電車線の変化

Changes in Overhead Wires


単架線化/Conversion to single wires

大戦末期に開業した梅津線から,「防空資材及び労務節約」の通達に従って架空単線式で建設された。前頁に記したように,それ以外の路線についても1945年8月から47年11月に掛けて,無軌条線を除く全路線を17期に分割して順次単線化している。

具体的な工事内容としては,軌道を軌条溶接や軌条ボンド等により電気的に繋ぐことが主体で,62ヶ所に設けた負給電点から負給電線に戻すことで帰線路を構成した。また左右レールの不平衡を避けるためのクロスボンドを820本設置したと記録されている。特に交差点部については,架線の極性を考慮する必要がなくなり絶縁部が不要になる等,配線が単純化されるメリットが大きいが,その分軌道側のクロスボンドが密に配置される必要がある。このように,単架線化は架線工事というより軌道工事の側面が大きく,結構大工事になったと想像される。


ビューゲル化/From trolleypoles to bow collectors

続いて集電装置のトロリーポールからビューゲル等への転換に伴う架線工事が,1950年6月から55年10月に掛けて,狭軌線と無軌条線を除く全線に渡って実施された。各線区の実施時期は左図(「昭和30年度交通事業成績調書」,年号は昭和)に示す通りであるが,白川線は54年3月にビューゲル対応済で開業している。 叡山線は市電全廃直後の78年10月18日までポール集電を続けたため,ビューゲル化された市電車両の乗入れが不可能となり,55年8月を以て京都駅・四条大宮からの直通運転は廃止された。


トロリーポールの場合,架線吊下には写真に見るような凹型金具を用いるのが一般的である。(SEPTA 40th Street Portalの34系統9026号)

写真のような架線をビューゲルで摺動すると,金具が引っ掛かり集電が困難であるため,吊下金具の変更が必要になる。また分岐部分では,上の写真に見える複数の架線を結合する金具が不要になる。ただしトロリーポールとの互換性を維持するためには,当面結合金具が必要とされた。またビューゲル化に合わせて,各所で軌道回路が導入されたが,検知区間の前後にはインピーダンスボンド等の設置が必要になる。


シンプルカテナリー化/Use of catenary wires

1954年開通の4号(白川)線までは単純吊下方式が採用されたが,56年以降に開通した6号(下鴨)線や10号(西今出川)線では,最初からシンプルカテナリーが採用された。その他の線区についても,順次シンプルカテナリーへの改築が進められた。左図は各線区の廃止直前の時期におけるカテナリー化の状況を,写真等から判断して纏めたものである。二重線がカテナリー化された区間であるが,単純吊下区間でも横断歩道橋の下等,局所的にカテナリー化された区間はあり,また分岐交差点については基本的に単純吊下方式であった。

例えば百万遍~くまの間のカテナリー化は壬生廃止後であった等,全線が同時に左図の状況にあった訳ではないことに留意されたい。第3次財政再建計画(1970.11)では,外郭線と河原町・七条線は存続が予定されていた為,優先的にカテナリー化が進められた一方,地下鉄工事に伴う廃止が予定されていた烏丸線は,大幹線にも拘らず工事が見送られたと見ることができよう。

1958年まで,山鉾通過のため四条線ではセンターポールが維持されていたが,交通支障を避けるため道路南側に架線柱を新設し,59年3月31日付で片持ち吊架方式に改築・竣工している。同時に新町~室町間については,祇園祭期間のみセンターポールを仮設することにし,「組立式中央柱」4本が製作されている。当時は南北方向の巡行経路が寺町通であったため,施工区間は室町~寺町間に限られていた。

61年に山鉾巡行経路が寺町通から河原町通に変更されたため,四条線の寺町~河原町間と河原町線の四条~御池間については,60年度に同様の片持ち吊架に変更されたと思われる。左図中赤線の区間が片持ち吊架方式の区間を示すが,これら区間はシンプルカテナリー化されていた。

(9/14/2021; Rev.11/18/2021)