,た行が烏丸,ま行・や行が九条の担当であった。
平仮名による系統記号は丁度10年間続いたが,乗切制の導入に先駆けて,1945(昭和20)年3月26日に数字による系統に復帰する。1〜12の本系統に「補一」〜「補九」の補助系統を組み合わせたものであったが,系統板は円板から縦長の長方形に変更となる。本系統には算用数字,補助系統は漢数字が用いられた。この段階でも,系統板は前部のみに掲出された。 |
| 平仮名時代の市電1号イナリ行 (©杵屋栄二氏) |
補一系統,クマノ発ミブ行 (©大西卓氏) | |
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系統板が円板に戻るのは,本系統+補助系統のシステムから数字のみの系統への再編(1952(昭和27)年12月1日)の頃である。ただし最初は,大正年間のような白地に系統数字を書いたもので,後のような白抜きではなかった。この円板の色が反転して,白抜き数字(錦林・北野を除く)になったのは,1953(昭和28)年11月1日からであり,この時から系統板は車両後部にも掲出されるようになった。 この時の円板の色使いは,廃止まで変わることがなかったが,円板自体は後の急行板程度のサイズで妻面右側に掲出された。これが広告入りのサボ差しに差す形態になったのは,1957(昭和32)年である。依然として系統板は「円板」と呼ばれたが,サボ差しとの関係で厳密には円形ではなくなり,円形部分の直径は32cmと一回り大きくなった。 |
| 1952〜53年頃使用された初期の円板(©大西卓氏) | 1953年11月からの系統板 (中田安治「路面電車」保育社1973より) | |
京都市ではさすがに天地逆はなかったが,それでも円板の表・裏の組み合わせは,なかなか興味深かった(→詳しくは次ページで)。
横板の怪
記録によれば,乗客案内の便を図るため,側面方向板(いわゆる横板)が掲出されるようになったのは,1953年6月8日からである(2扉車の掲出位置は,進行方向左の前扉直後の窓付近)。しかし,ワンマン化に伴う乗務員の負担軽減という名目で,ワンマンカーではこの掲出を省略することになった。
常識的には,車掌が乗務していない分,案内には意を用いるべきであるのに,まったく逆のことをやった訳で,労働強化に一様に反対するという,当時の労働組合の方針も含めて疑問を感じる。路線廃止に伴う系統変更では新たな横板は製作されなかったため,ワンマン化の進展と相まって横板は急速に姿を消すことになる。
ワンマン化率が100%になった1975年3月30日時点で,当初の系統が維持されていて,従って横板の使用が可能であったのは,2,8,13のわずか3系統しか残っていなかった。しかし実際には,壬生車庫廃止の頃までに営業車から姿を消したようである。
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