七条線に沿って

Along the Shichijo Line

1926年から43年に掛けて運用された七条大橋操車場は,その位置を含めて謎が多いが,中央市場引込み線や内浜架線詰所等,七条線にまつわる幾つかの疑問を,国土地理院が公開している米軍撮影の航空写真を始めとする地図情報を用いて考えたい。

陸地測量部1:10,000地形図「京都南部」1938年測量,1940年4月30日発行。1:10,000地形図は地物記載が比較的正確で,例えば左の〇印で示した七条大宮には3方向の渡り線が記載され,また塩小路高倉には京都駅方から伏見線への渡り線のみが記載されている。しかし一方で,七条内浜の点対称の渡り線が記載されない等の不備もある。九条車庫が大宮線に接続されるまで南部方面の操車を担った,七条大橋操車場(1926~39)の位置に関しては明確な記録が無いが,この地形図で七条大橋東詰南側に〇で囲った空き地がそれに該当すると推察できる。七条大宮の東~南の渡り線が,七条大橋操車場から西大路駅方面への配車の便を図るものだとすれば,それが有用だった期間は,1935.8.21の七条~九条大宮間開通から39.2.21の九条油小路~大宮間開通までの短期間に留まる。
大戦末期には,トラック燃料の不足により貨物電車が運転された。各所の貨物線の工事竣工は1944.7.31,営業開始は9.21とされるが,燃料事情の好転等により,49.6.30限で運転は休止されている。最も遅くまで残った中央市場の引込み線は,公式には57.8.5撤去とされるが,実際には60年代半ばまで軌道が残されていた。1946.7.24に米軍が撮影した航空写真にも,引込み線がはっきり写るが,Mouse-onで当時の配線を強調してみる。軌道は単線で,延長140mであった。
上と同じ日に米軍が撮影した航空写真には,七条大橋操車場と思しき敷地(現況は建材店)から出入庫線が延びているように見える。川端丸太町や高野の出入庫線は複線だったが,七条大橋は単線に見えるため,近くに片渡り線が存在したはずだが,西側だと京阪線に近づきすぎるから東側だろうと推察した結果がMouse-onである。操車場が使われなくなって7年経過した時点の画像であるため,実際どの程度痕跡が残っていたかは不明。上屋へ向かって斜めに停車する車両らしき物体が写る別ショットもあるため,多分構内分岐があったらしいと想像した結果に過ぎない。七条内浜の点対称配線もはっきり見える。
左は京都府立総合資料館(→京都府立京都学・歴彩館)所蔵の「昭和26 (1951)年頃京都市明細図」に見る七条内浜付近である。元々市電河原町線は新寺町通に敷設されたため,交差点名は「七条寺町」と記載されているが,塩小路通への直進ルートは1929.1.16に開通したにも拘らず,軌道は昭和2(1927)年版のまま修正されていない。

河原町通東側に「交通局内浜出張所」と書かれた,橙枠で囲った区画がある。これは運輸上の出張所ではなく,旧内浜架線詰所(出張所)という工務系施設とされる。しかし京都市交通局「軌道事業略史」(1952)によれば,当時の架線詰所は烏丸・川端・壬生・九条の4箇所であり,七条内浜は「電気課通信係詰所」として,信号・通信関係を担当していたようだ。

市電廃止後も建物はそのままの形で残っていたが,2015年に競売に付され,改修を経て16年5月から開化堂カフェとして営業している。17年には,国の有形登録文化財の指定を受けた。(現況については,近代建築レストラン散歩等を参照。)

(4/19/2020)