このページでは1912(明治45)年6月から1913(大正2)年8月にかけて開通した,市電(広軌線)第1期線の運転状況を振り返る。
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左図は60年頃の第1期線上と,それに隣接する折返し亘線を記載している。赤は後年になって設置された亘線,緑は比較的早い時期に撤去された亘線を示す。初期には1期線上の知恩院前(~27年頃)と七条大橋東詰(~39年頃)に操車場があったが,その付近にも亘線が存在した可能性が高く,東山三条北詰にも,蹴上線・京津線関連と思われる折返し線が戦後まで存在した。それらを含めても1期線上の折返し線は比較的少ないが,1期線の外郭の角に当たる箇所の2期線側には,殆ど例外なく折返し線が設置されたことが分かる。なお四条河原町には南北に折返し線が存在したが,四条線との間に亘線が存在したことが無いため省略している。
四条大宮はかつては重要なターミナルだったが,南詰の折返し線の設置は53年3月であり,それまでは四条大宮を起終点とする系統は,ミブまたは四条西洞院まで行って折返していた。四条西洞院の折返し亘線は東詰にあったが,狭軌線廃止後に西詰に移された。3線軌条区間の亘線設置が難しいからだが,その意味では烏丸丸太町北詰の亘線も,3線軌条解消後に設置された可能性が高い。
1期線外郭の2期線側に亘線が設置される場合が多いのは,第2期線の部分開業時には枝線として線内折返し運転をした名残と言える。ただ七条大宮南詰には亘線が無いが,20号線(七大~九大)開業時には,線内折返しのさ系統が設定されていた為,かつては南詰に亘線があったと見るのが順当だろう。
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四条烏丸から西を望む。横切る電車は烏丸塩小路行で西~南の亘りは見えるが,東~北の亘りは無い。交差点中央に立つセンターポールの威容が際立つ。(石井行昌氏「さよなら京都市電」) | 「商業の中心地たる四条烏丸付近の盛観」昭和初年撮影の有名な絵葉書は四条烏丸から東を望む。明らかに西~南の亘りは無いが,架線の絶縁区間が東~北・東~南の亘りの存在を物語る。 |
市電第2期線は,1923(大正12)年10月の烏丸線・今出川以北の開通から始まるが,それらは1919(大正8)年制定の旧都市計画法に基づく市区改正街路として計画された。
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路線別道路幅員を明記した都市計画図はWeb上では見当たらないが,数値だけなら「京都市区改正設計街路」に記載がある。左表は該当部分の抜粋であるが,部分的な変更を経て1947(昭和22)年までに確定した。
左表では,2号堀川線は紫明通以北の291mとされるが,当初計画は中立売~北大路間であった。紫明通以南は戦時拡幅の完了に伴い,後に除外されたものと考えられる。また7号線と14号線が欠番となっているが,前者は烏丸線の北大路~今出川間,後者は塩小路経由の七条西洞院~内浜間に相当する。 |
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市区改正街路計画と市電第2期線:起終点位置に関する若干の曖昧さは残るが,キロ程を考慮すると市区改正街路は概ね左図のように描ける。なお第1期線以降に建設された今出川線・烏丸~寺町間(1917年10月)と大宮線・七条~九条間(1935年8月)は,上の第2期線の計画路線には含まれていない※注。 ※注:後者について,「電気事業成績調書」では「20号線」という飛び番で言及している。 5号線は木屋町線の別線広軌化として計画されたが,河原町(新寺町)通に決まるまでには,市会等でかなりの議論があった。最短の15号線は,二条線を廃止して残る蹴上線を東山線に接続するための路線だが,唯一不要不急線として休止後,復活することなく廃止された。 北野線は最後まで狭軌で残ったが,当初は西洞院線の七条~四条間と中立売線は,烏丸線及び今出川線と近いため廃止し,堀川線・四条~北大路間は広軌線とする計画であった。14号線に含まれる七条西洞院~京都駅間は広軌化し,大宮・河原町・東山方面からの広軌線を,京都駅前経由でスルー運転することも検討された。 |
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