京橋水路と伏見線

Kyobashi Waterway and Fushimi Line

|伏見区の歴史|
伏見線の油掛町(京橋)~中書島間は1914年8月に延長開業した。他の京電路線(堀川線・木屋町線・鴨東線)と同様に,この延長区間も幅員要求をクリアするために,京橋水路と称する川沿いの道に敷設されたが,京橋水路は1947年に埋め立てられ,現在ではその記憶も薄れつつある。このページでは「近代京都オーバーレイマップ」で公開されている昔の都市計画図を参考に,京橋水路と伏見線の関係を振り返る。

京阪線に並行する中書島橋から竹田街道を見下ろす。1960年代前半に橋の下に水面を見た記憶があるが,当時の航空写真に水面は残っていないため,単なる降雨浸水かも知れない。かつてこの場所には,宇治川派流と伏見港を繋ぐ水路があった。 廃止を目前に控え,旧河道では竹田街道から外環状線に抜ける道路整備が急ピッチで進んでいた。右側の資材置き場の部分には,戦後になって(1947年春)伏見港への市電貨物線が敷設されたが,51年9月に撤去されている。(1970.3)
1935年の都市計画図。京橋以南の伏見線は京橋水路の右岸に敷設されていて,現在三栖会館が建つ区画から中書島へ向かって橋梁が架設されていたことが判る。(Mouse-On)は1953年の都市計画図で,1935年図に計画事項を茶色で加刷している。京橋水路の北端に水色で示す堤防を新設し宇治川派流に舟入を残すと共に,それ以南は埋め立てて伏見港を掘込式に改築する計画が示されている。市電については橋梁を廃し,現在中書島駅への一方通行路となっている軌道を新設すると共に,地図には記入のない貨物線を廃止することが×印で示されている。一方,水色で示した京阪線に沿って疏水に繋がる細い水路は残されたので,これが中書島橋の下に水を供給する経路として機能したのかも知れない。(Click)で表示される現状のGoogle Mapとも比較されたい。
京橋水路を渡った橋梁の左岸側橋台は今でも残っている。右岸側の痕跡は残っていないが,三栖会館の裏側から見ると,左岸側の橋台は↓に見える物置の奥に当たる。
京橋から宇治川派流を望む。市電があった当時は荒れ果てていたが,親水空間として整備された。南岸には僅かな入り江があるが,かつてはその付近から右側に京橋水路が伸びていた。都市計画図にある京橋水路北端の保留水面は消えたが,跡地は「伏見みなと公園」とされ,竹田街道沿いの入口には冠木門が設置されている。本来の伏見港の跡地にある公園は「伏見港公園」であるため,名称が紛らわしい。
京電開業時の終点であった油掛町を,南3系統が中書島へ向かう。市電9系統の代替81系統は平日66本,竹田出橋以南で代替機能を持つ南5系統と105系統は計12本運行されているので,市電を代替するバスは78本(2018年時点)に留まる。背景の駿河屋の建物は今も変わらないが,鉄道友の会による記念碑は廃止直前になって建てられた。9系統714号が変則軌道を中書島へ向かうが,当時この区間には,9系統と18系統を合わせて170本以上(1966年時点)が運転されていた。(1970.3)
(10/23/2018)

伏見港貨物線


国土地理院:旧1万分の1地形図「伏見南部」1955年2月28日発行
戦争末期の燃料不足を補うため,市電沿線各所に貨物用の引込線が設置されたが,伏見港の貨物線は京阪線との立体交差を含む大掛かりなものであった。当初京阪側の引込線のみが建設され,遅れて市内輸送への連携を図る目的で市電側の引込線(京阪共用部を除く延長243m)が追加されたが,「関西の鉄道」38号(1999)によれば,伏見線の経路変更(引込線接続のための軌道移設)が46年8月3日竣工,引込線が47年3月31日新設と,工事は終戦後に行われている。しかし舟運の衰退と燃料事情の改善により,恐らくはさほど活用されることもなく,51年9月18日撤去に至る。

僅か4年間のみ存在した路線であるため,殆ど記録は残っていないが,知る限りでは1951年修正測量に基づく旧1万分の1地形図が,唯一この引込線が記載された公的記録になっている。米軍統治下の大縮尺航空写真は,46年7月24日撮影のもの(Mouse-on)に限られるが,この時点では市電側の経路変更も竣工前であり,工事中で雑然としているが,45年10月31日に竣工したはずの京阪側の引込線の線形も判然としない。

(5/29/2021)