市電のアルバムFishimi Line: Japan's Oldest Electric Rail Line (1895-1970)日本最古の電車路線・伏見線の記録(1997.6.15初版, 2006.5.13増補, 07.10.27再補) |
陸軍陸地測量部1:20,000仮製地形図 明治23年測量 明治25年整版 明治30年修正 (Army Map, 1897) |
陸軍陸地測量部1:25,000地形図 大正11年測図 昭和2年修正測図 昭和6年部分修正 (Army Map, 1931) |
伏見線の開業日は1895(明治28)年2月1日が定説となっているが,いずれにせよ京都電気鉄道(株)の手によって,我が国最初の電車路線として開業した。当初は1067mmゲージの独立路線で,東海道線北側の市内線と結ばれたのは,6年後の1901(明治34)年4月のことである。左の陸軍陸地測量部2万分の1地形図(明治30年修正)には,開通間もない伏見線が記入されている。
勧進橋は現橋より南側に鴨川と直交する形の木橋であり,むろん1905(明治38)8月4日開業の稲荷支線は記入されていない。現在の竹田街道はまだ無く,当時の伏見線は東高瀬川沿いの旧街道に沿って敷設されていたことが分かる。右の地形図(昭和6年部分修正)の時点では,深草下川原町付近では竹田街道の西側に旧道の盛土が残るが,現在では市街地に完全に埋没している。しかし竹田久保町の少し北から城南宮道付近までの旧道は辿ることができる。
1918(大正7)年6月30日を以って京都電気鉄道は解散し,市電(京都市電気局)に買収された。1921(大正10)6月上旬の「広軌仮運転」までは狭軌車両(いわゆるN電)が運転されたが,その後1923(大正12)年6月26日の広軌正式開業までの運転方式は不明である。竹田街道が現在の直線ルートへ移設されたのは京電時代の1911(明治44)年であり,軌道移設と広軌化には直接の関係はない。なお右の地形図には「京都電気鉄道」と記載されているが,1922(大正11)年の測量時には既に京都市に買収されていたから,単なる誤記である。
明治時代の軌道の地図記号は後の「特殊軌道」の記号であるが,鉄道は平行2本線なので道路と余り区別が付かない。ともあれ伏見線開業の半年後(9月5日)には奈良鉄道が開業し,京電と城南宮道~棒鼻間で平面交差した。この交差では同年11月29日に,電車と列車の衝突という初の重大事故が発生している。1921(大正10)年に東山隧道の開通によって奈良線が旧東海道線に振り替えられると,この線は貨物線に格下げられ,最後は桃山~伏見間の営業となって奈良電に譲渡されることになる(→こちらを参照)。
伏見線併用軌道の相当部分は,道路の片側に軌道を張り付けた変則的なものであったため,交通安全対策を理由に財政再建計画(第2次)による最初の廃止路線に選定された。実際には,十条通-大手筋間には並行バス系統が皆無であったこともあり,最後まで乗車率は高かった。
1970.3.26(Th)朝,(19)勧進橋→稲荷,507号 (40"東高瀬川橋梁→1'20"師団街道踏切→1'30"京阪平面交差)
稲荷は2面1線の頭端駅で,琵琶湖疏水の橋梁上にあった。932号が右側の乗車ホームでの客扱いを終え,京都駅へ出発する(1969.3) | 京阪電車との平面交差に差しかかる京都駅行850号。脱線ポイントと連動した援護信号機は市電唯一の色灯式(G-R)だった(1969.12) |
自動1種の師団街道踏切を通過する稲荷行605号。この地点より西側は築堤が取り除かれ,平面街路になっている(1969.12) | 稲荷行708号が,師団街道の踏切動作反応灯を通過する。市電の踏切で唯一,当時の京阪線と同仕様のものが設置されていた(1970.3) |
稲荷支線の大部分は石積みの擁壁を持つ盛土上に敷設されていた。605号は600型として唯1両壬生廃止後まで生き残った(1969.12) | 稲荷支線・東高瀬川橋梁を稲荷へ向かう廃止装飾車707号(1970.3) |
砂埃を上げて勧進橋に差し掛かる900型ラストナンバー935号。このカーブはカントが逆向きである上に,電車と南行の自動車の動線が交錯するという悪条件であった(1970.3) | 勧進橋分岐点の京都駅行19系統603号。分岐交差点としては唯一交通信号との連動がなく,鉄道用信号機が設置されていた(1970.3) |
廃止の口実にされた竹田街道の変則軌道を北へ向かう18系統850号。深草下川原町に限らず,この区間の北行電停は路面のマーキングのみ(1969.4) | 近鉄のガードをくぐると変則軌道は終わり専用軌道に入る。最終日の陽も傾き,700型装飾車(706または707)が棒鼻に到着する(1970.3) |