かつて北野車庫前で,現在も保存車となっている27号が展示されていた頃,Click HERE for English.
運輸事務所で配布していたリーフレットの内容を原文のまま紹介します。
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明治28年1月31日,京都電気鉄道株式会社により京都駅前~伏見京橋間に狭軌(1.067メートル)電車が運転されたのが日本で最初の電車です。 これとは別に,京都市は明冶45年6月11日から市営の,しかも標準軌間(1.435メートル)による電車を運転し,その後も着々と軌道の敷設をすすめました。そして大正7年7月には会社線を京都市が買収し,以後昭和2年4月までの間に漸次狭軌線の軌間を拡張したり,路線を廃止したりして整備,拡充を行いました。 更に昭和に入ってからは市内外郭線を,また戦後も計画路線の建設を行って今日の市街電車綱を形成してきましたが,その中で堀川線だけは諸種の事情から狭軌のままで運転されてきました。 ここに陳列している電車は明治28年9月24日堀川線の一部中立売~下立売間の開通以来66年の永い間,広くチンチン電車の愛称で親しまれ,市民の足として運転してきた日本最古の路面電車ですが,車両も老朽化し,軌道の保守にも多額な経費を要するようになって輸送力の限界にきたので,遂に去る昭和36年7月31日限りで廃止されたものです。 そして現在では,この電車の走っていた区間に新しいワンマンカーバスを運転し,引続いて旅客の輸送にあたっているのです。
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![]() 堀川橋梁を渡る市電9号 |
左に晩年の狭軌線の配線を示す。狭軌線が「西廻線」だけになったのは27年4月5日だが,それ以降も小刻みな路線短縮が実施された。当初の建設距離は6,548mと推計されるが,52年11月22日付で京都駅前西乗り場完成に伴い101m短縮され,北野線乗り場は西乗り場2-3番線のすぐ北側に移設された。さらに10号線建設に伴い,北野終点が「一の鳥居」東側から今出川通蜊怜・に,57年3月17日付で82m短縮されたので,最終的な建設距離は6,365m(営業距離6.3km)になった。北野線開通当初,鳥居のすぐ横に待機する京電の写真が残るが,当時は北野天満宮の境内が下の森まで拡がっていた。後年にも似た構図の写真があるが,12年5月の延伸後の終点に,21年10月になって一の鳥居が移設された結果である。10号線の紙屋川開通(57.4.3)に際して北野線は短縮されたが,折返し亘線は57年2月12日付で南詰に移設されている。さらに同年12月21日付で,三哲(木津屋橋通)にあった亘線が撤去されている。
狭軌線の北野出張所は28年1月10日に,それまでの三哲出張所に代って開設されたが,車庫廃止後,三哲には40年まで留置線が1線のみ残されていた(右写真;4月16日撤去申請→6月3日竣工)。三哲の亘線の配置は南口操車場と相似であり,京都駅への配車に即応可能だった。北野車庫自体は,終点側に複線の出入庫線,起点側に単線の出庫線を有するだけで,車庫前に亘線は無かったが,狭軌線の亘線は千本中立売・堀川丸太町・四条西洞院と比較的多かった。このうち定期運用があったのは四条西洞院のみと考えられる。
三哲には京電の本社・車庫が東洞院から移転して来ており,18年7月の買収時に市が引き継いだが,右写真(交通局Archive)の建物は京電由来のものと思われる。28年1月の市電車庫廃止後,同年5月10日に最初の市バス車庫として三哲車庫が開設されている。敷地が狭いためか,三哲の市バス車庫は不安定で,42年4月に廃止,51年4月に再開,54年12月に廃止,70年4月に3度目の開設,77年10月に九条の支所に格下げされ,83年11月に支所としても廃止されるという経緯を辿っている。しかし用地を下京区役所に提供しつつ,86年4月から京都駅直近の操車場として現役で運用されている。
(9/8/2024)
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