京都電気鉄道(以下京電)は日本最初の市内電車として,1895年に開業した。このページでは,市電への統合に至る軌道に関わるハード的な事項について,時間を追ってまとめる。具体的には,①京電が水路沿いに建設されることになった有効幅員に関する法制度,②1908年から進められた複線化の経緯,③12年開業の市電との重複区間において実施された「六線共用」,④18年の市電合併以後に実施された「広軌化」に関する件である。
京電と軌道建設規程![]() |
第八条 併用軌道ハ道路ノ中央ニ之ヲ敷設シ左ニ掲クル車体外有効幅員ヲ存セシムヘシ
第九条 街路、特ニ主要ナル国道、主要ナル国道及特ニ主要ナル府県道ヲ除ク他ノ道路ニ於テハ左ニ掲クル車体外有効幅員ヲ存シ軌道ヲ其ノ一方ニ偏シテ敷設スルコトヲ得
第十条 本線路ニ於テハ並行セル両軌道中心間ノ間隔ハ車輛ノ最大幅員ニ400mmヲ加ヘタルモノヨリ小ナルコトヲ得ス |
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左図に示すように,京電の軌道は水路沿いに敷設される場合が多かった。中段は「軌道建設規程」の抜粋だが,第8条では,人家が連坦する街路では,軌道の外側に基本的に4.55mの余裕幅員を取るべきことが指示されている。例えば木屋町通では,西側の余裕幅員に高瀬川を組み込んで基準をクリアしたとされるが,どこまでを街路敷と認定するかで解釈が異なる。第9条は,街路の片側に寄せて敷設する場合の基準だが,京電の軌道は水路側に寄せて敷設される場合が多かったが,例えば蹴上線では疏水右岸の人家を考慮せず,仁王門通で完結したと考えられる。
「軌道建設規程」は1923年の制定であり,前身となる「軌道条例」を廃して「軌道法」に変わる時期に相当する(軌道法は21年公布,24年施行)。軌道条例の時代にも同様の規程があったと推測されるが,軌道条例は1890年制定であり,当初は馬力や蒸気力による軌道が想定されていた為,火の粉による類焼防止を考慮する必要があった。その意味では,人家から離す目的が後の交通空間の確保とは異なり,水路を挟むことは寧ろ好都合だった可能性がある。
第10条は軌道中心間隔に関する規程だが,車両最大幅+400mmを取ることが指示されている。右は西洞院線を含む陸軍地図(1912年)だが,(Mouse-on)で示す1892年の仮製図では,西洞院通には川が流れている。これでは幅員が不足するため,西洞院川を暗渠化して,その上に軌道を敷設したとされるが,西洞院線が当初から複線で建設されたと推測する根拠の1つは,他の路線が軌道中心間隔9ft(2743mm)で複線化されたのに対し,西洞院線の軌道中心間隔は8ft(2438mm)と狭いことにある。狭軌I型の車体幅は2020mmだったので,すれ違い時の余裕は418mmしかなく,基準ぎりぎりであったことが判る。8ftの軌道中心間隔に広軌I型(車体幅2286mm)は持ち込めず,9ftで辛うじて457mmを確保できる程度だったが,この規格が後の改軌に影響したと考えられる。(1/16/2025)
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京電複線化京都電気鉄道は単線で開業し,市内随所に交換設備を設けたことは知られているが,最後まで単線で残った出町線を除いて,交換設備の位置は断片的にしか分らない。 「市営電気事業沿革史」(1933)には「明治41(1908)年藤本清兵衛氏社長となるに及びて木屋町線・西洞院線・堀川線・北野線・伏見線の複線敷設を断行し,大いに業績の進展を見,43(1910)年3月藤本氏社長の任を退くや古川為三郎氏社長に就任せるも僅か4ヶ月にして辞職し,其の後を受けて大澤善助氏同年9月社長となるや増資を断行して…寺町-丸太町-下立売線・鴨東線 を複線とせり。茲に於て出町線を除く外全部複線となり,市内の交通を独占せるが故に…社運益々隆盛に向へり。」とある。 京電の開業当初のターミナルは塩小路東洞院であり,東洞院以西の塩小路線は存在しなかった。上では1908年以降に複線化された路線に西洞院線が含まれるが,この区間の開業は04年12月と比較的遅く,最初から複線で開業したとの説もあるが,少なくとも塩小路部分(東洞院~三哲間)については複線開業の可能性が高い。東廻線のうち上珠数屋町・間之町経由の区間は,01年1月に新寺町経由に付け替えられているが,同年8月に高倉線が開業し,七条高倉~塩小路東洞院間は単線並列で複線化済だった為である。なお塩小路線の高倉~東洞院間の伏見線との単線並列による複線化は,01年4月縺ョ竣工と考えられる。 左図は,路線別の複線化時期をまとめている。黒は当初から複線開業と見なせる区間,青は1908年以降の複線化,緑は10年9月以降の複線化とされる区間を示す。北野線・伏見線・鴨東線の末端区間(下之森~北野,京橋~中書島,南禅寺~蹴上)は遅れて開業したが,このうち前2者は当初から複線開業だったと考えられる。伏見線は08年以降の複線化に含まれるが,竹田街道の新道(勧進橋架替えを含む)が開通したのが11年,その翌年に京電は東高瀬川沿いの旧線から新道に移設されているので,この区間の複線化は新道への移設と同時に実施されたと考えるのが順当だろう。城南線については,市電開業に伴い12年5月に押小路から御池通に移設されているが,押小路線に関しては複線化の記載はない。(8/4/2024) |
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六線共用(3線軌条)市電開業時,既存の京電路線と同じ街路への軌道敷設は,3線軌条で行われたが,これを当時の市民は「六線共用」と呼称した。烏丸-丸太町-四条-七条の市内4線区に存在したが,四条線(西洞院~堀川間)以外の3線区は1927年4月までに解消された。3線軌条にすれば,異なる軌間の車両を通すことは容易だが,問題は駅(停留場)にある。軌道中心のずれは駅のホーム等に支障するから,駅部では4線軌条にし縺ヲ軌道中心を一致させる等の工夫が必要になるが,両軌間の車幅が異なる場合はその限りではない。 1930(昭和5)年4月に鉄道がメートル法に移行するまでは,鉄道全般の寸法はマイルやフィートで記述された。図下側の図面では,広軌線の軌道中心間隔は10'6"(=3200mm)と記載され,外側に寄せられた狭軌線の軌道中心間隔は11'8½"(=3569mm)と相当広い。問題は停留場で,晩年には3線区間の安全地帯は四条西洞院西詰東行しかなかったが,狭軌車の外側軌道からの張出しが(2020-1067)/2=476.5mmであったのに対し,広軌I型のそれは(2286-1435)/2=425.5mmとむしろ小さかった。 大正末期には,200-300-500型の半鋼車が登場したが,車幅は2388mmで統一されていて,外側軌道からの張出しは(2388-1435)/2=476.5mmと,狭軌車と同寸法だった。むしろ2388mmは,3線共用区間で安全地帯の位置を狭軌車と統一する為に選択された寸法ではないか,と疑われる。逆に狭軌線に200型並みの車両を導入すれば,張出しは(2388-1067)/2=660.5mmとなり,既設安全地帯に184mmも食い込むことになるから,3線軌条区間に安全地帯を設置することは不可能と言える。 津軽海峡線では,京都市電と同じく狭軌が外側に寄せられているが,これも狭軌側の車両限界が小さい為と,すれ違い時の風圧を軽減する為だろう。一方,奥羽本線の秋田新幹線共用部分(神宮寺~刈和野間)や,かつて存在した石山坂本線(浜大津~膳所間)の片線3線化では,狭軌が内側に寄せられた。前者では中間駅が島式ホームである為,後者では京阪に比べて国鉄の車両限界が大きく,狭軌車が外側を走れば相対式ホームに支障した為だろう。(3/16/2025) |
軌間拡幅と軌道中心間隔
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左には3通りの広軌化の概要を示している。①上段の方法では軌道中心間隔が維持されるが,普通鉄道ではホーム等の工作物の建築限界の関係で,近鉄名古屋線を含めてこの方法が採用される場合が多い。京電の複線の標準的な軌道中心間隔は9ft(=2743mm)だったが,この場合広軌I型(車幅2286mm)のすれ違い時の余裕は457mmとなり,軌道建設規程を満足するが,200/300/500型(車幅2388mm)だと355mmとなってアウトになる。②中段は外側のレールを狭軌線と共用する場合で,軌道中心間隔は2375mmとなるが,この規格だと広軌I型でも僅か89mmしか余裕が残らない為,この方法は採用できない。③下段は内側のレールを狭軌線と共用する場合で,軌道中心間隔3111mmが確保されるが,これは広軌複線の軌道中心間隔10'6"(=3200mm)に近いため,戦後の700/800/900/1000型(車幅2430mm)でも通行可能になる。
伏見線の広軌化は1920.12.15に着工され,翌年6月上旬には広軌仮運転が開始されたと記録されるが,約2年間の仮運転の具体的内容は不詳だ。蹴上線の場合は26.8.7付で14号系統が狭軌線から広軌線に移っているため,一時的に3線軌条にして狭軌線を運行しながら広軌車を走行可能にする工事が進められたと考えられる。理想的には③の方法を採るべきだが,用地買収や道路幅員の問題もあって,基本的には①の方法で施工されたと考えられる。工事期間中の4線軌条を避ける為に,予め狭軌の軌道を外側に184mm移動させてから,広軌線の内側レールを敷設した可能性もあるが,京電は60 lbレール(29.7kg/m)が標準であったのに対し,市電は92 lbレール(45.6kg/m)を使用した為,広狭共用となる外側レールについても更新が必要だった筈だ。
「京都日出新聞」の1918.3.6付の連載記事「京都電鉄の市営(十)」には以下の記述がある。
「買収後は当然現在の軌道車掌台等に一大改良を加えざるべからざるは明らかにして、場合によりては全部広軌に改築の方針にて設計を編成すべく、理事者は此の改良工事費として公債支弁によるもの100万円、他に会社の不用品売払代金等にて90万円、合計190万円を投じて全部広軌に改めんかと目下調査の歩を進めつつあり、只是れ丈けの予算にては現在の道路全体の幅員は此儘とし単に軌幅を拡ぐるの工事を施すより外に途なく、若し道路も拡築せんとならば少くとも300万円以上の費額を要すなるべし、而して此軌幅のみを拡ぐるの工事を施すについては勢い事業を大きくせざるべからず、事業を大きくするに於いては現在の京電は往復の電車が相並びたる場合車台と車台との間隔は2尺5寸を存し居れるも広軌改良後は双方より5寸宛都合1尺狭められ、間隔は僅かに1尺5寸となるべきを以て、現在の中間電柱制は之を廃止し路傍の電信線のある所に沿うて電柱を立て是れによりて送電するの制に改めざるべからず、而も車台が尚お道路側へ5寸宛拡大され、是れ丈け両側の人道は狭めらるべきにより、現在の特許命令の範囲にては此の広軌を断行すること能わず、事情を具して政府当局に許可を申請し、其許可を受けざるべからざるも這は重大問題なれば政府が直ちに許可するや否や、此の点が広軌改築に当りて最も困難なる理由にして次には市電と同じく92ポンドの軌条を購入し或は車台、車輪等の改造を行わざるべからず、目下戦時中にて是れ等の鉄材を用ゆる諸材料が非常に暴騰を告げ居るのみならず、殆ど払底を告げつつあれば此の材料購入が容易の事にあらざるべく、故に縦し広軌断行に決することとなるも先ず1ヶ年間は材料購入の為めに要すべきを以て実際の工事に着手するは統一後1年以後なるべしと云えり。フィート・インチ表示と尺寸表示に若干の差はあるが,概ね1 foot(30.48cm)≒1尺(30.30cm)と見なしても大差無い。京電の軌道中心間隔9ftで狭軌I型(車幅2020mm)が離合する場合の余裕は723mmで,記事中の2尺5寸(758mm)よりは狭いが近い値と言える。これを①の方法で改軌する場合の広軌I型の余裕は上記のように457mmだが,これは記事中の1尺5寸(455mm)と一致している。しかし①の方法でも軌道敷は(車幅に対応して)片側15.15cm,両側で30.30cm拡大する問題と,離合余裕の減少によりセンターポール方式が不可能になる点が指摘されている。
両線路は会社線の幹線たる木屋町線が現在の道路幅員の儘にて広軌を断行する能わざるに於ては勢い高瀬川を埋立てせざるべからず之が埋立はさしたる困難にあらざるが、市は将来下水道を完成する場合、同川を以て其の根幹となさんの議あれば、之を埋立つると同時に更に川底を深く掘鑿して暗渠となす等の工事を施さざる可らず、是れ非常に多額の工費を要すべきを以て着手は却々に困難なるものあり、又西洞院線は道路の幅員も狭く、乗客も少ければ将来或は廃線の運命となることなしとも限らず、是れ等も統一と同時に充分研究を要する問題なり。」
①の方法では,戦前製の200/300/500型でも通過不可能だったが,戦後すぐの伏見線は広軌I型の独壇場で,他の車種が入線したのは軌道中心間隔が拡大されてからだったことと合致する※注。戦後になって軌道中心間隔の拡大工事が実施されたことになるが,勧進橋以北+稲荷線の工事は先行して実施された。戦前の運賃制度では,伏見線は「支線」と呼ばれ区間制運賃が適用されたが,その範囲は当初の伏見線全線から勧進橋以南に縮小され(1922年10月),稲荷線までが「本線」に編入された為だ。ともあれ51年までには工事は完了し,京都駅前や高倉跨線橋で伏見線の500/600型が運転されている写真が残る。(7/25/2025)
※注:高山禮蔵「京都市電概史」(鉄ピクno.356, 1978)によれば,「改軌工莠九・…線路中心間隔はそのままに軌間だけ広げた」もので,「後年稲荷まで軌道間隔が広げられ,200-300-500形など車体寸法の大きい車両が入線できるように」なったが,「勧進橋-中書島間の軌道間隔が広げられたのは戦後のこと」だった。事実「昭和15年度電気事業成績調書」には,軌道改良(未竣工の部)に「伏見線・丹波橋~中書島間軌道改修工事」の記載があり,戦時体制のためか「工事施工未認可ノタメ」とあり,下伏見線における工事難航が推察できる。一方,戦後の50.5.2~10.10の間,七瀬川町~棒鼻間で軌道改修工事が実施されているが,これも軌道中心間隔の関連工事だった可能性がある。(9/29/2025)
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