高倉跨線橋

Takakura Overbridge

京都駅構内から東を見ると,高倉跨線橋が市電当時と変わらぬ姿を見せるが,このローゼ橋への架替えは1954年だったので,既に年が経過している。ここでは高倉跨線橋(高倉陸橋)が現在に至った経緯についてまとめる。

現橋への更新

形式橋長(m)有効幅員(m)竣工
2径間ゲルバー桁橋45.1511.1251914.7
ローゼ桁橋47.2010.501954.4
現橋は3代目に当たるが,架替え前の2代目橋梁の写真は見当たらない。[1]によれば「2径間ゲルバー橋」とされるが,その諸元は上中図に記入した通りで,左側の径間が27.6m,右側が17.5mだったが,広い方の径間が北側(東海道線),狭い方が南側(奈良線)に使われたようだ。ただし2代目橋梁架橋時には,東山トンネル(1921年)は未開通で,奈良線京都口を東海道線が使っていた。ゲルバー橋は張出し梁にヒンジを置いて,その先に吊り桁を置く構造であり,静定になるため計算は容易だが,ヒンジ部分の維持・管理に難がある為,京都市でも近年,加茂大橋,二条大橋,九条跨線橋等において,ゲルバー桁の連続桁化が進められている。

旧高倉跨線橋には複線軌道が敷設されたが,[2]には「架設してから40年を経過しており,その上列車が間断なく走り続ける東海道本線上であるため煤煙による腐食が甚だしいので,次第に交通に危険が感じられるようになった。そこで昭和27年に,京大工学部に委嘱して橋梁の耐荷試験を行い,その結果同年7月以降,橋梁上においての電車の行違いの禁止,自動車の重量制限,徐行等の交通制限を行う一方,国鉄と架替についての交渉を続けてきた」とあり,老朽化が限界に達していたことが判る。さらに56年11月に予定される東海道線全線電化に向けて,架線吊架の為に桁扛上が求められた。この結果,新高倉跨線橋では桁中心部において旧橋より約99cmの扛上が図られ,アプローチ部の勾配が33‰から40‰に引上げられた。

ただ不思議なのは,53年時点で既に旧橋の幅員不足が顕在化していたはずだが,なぜ新橋でも10.5mという従前と変わらぬ幅員が採用されたかだ。軌道は上右写真のように橋の東側に寄せられていたが,この幅員だと複線外に1車線を取るのが限界であり,歩道のスペースも無い為,交通安全上問題になることは最初から解っていたはずだ。なおローゼ橋への架替に伴い,市電は塩小路高倉~京都駅南口間を54年1月19日~3月31日の2ヶ月余り運休し,この間に代行バスを運転している。

地形図に見る跨線橋の変遷

陸地測量部1:20,000仮製地形図
1890(M.23)年測量
1897(M.30)年修正(徒歩連絡)
陸地測量部1:20,000京都南部
1909(M.42)年測量
1912(T.1)年発行(初代陸橋)
陸地測量部1:25,000京都東南部
1922(T.11)年測量
1925(T.14)年発行(Gerber橋)
国土地理院1:25,000京都東南部
1964(S.39)年修正
1965(S.40)年発行(Lohse橋)
京電・伏見線は,わが国初の電気軌道として1895年2月に開業したが,当初は市内線とは接続されず,1897年の地形図に見るように,東洞院通の東海道線踏切南側までだった。ただし当時の東海道線は塩小路通のすぐ南を並走しており,緯度的には市道「皆山緯6号線」付近に当たるため,図上印で示す京電停留場は,現在のセンチュリーホテル付近に相当すると考えられる。その意味では,「電気鉄道事業発祥地」の碑は北に寄り過ぎている。この地形図は97年修正であり伏見線は記入されているが,2ヶ月後に開業した東洞院-七条-間之町線を橙線で示す。当初の市内線乗り場は東洞院通上で,踏切を隔てて伏見線と対峙していたようだ。

市内線と伏見線の接続は,1901年4月の高倉陸橋架設により実現するが,これは1912年の地形図に登場する。東海道線の位置が異なる為,現在の高倉跨線橋とは架橋位置が異なるが,平面的には現道より西寄りに直進していた点と,南側の取付部に余裕があった程度の差しか見られない。しかし縦断的には,塩小路通から東海道線の間で高度を稼ぐことは不可能なので,地形図(クリックで拡大)に橙色で示した範囲に築堤が設けられた。北側の勾配は七条通の1辻南から始まり,塩小路高倉交差点全体が嵩上げされる等,相当の土工を伴い,塩小路高倉に「坂ノ上」と称する乗換停留場を設けて,その高度で東海道線を越えている。地形図には塩小路通の側道を越える橋梁と,東洞院通の跨線橋も記載されているが,後者は歩道橋程度の物だろう。

2代目京都駅の駅舎は14年8月に開業するが,駅舎の移設は東海道線の南側への移設を伴う。これには高倉陸橋の南側取付部が支障するから,旧高倉跨線橋の架設が急がれ,駅舎開業の直前となる14年7月に竣工している。移設により北側取付部のセットバックが可能になり,塩小路高倉交差点が地平化したが,同時に八条竹田街道への接続部は従前より急カーブになったことが1925年の地形図から読み取れる。東海道線の東山トンネル経由の新線への移設は21年8月だったが,旧線(現・奈良線)への分岐もだいぶ東へ移動したことが判る。

最後の1966年発行の地形図は,新幹線建設後の状況を表す。25年時点の地形図と比較すると,新跨線橋は旧橋より更に東へ振られた上に,新幹線の軌道敷を捻出する為に南側の築堤が北寄りに移設された結果,跨線橋南側取付部の曲線が直角に近くなったことが読み取れる。この地形図には,塩小路通に北野線も記載されていて,北野線と新幹線が併存したように見えるが,無論誤りである。

初代高倉陸橋

初代の高倉陸橋は1901(明治34)年4月に「京電専用の木橋」として架橋され,1914(大正3)年8月までに新橋(Gerber橋)に掛け替えられたとされる。初代高倉橋梁は2代目跨線橋以上に難物で,京都学・歴彩館の「京の記憶アーカイブ」にも写真は見当たらない。架橋地点が大きく異なることは当然として,構造も判然としないが,1912年の地形図では併用橋に見え,同志社職員だった故・大西友三郎氏による左上図([3]掲載の図を一部修正)でも併用橋に見える。なお東洞院線が塩小路線の南側線から分岐したのは西廻線開通(04.12)以前で,以後は北側線からの分岐に変更された。伏見線の複線化は08年頃から着手されたので,その時点で併用橋になっていたことは確実だろう。

下野ら[4]によれば,1898(明治31)年4月の京都-大津間複線化以後「列車回数は増加して,東洞院塩小路南入踏切は待時間が多く,危険になったので東100メートルにある高倉通を南に延長して新高倉通が完成し,官設鉄道を陸橋でまたいで竹田街道と結ばれた」とあり,京電が新道建設に向けて陳情していた記録もある。それでは「電車専用の木橋」と矛盾するが,新葵橋のように跨線橋部分は軌道を仮設で先行開業させたと考えることは可能だろう。下左図は,小島正和氏[5]による「初代陸橋の想像図」で,2代目のGerber橋の設計図に基づくとある。図面には「現在ノ橋梁ヲ各側ニオイテ取リ拡ゲ高欄ハ現今ノモノヲ取リ外シ使用」との注記がある由だが,初代陸橋は複線軌道を越えるだけだったので,橋長は10m程度で足りたのに対し,2代目橋梁の橋長は45mあったので,サイズ的に流用は難しいだろう。

高倉陸橋は僅か13年間のみ使用された橋梁であった為,謎に包まれているが,試しにGoogle Geminiを用いて開通当初の画像生成を試みた。別画像を変形して作成する技術がない為,文章だけで作成したが,なかなかうまく行かない。下右図は「明治末年の初代京都駅東方で,東西方向の東海道線の複線を南北方向に跨ぐ単線木橋。下には東行の蒸機けん引列車,それと直角に交わる木橋にはトロリーポール集電で窓数7の2軸単車。鉄道は左側通行で東行きの列車のみ。木橋の幅員は単線敷のみで,手前から木橋両側の築堤を見る。右側の築堤両側の地平レベルには民家が迫るが,左側の築堤両側は空き地」なる指示に基づく結果である。それらしくは見えるが,集電はパンタグラフともビューゲルとも付かぬ奇妙な形で,窓数8のボギー車と,指示が全く届いていないことが解る。

初代高倉陸橋に関係すると思われる行政文書を京都学・歴彩館で検索すると,下表が得られる。1900(明治33)年文書は,高倉通の嵩上げに関する土地収用の文書だと思われるが,これに橋梁の記載があるかも知れない。09(明治42)年は,伏見線複線化に関するもので,これに初代橋梁の改築(拡幅)が含まれる可能性がある。最後の13(大正2)年の文書は,高倉新道線運輸開始とあるが,14(大正3)年の東海道線の南側への移設に先立って,京電線の先行移設(別地点への橋梁新設と築堤の大規模移設)が実施された可能性がある。これらの文書は電子化されておらず,閲覧には予約が必要なため作者による調査は困難だが,このページの読者が歴彩館に出向いて調査して頂けると有難い。

分類番号名称年月日作成者制限/予約
件名目録明33-0059、020土地買収及収用一件 附審査会一件、京都市下京区七条通髙倉新道地内京都電気鉄道株式会社起業に係る土地収用法依る公報告示案 [明治34年度]明治34.7.5、19010705内務部第二課地理掛、知事要審査、要
件名目録明42-0083、003京都電気鉄道 伏見線複線工事一件、京都電気鉄道伏見線一部複線軌道敷設に関する件大正01年度土木課要審査、要
・工事着手届明治42.12.27京都電気鉄道
・指令案明治42.11.4知事
・許可明治42.10.28内閣総理大臣
・上申案明治42.9.6内務大臣
・工事許可願(附、工事変更予算書、設計書、方法書、張石面一坪当單価明細表)明治42.9.2京都電鉄社長
・照会案明治42.9.1知事
・稟伺案明治42.5.25内務部長
・軌道位置変更願(自七条停車場至鳥羽道)/変更工事予算書、設計書/方法書、図面、鉄道線路跨線橋、藍染川橋梁、大石橋溝渠、高倉新道角、塩小路通路面明治42.3.11京都電鉄社長
件名目録大02-0062-001、010京都電気鉄道、京都電気鉄道高倉新道線運輸開始の件大正02年度、明治45.5.21土木課、知事要審査、要

[1] 小西一郎・山田善一,既設鋼道路橋の振動減衰について,「土木学会誌」vol.38, 1953, pp.445-448.
[2] 交通局技術部,伏見線高倉跨線橋架替工事について,「市電・市バス」no.1,1954.5, pp.9-10.
[3] 大西友三郎,京都電気鉄道物語,「鉄道ピクトリアル」no.351,1978, pp.30-37.
[4] 下野 博 編,京都の市電:古都に刻んだ80年の軌跡,立風書房,1978.
[5] 小島正和,京都市電伏見線聞書記,「関西の鉄道」no.42, 2001, pp.76-82.
(2/14/2026)