烏丸線に沿って

Along the Karasuma Line

Memoranda掲載の画像を北から南へ再編集しました。一部はSlide Showに含まれますが,他ページに転載した画像は除いています。
1974.3.30(Sa)朝6時台,(4乙A)烏丸車庫→京都駅,2607号 (19'13")
Photographed in Mar. 1972 unless otherwise noted.
烏丸線では同志社の存在が大きいが,もう一つの大学,大谷大学の赤レンガ建築を横目に,市電15系統1835号が今出川経由京都駅を,多区間ワンマン30系統が四条大宮を目指す。市バス30系統は,烏丸線より一足早く姿を消した。 鞍馬口変電所(現・部落解放センター)前を走る6い系統2601号。
雨の烏丸鞍馬口で2614号と離合する6い系統871号。866型は京都市初の間接自動制御車として1953年に登場し,全金属製の車体を持つが車内照明は管球だった。ナニワ工機製の871-880号のグループは,ワンマン改造されることなく1971年7月に余剰廃車となり,錦林車庫で解体された。(ca.1969.11) 烏丸鞍馬口で客扱い中の4乙B系統1862号。系統通知信号機は(6)が点灯中だが,接近表示区間の入口となる停留場には,2本の停止線が引かれており,(4)の点灯を待って2次停止線に進む必要があった。某予備校への通学客で賑わったが,大学全入時代には抗えず2010年に閉校した。
烏丸中学前~上立売間を南下する6ろ系統708号。伏見線廃止以前の烏丸は,間接制御車の牙城だったため,700型直接制御車の在籍は,伏見線廃止から烏丸線廃止に至る4年間にほぼ限られる。708号は九条からの転属だが,この時期の6ろ系統はツーマン運転だったため,錦林・九条と比べて,ツーマン車が多めに配置されていた。もう時効だが,運転士氏の両手はスマホでも持つような位置に見え,手放し運転中? 同大生の定期券は「同志社・今新」を着駅とする特殊なものだったが,学生紛争華やかなりし時代,その中間の烏丸今出川交差点には,よく催涙ガスが漂っていて泣かされたものだ。最初のゼブラゾーンとなった北詰電停で,6い系統2611号と15系統1849号が客扱いをする。築地の中の木造建築は図書館に変貌した。
同志社大生を京阪と引継ぐことを任務とした15系統1931号が烏丸今出川を曲がる。次は6ろ系統708号,その後の2000型は4乙だろう。点対称の亘り線が特徴的だが,かつては七条内浜,河原町丸太町もこのパターンだった。卒業式と入学式の間の長閑な春の午後。大礼記念の電気時計は2時40分を指す。 壬生廃止で,11系統に代わって烏丸今出川を左折することになった5甲系統1924号。今出川通が狭隘なため,左折系統のみ交差点南詰で客扱いを行ったが,烏丸側にも安全地帯は設置されず,路面マーキングのみの停留場だった。
烏丸中立売の4乙A系統1835号。京都御苑の九門のうち,市電停留場と位置が揃うのは,中立売門と今出川門(同志社前)の2ケ所だけだったが,京都駅前の案内板では,当所を京都御所の最寄停留場と表示していた。オート三輪は既に絶滅危惧種だったが,まだ街中でも時々見掛けた。 烏丸通の丸太町以南は行幸道路として広幅員で建設されたが,丸太町以北と中心線は一致しておらず,烏丸丸太町交差点にはS字曲線が入った。かつては烏丸今出川と同形の点対称な亘りを持つ交差点だったが,御所側の亘りは狭軌だった。写真はS字曲線を通過する5甲系統2601号。
烏丸夷川の京都新聞本社前を行く4乙A系統2001号。京都放送(KHK→KBS)は当初,烏丸通西側の商工会議所の赤レンガに入居していたが,近畿放送改称直後に向いの京都新聞社内に移転した。民商の「付加価値税反対」看板が見えるが,大平内閣が一般消費税5%を提起したのが1979年,消費税3%導入は89年竹下内閣なので,反対運動が随分前から存在したことが解る。 四条線は消えても交差部の軌道が残る四条烏丸を,6ろ系統1864(?)号が行く。依然として山鉾巡行時に架線を切断する必要はあったが,四条線があった頃の「擦り板」は無くなった。手前の三井銀行は三井住友銀行,奥の協和銀行はりそな銀行に変わり,建物も建替えられた。
東本願寺前では,烏丸線の軌道は門前を避けて東側(不明門通)を迂回していた。この区間の道路幅員は66メートル余と,市電運行区間では最大であったが,北行の自動車は本来の烏丸通を直進するため,迂回区間の北行交通量は極端に少なかった。蓮の花の噴水の向こう側を,4乙A系統1800型が京都駅へ向かう。 七条烏丸を北上する6い系統1836号。市電は東本願寺前を迂回するため,北詰の安全地帯は南北軸から東に振られていた。明治時代の覚書を盾に,地下鉄についても迂回を要求したという話が伝わるが,さすがに地下鉄は烏丸通を直進している。市バスは昔から当所を烏丸七条と称するが,市電も烏丸線の方が七条線より早く開通したため,なぜ逆転が生じたかは謎。
消えたもの,京都市電と東京生命。東本願寺前を不明門通へ迂回する6い系統1920号 丸物屋上は東本願寺前の不明門通を写すには絶好のポイントで,岩波写真文庫にもこのアングルの写真が登場するが,この写真を撮った1972年当時は残念ながら柵まで近づけなかった。七条烏丸には2600型が停車中で,後から700前期型が近づく。

七条烏丸を右折する6ろ系統1851号だが,6系統がこの交差点を経由するのも後数ヶ月。6系統の前身と目される「き」系統は,設定から半年は塩小路高倉経由だった経緯があるので,最後は元に戻ったとも考えられる。丸物(→京都近鉄)百貨店に限らず戦前期の大建築は,旧・市街地建築物法の31m規制により殆どが7階建で揃っている。(1977.5) 烏丸線が1区間だけに縮小された時期,丸物百貨店前に2610号(6)が近づく。渡辺節による1938年竣工の近代建築は,京都近鉄の時代を経て取り壊され,跡地にはヨドバシ京都店が2010年に開店した。(1977.7)
(10/19/2020)