| 壬生=赤,烏丸=緑,九条=紺,錦林・北野=白という配色は永く親しまれたが,この配色が昔からの伝統かと言えば,必ずしもそうではない。本系統板及び「臨」については縁取りも規定されていたが,文字色と同色または同系色とされ,錦林・北野については,水色・ピンクが採用された。「終」については文字色と同じ赤色で縁取りするとあるが,縁取りが規定されない「試」も併せて,晩年を除いて北野と同色のピンクが使用された。「梅津線」の赤色は壬生所属だからと思っていたが,規程上別項目が存在し,縁取りが省略されたのも別項目ゆえだろう。なお「練習車」なる円板が規定されているが,見たことがない。 | |
57年7月は,広告入のサボ挿しを使うようになった時期だが,当初は左写真(©デジタル青信号)のように,タテの補剛材が1本で,サボ挿し自体をサボの如く既存のフックに引っ掛ける形で使用された。当然,軽量かつ不安定だったため,サボ挿しが斜めになった当時の写真が散見される。62年頃に構造が変更され,右写真(梅小路公園)のようにタテの補剛材が2本となり,既存のフックにビス2本でネジ止めの上,下部にゴム足が付けられた。サボ挿しの縦横比も1:1に近づき,新しい形状では円板の下部2/3程度までサボ挿しに収容される形態になった。 本ページでは,上記の「最終形態」に至るまでの京都市における系統板の変遷について,「拾遺集」の記事を年代順にまとめる。 |
12系統は写真の当時,北野~西廻線~烏丸塩小路~東廻線~北野の循環系統だった。国会図書館で公開されている鉄道省編「日本案内記近畿篇・上」(1932)には,上表のように系統が紹介されている。その内容を系統図にしたものが右下(クリックで拡大)だが,時期的には31年9月18日の河今-百万間開業以降,同年12月25日の大徳-烏車間開業以前であり,東七-東福間が4系統を称することから,同年10月10日以降の2ヶ月間の系統を表現している。なお上表では2系統が七条烏丸で西~北に転線したように読めるが,実際には京都駅前ループ線に入って折返す運用だった。
第1期系統番号制では,循環系統にも単一の数字を割当てたが,反時計回りが白板,時計回りが赤板のように,系統板の色で区別されたことが判る。ここでは循環系統となる2-5-6系統以外に,系統図に赤線で示した1-12-17の3箇系統についても赤板が採用されている。これらが基幹系統であったか否かは不明だが,何らかの区別があったのかも知れぬ。
なお左下の12系統は白板になっているが,これは反時計回りの系統であり,逆回りには赤板が用いられたと推察できる。その場合,烏丸塩小路から西廻線で北野へ向かう系統は赤板だったはずで,それが単純な往復系統になっても維持されたのだろうか?
壬生 烏丸 九条 北野 |
京都駅前ループ線 烏丸塩小路(東) 烏丸塩小路(西) う-ゑ-き-ち-つ-ね を-く-た-と-も-や ろ
左下の系統図は2016年6月頃Web上で拾ったものだが,どのページだったか出自は不明だ。京都駅以南が欠損しているため,細かい時期の特定は困難だが,37年4月の千今直進軌道敷設以降,38年12月の西七~西八間開業以前の状態を表しており,壬生の(う-ゑ)系統が北大路経由の循環運転である点が上のリストとは異なる。図には系統板の絵が添えられていて,烏丸所属系統は後の錦林のような白地に黒字で表現されている。ただ印刷の都合か,九条の系統は青地の白抜きで表現されていて誤解を招く。右下に当時の系統板(円板)のサンプルを示している。
戦後,銀閣寺操車場は壬生の担当だったが,この系統図から当時は烏丸の所管だったことが判る。(き)系統は,後に行先が高野に変更されたが,高野操車場もまた烏丸の担当だった。この結果,か行の系統は(か-け-こ)が壬生,(き-く)が烏丸,な行は(な-に)が壬生,(ぬ-ね-の)が烏丸と,分割管理されていた。系統図では,北野の(ろ)系統が薄青~灰色バックになっているが,右中の交通局archiveの写真(主眼は女子車掌の登場にある)からは白板赤字が正しく,当時は円板に縁取りが無かったことも判る。写真は上の木屋町御池における車両と同じN125号だが,"vestibule"設置後の状態が捉えられている。
これには市電系統が左表のように掲載されるが,2系統(京都駅)と4甲系統(西大路駅)の終点の交換は46年7月1日であり,2系統は51年3月15日に西大路九条に延長されたので,その間の系統を表している。しかし補一系統の終点は46年7月1日に熊野に延長されていた為,必ずしも正確ではない。また11系統(梅津線)では数字の系統板は無かったが,「西大路四条/梅津間」と書かれた系統板が使われていて,終点を「北広町」と称した事実はないと思われる。
系統板の色に関しては,壬生の赤板,烏丸の白板はひらがな時代と同様だが,九条は「緑板」と明記されている。この時期の系統板は長方形だったので,そのサンプルは下図のように描くことができる。系統板が円板に戻るのは,52年12月1日の系統全面改正時とされるが,その時期の系統板は,烏丸が従来のような白板だったことを除いて,使用が短期間に留まったため殆ど記録が残っていない。依然として系統板の掲出は車両前部のみだったことも,記録の少なさに寄与している。
53年11月1日からページ最上部の規程に定める配色が採用された。その時点では錦林車庫は未開設だったが,54年3月1日の操車場開設に向けて工事が進んでいた時期なので,55年1月16日の営業所開設は当然織込み済みのはずだ。この時点で,白板は烏丸から錦林に,緑板は九条から烏丸に移り,九条には新たに紺色が割り当てられた。戦前の方向幕では,「烏丸車庫」を含む今出川以北には緑地白抜きが用いられたので納得感はあるが,京都では青地の方向幕は使われたことは無いはずだ※注3)。
注1) 他には神戸市電が,同様に系統板の車庫別色分けを行っていた。
注2) 日本語では「青信号」や「青葉」のように,「緑」を「青」と記述する慣習があることの弊害と言える。
注3) 北野を除いて車庫は4つだが,平安京を形作った「四神思想」は反映されていない。それなら南の九条が赤,西の壬生が白,東の錦林が青となったはずだ。