Cover Photos Archive
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鉄道ファン半世紀|車両写真|向日葵写真館|京都市電の廃線跡を探る

烏丸車庫に戻る1861号が,府立大学前の系統通知信号機に白色灯で進入する。13い系統は,以前は(14)現示で進入したが,壬生廃止後は白色灯での進入に変更された。折しも急行時間帯だが,この信号機のために「急行通過停留場」への運転停車が避けられなかった。(1977.6)

丹波橋~大手筋間の伏見線には2ヶ所のクランクがあった。明治期の地形図と比較すると,何れも市営化後に曲線が緩和されたことが解るが,それでも1000型は入線不可だった。9系統714号が,交差点に残る一軒家裏手の肥後町下り停留場に停まる。軌道外に1車線分のスペースはあるが,トラックが駐車できるほど交通量が少なく,家電の個人商店も(東芝も殆ど)過去の物となった。(1969.4)

錦林運輸事務所と出入庫線。出庫線には(2)を掲出した1828号を先頭に,1800型が並ぶ。北方向への出庫車は正規の乗降場所を経由しないため,運輸事務所脇で客扱いをする場合があった。操車窓口右側の棚は,本来横板を並べる場所だったが,この時期には既に使用されていない。(1973.3)

西大路三条で信号待ちの22乙系統1834(?)号の前を,四条大宮行の嵐電が横切る。市電沿線にあった5ヶ所の私鉄との平面交差のうち,最後まで残った3ヶ所の1つ。当時嵐電の停留場は「三条口」と称した。(1977.7)

今出川線から河原町線に入る15系統1924号。下鴨線が無かった時代,この亘りは烏丸の河原町線への主要経路だったが,その後も同志社への通学を考慮して運転が続けられた。烏丸線の廃止後に,四河から北野経由烏車方面への系統は設定されず,使用中止になった。(1974.3)

烏丸五条を行き交う4乙A系統2610号と続行する6ろ系統700型,北向する恐らく4乙B系統の2000型。何れの電車も満員で「乗客減のため廃止」という交通局の説明には無理があった。(1972.3)

西大路七条から京都駅へ向かう4A系統2613号。西大路七条の亘線は東詰にあり,今出川線全通後暫くは22乙系統がここで折返していた。17系統は既に廃止されていたので,安全地帯で待つのは,8乙系統で七条河原町以東を目指す人々になる。(1977.6)

高倉跨線橋から京都駅へ向かう9系統934号。崇仁北部第一地区の改良住宅は1967年~84年に建設されたが,22号棟は70年の竣工であり,廃止目前となった塩小路高倉南詰の路側停留場の真横で工事が進む。50年の時を経て,京都市立芸術大学の新キャンパス(C地区)となり,22号棟は音楽ホールを含むA棟の敷地になった。(1970.3)