伏見町内専用軌道の記録

Trolley Right-of-Way in Former Fishimi Township


陸軍陸地測量部1:25,000地形図
大正11年測図-昭和2年修正測図
昭和6年部分修正-昭和7.10.30発行
(Army Map, 1931)
建設省国土地理院1:25,000地形図
大正11年測量-昭和36年修正
昭和39年資料修正-昭和40.4.30発行
(GSI Map, 1964)
 開業当時の伏見線にはかなりの専用軌道区間があったと言われるが,廃止時点でも5区間,延べ2kmほどの専用軌道(軌道法の用語では新設軌道)が存在した。棒鼻以南の軌道は,旧伏見町の既成市街地を避けて西側に新設されたためでもある。

 伏見線は1923(大正12)年に改軌されたが,改軌後も広軌I型の独壇場で,ボギー車が入線するのは,戦後に軌道中心間隔が拡大された後である。ただし丹波橋-肥後町間の急曲線の関係で,最後まで大型の1000型が入線することはなかった。しかし左右の地形図を比較すると,濠川橋梁南詰と肥後町の曲線は,相当緩和されていたことが読み取れる。

 本来の琵琶湖疏水は伏見城外濠であった濠川を利用した。左の地形図には1930(昭和5)年に竣工したばかりの琵琶湖疏水放水路が記載されているが,この時点では東高瀬川は旧河道である。その後西側に並行して現在の河道が開削されるが,用地買収が既に始まっていたことが直線状の荒地から読み取れる。

 伏見線開通時の終点は宇治川派流より1筋北の油掛町であった。1910(明治43)年に京阪電車が開通すると,舟運との連絡という当初の意義は薄れる。しかし中書島への乗り入れが成ったのは,市電開業後の1914(大正3)年8月であった。東福寺以南の京阪本線は,1978年まで法律上軌道であったため,右の地形図では市電と同格の扱いである。

 京阪本線は中書島駅西方で外環状線へ通じる道路をプレートガーダで渡る。この道路はかつて宇治川派流の京橋から伏見港公園を経て三栖に至るもう1つの河道であった。左の地形図では京橋以南で軌道に並行する河川が読み取れる。中書島を出た電車は,駅前のマンション北側を直進して河川を専用橋で渡り,その右岸に並行して京橋へ向かったが,左岸側の橋台は現存する。

※現在,濠川合流点以東の宇治川派流は西から東へ流れるが,これは宇治川本流の水位低下によるもので,本来の流下方向は東から西。
 財政再建計画(第2次)による最初の廃止路線に選定されたものの,棒鼻以南にはバスを運行できるような並行道路が存在しなかった。そこで廃止を前に,1969年11月1日を期して棒鼻以南の専用軌道2区間を単線運転とし,1線分を先行してバス道路(北行き一方通行)に転換する工事が実施された。このページでは,主として複線時代の伏見線専用軌道の姿を紹介する。


棒鼻専用軌道入口の京都駅行722号と中書島行800型。棒鼻の亘りはダルマポイントで進路選択信号は無用に見えるが,平日朝の折返し191系統が津知橋通の踏切警報機を作動させぬために必要(1969.4) 津知橋通踏切から棒鼻に向かう864号。電車の先の軌道内に見えるのは,亘り線の信号機に対する停止目標だが,この信号機は↑現示が定位。namachan様の「鉄道ファン半世紀」から転載(1969.6)
自動3種の景勝町踏切(棒鼻~丹波橋間)を中書島へ向けて快走する9系統863号。伏見線専用軌道区間の踏切は,自動1種・自動3種が各3ヶ所であった(1969.4)片線撤去工事中の琵琶湖疏水放水路橋梁と601号。まだプレートガーダは複線分ある。スーツ姿で視察に来た人物は当時の大橋交通局長か?(1969.12)
2つの専用軌道区間に挟まれた併用区間を京都駅に向かう9系統858号。琵琶湖疏水放水路に向かって上り勾配となる専用軌道はまだ複線(1969.4)複線時代の濠川橋梁(丹波橋-肥後町間)を渡って京都駅へ向かう9系統932号(1969.3)
最短の専用軌道区間は肥後町電停の前後にあった。ワンマン改造のラストナンバーとなった931号のツーマン時代(1969.12)現在は中書島駅への一方通行路となっている専用軌道を,京都駅へ向かう9系統863号。伏見港貨物線を分岐させる関係で,終戦直後にこのルートへ移設された。背後に中書島駅の屋根が見える(1969.3)
中書島に到着する9系統861号。出発信号機は電車が2次停止線まで進み,遮断機が下りると(↑)が現示された。背後に見える料亭「南つる」はマンション建替え後も営業を続けたが,09年に閉店(1969.3)中書島に留置中の722号。後にこの位置にバス用のターンテーブルが設置されたが,現在は駐輪場(1969.3)