伏見線単線運転の記録

Single-Track Operation before Abolition of Fushimi Line

棒鼻以南にはバスを運行できるような並行道路が存在しなかったため,廃止を前に,1969年11月1日を期して棒鼻以南の専用軌道2区間を単線運転とし,1線分を先行してバス道路(北行き一方通行)に転換する工事が実施された。このページでは,廃止直前の単線運転の状況について紹介する。



筆者が「単線運転」が行われることを知ったのは,上の交通労組のビラだったろうと思う。「伏見線の廃止にともなう一部区間の単線運転」というのが,専用軌道区間を指すであろうことは想像に難くなかったが伏見まで出掛ける機会がなく,次に伏見線へ行ったのは単線化後の12月17日であった。労働組合にも活気があって,ストライキが年中行事であった時代背景も隔日の感がある。

左は丹波橋電停に掲示された単線運転のお知らせ(1969.12)。単線運転に「よろしくご協力」というのは何を期待されているのか不明だが,この他,一部の交差道路にも「市電は単線運転をしているので,左右をよく確認すること」といった看板が出ていた。

右は単線化による配線の変化を示す。伏見線の専用軌道区間は,短いものも含めて全部で5区間あったが,この2区間が単線化されたのは,並行するバス道路が無いことに加えて,区間内に橋梁を含むことによると考えられる。この区間内には警報機付踏切道4ヶ所に加えて,併用区間の交差道路である下板橋通にも警報機が設置されていた。

棒鼻~丹波橋間が上り線,丹波橋~肥後町間が下り線を利用した単線運転となった理由は不明であるが,これに伴って踏切警報機を作動させる軌道回路についても配線変更が実施された。運転は特殊自動閉塞となったが,濠川橋梁の区間はコンタクタを使用したようだ。

従来この区間内の(↑×)信号機は棒鼻の渡り線に関する1基だけであったが,単線化に伴って計4基となり,分岐は4ヶ所ともスプリングポイントが設置された。基本的に続行運転は不可能であったが,棒鼻折返し電車に関しては,進路選択信号によって閉塞内在線に拘らず,例外的に単線区間北端を利用した折返しが許可された。

閉塞進行!(棒鼻)

前頁と同アングルの棒鼻電停の廃止直前の写真。電車は京都駅行933号。道路は供用前だが,1年前には線路際まで並べられた野菜が,もはや外に並べられる状態ではなくなったことを物語る(1970.3)自動閉塞信号機が設置された単線化後の棒鼻を中書島へ向かう18系統508号。道路供用は3月以上先だが,軌道敷は買物帰りのおばちゃん達の近道と化している(1969.12)
前頁と同アングルの景勝町踏切の廃止直前の写真。電車は旧上り線を中書島へ向かう502号。下り線側の路盤工事は完成し,舗装工事を残すのみとなった(1970.3)琵琶湖疏水(放水路)橋梁-丹波橋間の京都駅行709号。既に片線は撤去されているが,架線は複線のまま残っている(1969.12)
濠川橋梁を含む区間は下板橋通の手前まで単線化された。中書島へ向かう9系統709号だが,方向幕は早手回しに「京都駅」に変えられている。南詰の崩れかけた土蔵の陰から508号が顔を出した(1969.12)廃止準備工事で片線撤去作業中の濠川橋梁を京都駅へ向かう9系統601号。この区間は架線も単線化された(1969.12)