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Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

七条停車場


高倉跨線橋(2)に掲載した,高山禮蔵氏による京都駅周辺の配線図は一部修正したもので,原図は左のようだった。違いは東洞院に入る軌道が塩小路の西行線に繋がる点である。東洞院線が北行で運用された以上,東行線と接続しないと運用できない為,修正を行った。しかし中写真では左図の如く,東洞院線は塩小路通南側の軌道に接続され,原図の状態が確認できる。塩小路線の高倉~東洞院間は1901年4月の開通で,伏見線と東廻線の七条行の単線並列だった。しかし塩小路線の烏丸以西の開通は04年12月だったので,七条停車場は依然として終端停留場だった。従って塩小路の南側線で七条停車場まで来た電車はそこで折返して東洞院線へ入ったはずで,その場合は東洞院線が西行線と繋がっていても不思議はない。この時期には北側線は伏見線発着に使われており,伏見線へ出入庫する為には,終端部には亘線があった筈で,北側線の奥には電車の滞留(操車場機能?)が見える。

04年12月に西廻線が開業すると,東廻線とのスルー運転が開始されたから,東洞院線は東行線と接続される必要がある。高倉跨線橋(2)所載の修正図は,西廻線開業後の状況を想定している。実際,右写真では東洞院線が塩小路通北側の軌道に接続されているが,状況は架線を見ると確認し易い。特に右写真では架空複線式になっている点が,左写真と大きく異なる。路面電車の帰電流による水道管等の電食が問題となり,その対策として内務省が「市街地の電気鉄道は架空複線式にすべき」ことを通達(1899)している。京電は架空単線式で開業しており,中写真でもそれが維持されている。京電が架空複線式に移行した年次は不明だが,概ね明治40(1907)年前後かと思われる。なお右写真では,伏見線が使う北側線は単線式のままであることに注意されたい。

公式の記録では,塩小路線の東洞院~烏丸間の開通も西廻線と同じ04年12月とされるが,京電開業当初の写真でも乗り場は塩小路通側(初代駅前)にあったようだ。従って烏丸付近まではもっと早い時期に敷設された筈で,中写真の撮影時期は新高倉線開業の01年8月以降,04年12月までの間と推察できる。左図は塩小路線が西に続くように見えるが,そうならば東洞院線の繋がり方は誤りであり,もしも塩小路線が七条停車場で打切りならば,亘線の記入が必要だろう。なお右写真の撮影時期は,05年1月以降,市電開業の12年6月以前と推察されるが,14年8月には2代目駅本屋が竣工している。(11/1/2025)

※ 本項の写真は,明治期の案内地図及び絵葉書からWeb上に転載された画像を用いている。何れも写真著作権の保護期間(当時は公表後10年;現行法では撮影者の死後70年)を経過したものと判断できる。


京電系統図

市電については,「軌道事業略史」(1952)によって運転系統の変遷を追うことができるが,買収前の京都電気鉄道の系統については殆ど資料が残っていない。しかし市電開業後・伏見線中書島延長前の時期(1912.6-14.8)の系統については,大阪毎日新聞発行の「京都市街全図」(1913)の裏面に記載がある。鴨東線は買収後は線内折返しだったが,この当時は3系統が設定されていて,木屋町二条のデルタ線が全方向使用されていたことが判る。また買収と同時に休止→廃止された御池線は,堀川御池からの線内折返しだった。ただし3系統を含めて,この当時の系統番号は乗務系統で,旅客向けに案内されていた訳ではなかろう。京電は開業当初,行先を大書したサボを用いたが,方向幕設置後に系統板を掲出した写真は歴彩館所蔵の石井行昌作品には見られない。

市電買収後には,3系統・7系統を除いて,ほぼそのまま市電に引継がれている。1→18,2→19,4→16,5→17,6→11系統であり,鴨東線は線内折返しの14系統になった。ただし伏見線系統については,東廻り線・新高倉通の単線を廃止し,東洞院通を複線運用に変更した結果,塩小路線の東洞院以東は伏見線専用になり,運転整理の関係で七条停車場(=烏丸塩小路)には入らず,塩小路東洞院で打切りとされた。その痕跡が後年まで,塩小路東洞院~高倉間の亘線に残されていた。(10/20/2025)


ガイドウェイバス

Memorandaにゆとりーとラインの画像を掲載したので,市電とは無関係だが,バス系の交通システムについて書く。

ゆとりーとラインの車両は,前輪の前と後輪の後の両側に計4個の案内輪を装着している。⇒詳しくはガイドウェイバスの仕組み参照。
この路線の場合,大曽根の転回場と小幡緑地のモードインターチェンジ間は完全にガイドウェイ走行をするが,ガイドウェイ区間での分岐や折返しはシステム的に困難で,分岐部等は自由走行とするのが合理的だが,その結果,現行制度では大型2種免許を不要とするのは難しい。

AdelaideはO-bahnを導入しているが,駅間ではガイドウェイを利用し,駅部では自由走行になる。これは追越し等を可能にする為だが,分岐にも対応可能だ。⇒YouTube

Bangkok BRTは逆に,駅間が自由走行で,駅部ではホームに寄せるためにガイドウェイを使用していた。しかし次期車両には案内輪が装着されない予定らしい。Mexico CityのMetrobusも,島式ホームを使用する路線ではマニュアル運転でホームに寄せているので,運転技術があれば可能ということだろう。
今日ではハード的なガイドウェイは必ずしも必要とされず,気仙沼BRTのような磁気マーカーでも進路の拘束が可能になるが,中国中車(CRRC)が開発したART (Autonomous Rapid Transit)では路面のマーキングを検出して走行する。いわゆる「新交通」(AGT)のAは"Automated"だが,"Autonomous"はより自律性が強調されている。基本的には電気バスで,烏山線のEV-E301系同様,停車中に充電され,LRT並みの輸送力を持つ。2017年の湖南省株洲市(Zhuzhou)からスタートし,四川省宜賓市(Yibin)や上海市等で運行され,MexicoやMalaysiaにも輸出されている。しかし路面マーキングだけでは,積雪時の運用に不安があるから,日本に導入するなら磁気マーカーが必須だろう。⇒東洋経済
東山通の混雑は危機的なので,京都でも何らかの新技術の導入が緊急の課題で,その意味で軌道工事が不要な中量システムは検討に値する。(10/11/2025)


西洞院線単線問題

大阪朝日新聞,19.7.5付「京都附録」には,買収後の京電の広軌化に関して以下の記事が掲載されている。
軌隔統一案附議の風雲暗澹の市会 少数意見の発表に質問質問また質問 結局12名の委員附託

市電軌隔統一案は4日の京都市会に提案せられたり、同案は市理事者たる事務家が技術者を圧迫したりとの説高く、議員間に議論多きのみならず理事者間に於ても意見一致せざる点少からざるより議場大に緊張し傍聴者も極めて多し、各派間に幾多の交渉ありたる後午後3時に至り漸く開会、…愈問題の軌隔統一案に入り安藤市長登壇大略は左の説明を為す

昨年7月1日より本市の経営に移れる旧京電線は其連道、架線、車輛ともに廃頽に近づき大修繕を施すの要あるに至りしより此際その改修と同時に軌隔を拡げ在来の市営線と完全に統一を遂げて運轄営業を円滑にし市民の利益を図り会社買収の目的を完結せんとす、而して軌隔統一に就て道路の拡築を遂行する事は本市の希望する所なるも京都市財政の状態は未だこれを実現するの域に達せず、已むを得ざるものの外は現状維持を標準とせり、本案を摘説すれば
一、軌条は全部在来品を使用の事
二、次の隔間は廃線とす:七条線(西洞院及東洞院に至る)鴨東線(二条木屋町より東山線に至る)下立売線(堀川より烏丸通に至る)各共用線、新高倉線
三、左の区間は単線運転とす:寺町線、西洞院線(七条より四条に至る)
四、新寺町線五条、七条間は12間幅に拡築
五、西洞院線三哲、七条間は9間幅に拡築
六、三哲車庫を改造し北野車庫を廃止す
七、旧車輛は全部売却し新車輛40輛購入の事
八、堀川発電所移転の事
九、架線は全部側柱式(伏見線東洞院線広小路線を除く)
十、工事期間は約2年とす
而して軌隔統一費は乗車料増収見込不用電車売払代三事業積立金の中繰入歳計剰余金等を合せ98万5千円及び市債220万円を以って之に充つ

七条線の西洞院~東洞院間廃止は,この間を塩小路通・京都駅前経由で代替する案(後の計画14号線)があった為だろう。当初から単線で引継いだ寺町線の単線運転は当然として,問題は西洞院線の単線化が含まれることだ。大国議員が登壇し,「市参事会の少数意見を代表して陳べんとするは西洞院線の単線問題なり、複数敷設さるる市電中に単線の存在するが如きは甚だ不都合ならずや、同線路は京都市民全体より見て原案の如く単線存置の価値なし、都市の面目上単線路を敷設するが如きは技術上に於ても面目からず、況んや烏丸線、大宮線は西洞院線と相距る近きにあらずやと西洞院線廃止を主張」し,今井議員も「京電買収当時既に軌隔統一の議ありしや否や、将又軌隔統一は都市計画実行の暁まで延期し得ざるや否や、木屋町線は将来存続する意ありや、二条線撤廃の理由、西洞院線を単線と為すの理由、七条線の廃線等につき質問」した。

これに対して安藤市長、鷲野助役は,「京電線買収の際に己に線路は最早用に立たざるもの多く、予てより線路を修復すると共に軌隔統一を断行せんとの意見を懐き居りしものなり、都市計画の暁まで軌隔統一を延期するを得ず而して今日軌隔統一を実行せらるるとも都市計画の際は其の一部は改廃せらるるやも計られず今日より予め明言する能わず、…西洞院単線につきては現在西洞院線には四箇所の停留所ありて京都市には重要なる線路なり、将来堀川線に関連するものなれば堀川線を延長するに至るまで存続を必要とするも、複線と為す時は経費多大なるを以て単線を以て存続するを可とし廃線と為すべき理由なし」と答弁している。この時市参事会が付した「希望条件」は,① 東山線二条以東疏水に沿える仁王門までの線路を廃止し東山線仁王門以東に新線を延長して蹴上線と連絡する事,② 出町線を軌隔統一工事の最後に着手する事であり,前者は後の計画15号線,後者は河原町通への移設(5号線の一部)として実現した。

この記事だけを見ると,恰も出町線同様,西洞院線が単線だったように読めるが,2024年8月の記事では「市営電気事業沿革史」(1933)を引用し,「明治41(1908)年藤本清兵衛氏社長となるに及びて木屋町線・西洞院線・堀川線・北野線・伏見線の複線敷設を断行し,大いに業績の進展を見,43(10)年3月藤本氏社長の任を退くや古川為三郎氏社長に就任せるも僅か4ヶ月にして辞職し,其の後を受けて大澤善助氏同年9月社長となるや増資を断行して…寺町-丸太町-下立売線・鴨東線を複線とせり。茲に於て出町線を除く外全部複線となり,市内の交通を独占せるが故に…社運益々隆盛に向へり」と書いた。

実際,1918年の京電買収時には,引渡し財産として,「此外軌道単線(出町線)1哩1厘、複線14哩6分5厘,合計15哩6分6厘(此の建設費87万6904円34銭)。時価1哩単線約1万5千円,複線約3万円」(大阪朝日新聞,18.3.3付)との記載があるため,移管時点では出町線以外は全部複線化されていたことは確かだろう。従って市会では,西洞院線の広軌化は既存の軌道敷には収まらない為,物理的に単線化が必要になることを審議したと考えられる。なお「西洞院線には四箇所の停留所あり」とあるのは誤りで,四条~七条間には北から,西仏光寺-西松原-西五條-魚棚-西六條の5停留場があった。

図は1912年の市営電気軌道建設時の四条西洞院交差点の工事図面だが,既存の西洞院線は複線で,軌道中心間隔8 ft.だったことが記載されている(Clickで拡大)。堀川線については四条以北は広軌化して北大路まで延長する計画(2号線)だったが,四条以南については大宮線と近すぎるため堀川通への移設は計画されず,西洞院線は狭軌のまま存置となり,軌道中心間隔から上記の新型車両による置換えも実施されなかった。なおの「広小路線」は「出町線」の誤りだろう。(9/13/2025)


格子状街路とバス系統


図1:2x3格子状街路

図2:南西から北東への最短経路

図3:最少系統でのカバー例

図4:京都市電街路モデル
平面上の2点間の距離を測るのに,直線距離や道路距離が用いられる。しかしManhattanのような格子状街路を持つ都市では,2点間には多数の経路が存在し,どの経路でも道路距離は殆ど変わらない。そのような距離をManhattan distanceと呼ぶ。例えば図1に示す2×3の格子で,各格子が1辺の長さ1の正方形だとすれば※注1,南西の端から北東の端まではどの経路でも長さ5になる。図2に示すように,そのような経路は10存在するが,これは5つの移動区間のうち2を東西方向(3を南北方向)に割当てる組合せ:5C25C3=10として得られる。同様の経路は南東と北西の間にも存在するから,図1で手戻り(引返し)の無い長さ5の経路は全部で20存在することになる。

図1の街路にバスを走らせる場合,20箇系統を運行すればほぼ全てのODを乗換なしでカバーすることが可能だが※注2,そのような方法は現実的ではない。例えば循環系統を導入すれば,図3に示すような3箇系統で全ての区間をカバーできる。図3は一例に過ぎないが,図1の街路を2系統でカバーする場合には,系統内に複数回通過する区間が生じるため合理的でない。系統設定の目標は,なるべく少ない系統で,なるべく重複運行を避けつつ,なるべく多くのODをカバーすることである。

地下鉄・烏丸線開業時のバス系統再編は,「多系統少便型から少系統多便型へ」をキャッチフレーズに,1回の乗換を許容する形で利便性の向上を図った。要する目的地まで直通する数少ないバスを待つより,来たバスに乗って適切な地点で目的地を通るバスへの乗換えを促すことで,到達時間の短縮を狙った。そのために「バス・地下乗換」や「バス・バス乗換」等の割引制度が導入されたが,交通局の財政悪化のため,一般利用者対象の割引は2023年3月末で廃止され,高頻度利用者に限定したポイント制度に移行した。

観光客等は割引サービスの恩恵を受けられず,また乗換にも慣れていない為,直通系統に集中することになる。そのため運賃制度面からも多系統の維持が必要になって効率が低下する。図4は京都市電の路線網をモデル化したものである。七条・九条間や白川線等,簡略化した部分はあるが,京都の旧市街は概ね4×5の格子状と捉えらえる。ここで南西端(西大路九条)から北東端(高野)へ至る経路は,9C49C5=126通り存在する。これに南東(東福寺)から北西(金閣寺)へ至る経路を加えると252通りの系統設定が可能だが,無論そのような設定は現実的でない。


図5:Manhattan中心部のバス路線図(ClickでMTAサイトのmapを表示)
Manhattan distanceの語源となったManhattan島(特に中心部)では,バス系統は図5に見るように,南北方向(Avenues)と東西方向(Streets)を直進する系統が主体で※注3,曲折を繰返して需要を拾うような系統は殆ど存在しない。それを支えているのが無料Transferで,最初の乗車から2時間以内に1回の乗換(バスの場合,往復も可能)が無料になり,基本運賃で殆どのODをカバーできることになる。京都市のような格子状街路を持つ都市では,少系統多便型の運行が合理性を持つが,地下鉄とバスの適切な分担実現の為にも割引制度の再導入が望まれる。(8/30/2025)

※注1:各格子が正方形である必要は無い。東西方向・南北方向にグリッド幅が共通していれば,同じことが言える。
※注2:同じ緯度区間に属する東西方向の,同じ経度区間に属する南北方向の2地点間の移動は,手戻りを含む為カバーされない。
※注3:Manhattanの主要街路は一方通行が多い為,同じ系統の往路と復路は隣接街路を通過することになり,その意味で循環系統の様相を呈する場合が多い。
[参考]天野・銭谷・近東, 都市街路網におけるバス系統の設定計画モデルに関する研究, 「土木学会論文集」no.325, 1982.9.


軌間拡幅と軌道中心間隔

3線軌条になっていた区間を除いて,軌間拡幅(広軌化)が実施された主な区間は伏見線(稲荷線を含む)と蹴上線である。他に東廻り線(河原町通)の六条~七条間も広軌化されたが,道路拡幅が伴ったとすれば,単純な広軌化とは言えない。

左には3通りの広軌化の概要を示している。①上段の方法では軌道中心間隔が維持されるが,普通鉄道ではホーム等の工作物の建築限界の関係で,近鉄名古屋線を含めてこの方法が採用される場合が多い。京電の複線の標準的な軌道中心間隔は9ft(=2743mm)だったが,この場合広軌I型(車幅2286mm)のすれ違い時の余裕は457mmとなり,軌道建設規程を満足するが,200/300/500型(車幅2388mm)だと355mmとなってアウトになる。②中段は外側のレールを狭軌線と共用する場合で,軌道中心間隔は2375mmとなるが,この規格だと広軌I型でも僅か89mmしか余裕が残らない為,この方法は採用できない。③下段は内側のレールを狭軌線と共用する場合で,軌道中心間隔3111mmが確保されるが,これは広軌複線の軌道中心間隔10'6"(=3200mm)に近いため,戦後の700/800/900/1000型(車幅2430mm)でも通行可能になる。

伏見線の広軌化は1920.12.15に着工され,翌年6月上旬には広軌仮運転が開始されたと記録されるが,約2年間の仮運転の具体的内容は不詳だ。蹴上線の場合は26.8.7付で14号系統が狭軌線から広軌線に移っているため,一時的に3線軌条にして狭軌線を運行しながら広軌車を走行可能にする工事が進められたと考えられる。理想的には③の方法を採るべきだが,用地買収や道路幅員の問題もあって,基本的には①の方法で施工されたと考えられる。工事期間中の4線軌条を避ける為に,予め狭軌の軌道を外側に184mm移動させてから,広軌線の内側レールを敷設した可能性もあるが,京電は60 lbレール(29.7kg/m)が標準であったのに対し,市電は92 lbレール(45.6kg/m)を使用した為,広狭共用となる外側レールについても更新が必要だった筈だ。

「京都日出新聞」の1918.3.6付の連載記事「京都電鉄の市営(十)」には以下の記述がある。

「買収後は当然現在の軌道車掌台等に一大改良を加えざるべからざるは明らかにして、場合によりては全部広軌に改築の方針にて設計を編成すべく、理事者は此の改良工事費として公債支弁によるもの100万円、他に会社の不用品売払代金等にて90万円、合計190万円を投じて全部広軌に改めんかと目下調査の歩を進めつつあり、只是れ丈けの予算にては現在の道路全体の幅員は此儘とし単に軌幅を拡ぐるの工事を施すより外に途なく、若し道路も拡築せんとならば少くとも300万円以上の費額を要すなるべし、而して此軌幅のみを拡ぐるの工事を施すについては勢い事業を大きくせざるべからず、事業を大きくするに於いては現在の京電は往復の電車が相並びたる場合車台と車台との間隔は2尺5寸を存し居れるも広軌改良後は双方より5寸宛都合1尺狭められ、間隔は僅かに1尺5寸となるべきを以て、現在の中間電柱制は之を廃止し路傍の電信線のある所に沿うて電柱を立て是れによりて送電するの制に改めざるべからず、而も車台が尚お道路側へ5寸宛拡大され、是れ丈け両側の人道は狭めらるべきにより、現在の特許命令の範囲にては此の広軌を断行すること能わず、事情を具して政府当局に許可を申請し、其許可を受けざるべからざるも這は重大問題なれば政府が直ちに許可するや否や、此の点が広軌改築に当りて最も困難なる理由にして次には市電と同じく92ポンドの軌条を購入し或は車台、車輪等の改造を行わざるべからず、目下戦時中にて是れ等の鉄材を用ゆる諸材料が非常に暴騰を告げ居るのみならず、殆ど払底を告げつつあれば此の材料購入が容易の事にあらざるべく、故に縦し広軌断行に決することとなるも先ず1ヶ年間は材料購入の為めに要すべきを以て実際の工事に着手するは統一後1年以後なるべしと云えり。
 両線路は会社線の幹線たる木屋町線が現在の道路幅員の儘にて広軌を断行する能わざるに於ては勢い高瀬川を埋立てせざるべからず之が埋立はさしたる困難にあらざるが、市は将来下水道を完成する場合、同川を以て其の根幹となさんの議あれば、之を埋立つると同時に更に川底を深く掘鑿して暗渠となす等の工事を施さざる可らず、是れ非常に多額の工費を要すべきを以て着手は却々に困難なるものあり、又西洞院線は道路の幅員も狭く、乗客も少ければ将来或は廃線の運命となることなしとも限らず、是れ等も統一と同時に充分研究を要する問題なり。」
フィート・インチ表示と尺寸表示に若干の差はあるが,概ね1 foot(30.48cm)≒1尺(30.30cm)と見なしても大差無い。京電の軌道中心間隔9ftで狭軌I型(車幅2020mm)が離合する場合の余裕は723mmで,記事中の2尺5寸(758mm)よりは狭いが近い値と言える。これを①の方法で改軌する場合の広軌I型の余裕は上記のように457mmだが,これは記事中の1尺5寸(455mm)と一致している。しかし①の方法でも軌道敷は(車幅に対応して)片側15.15cm,両側で30.30cm拡大する問題と,離合余裕の減少によりセンターポール方式が不可能になる点が指摘されている。

①の方法では,戦前製の200/300/500型でも通過不可能だったが,戦後すぐの伏見線は広軌I型の独壇場で,他の車種が入線したのは軌道中心間隔が拡大されてからだったことと合致する※注。戦後になって軌道中心間隔の拡大工事が実施されたことになるが,勧進橋以北+稲荷線の工事は先行して実施された。戦前の運賃制度では,伏見線は「支線」と呼ばれ区間制運賃が適用されたが,その範囲は当初の伏見線全線から勧進橋以南に縮小され(1922年10月),稲荷線までが「本線」に編入された為だ。ともあれ51年までには工事は完了し,京都駅前や高倉跨線橋で伏見線の500/600型が運転されている写真が残る。(7/25/2025)

※注:高山禮蔵「京都市電概史」(鉄ピクno.356, 1978)によれば,「改軌工事は…線路中心間隔はそのままに軌間だけ広げた」もので,「後年稲荷まで軌道間隔が広げられ,200-300-500形など車体寸法の大きい車両が入線できるように」なったが,「勧進橋-中書島間の軌道間隔が広げられたのは戦後のこと」だった。事実「昭和15年度電気事業成績調書」には,軌道改良(未竣工の部)に「伏見線・丹波橋~中書島間軌道改修工事」の記載があり,戦時体制のためか「工事施工未認可ノタメ」とあり,下伏見線における工事難航が推察できる。一方,戦後の50.5.2~10.10の間,七瀬川町~棒鼻間で軌道改修工事が実施されているが,これも軌道中心間隔の関連工事だった可能性がある。(9/29/2025)


京都京阪バス17号系統

市電とは無関係な話題だが,京都京阪バスから,17号系統を7月末で休止する旨,公告が出ている。主たる理由はお馴染の運転手不足とされるが,決して利用者の多い系統ではなかった。現行17号系統は,久御山町と松井山手を京都南道路経由で結ぶ系統として,2018年3月17日に運行を開始した。並行する系統はほぼ存在しないため,(中山間地でも無いのに)かなりの区間で路線バス完全撤退となる。

現在の京都京阪バスの営業所は八幡1ヶ所だが,京阪グループのバス会社間の路線再配分の結果,営業所最寄りの「御園神社」を自社路線が通過しない設定になっている。17号系統は御園神社から南道路を隔てて東隣の「八王子」を通過するから,例えば営業所に忘れ物を取りに行く際に利用可能だった。その他,京都京阪バスは松井山手に旅行カウンターを設置している為,そことの書類搬送にも利用できたが,8月以降は自社バスでの連絡は不可能になる。なお同系統は,(B/C的に無理筋にしか見えない)「小浜・京都ルート」と完全に並行している。

京都京阪バスは06年4月に京阪宇治バスから改称されたが,その前身は02年まで存在した京阪宇治交通だった。京阪電車がくずは・男山地区に団地を造成するに際して,フィーダー輸送を委ねられた京阪宇治交通は,男山営業所と0~10番台の系統を設けて対応した。嘗ての17号系統は,宇治車庫~樟葉駅間の長距離系統として,1972年3月から07年11月まで1号線BP経由で運転された(下図参照)。区間や意義は異なるが,木津川の右岸・左岸を繋ぐ系統であることは当時も同じだった。

京都京阪バスの付番ルールもだいぶ乱れて来ていて,26号系統が本来の久御山団地系統と京阪バスから移管された八条口~京阪淀系統の複数存在したり,ニンテンドーミュージアム関連の64号系統は,元々田辺地区の系統番号で,現在も京阪バスが運行する等,同一グループ内でも番号が重複している。これに京阪京都交通が加わると,運行会社の区別すら余所者には解りづらくなる。京都市バスは17号系統を京都バス大原線に譲って誤乗を防ぐ挙に出たが,そろそろ会社横断的に系統番号を整理する必要があるだろう。

昔,京都交通は略称に「京バス」を用い,京都バスと区別したが,今の「京阪京都交通」と「京都京阪バス」の併存は,ネーミングセンスを疑う。(7/5/2025)


路線廃止に伴う新設系統(妄想)

国鉄末期には,敢えて不便にして旅客を減らそうとしているとしか思えないローカル線ダイヤが見られたが,京都市電でも「財政再建」途上の部分廃止時の系統に似た印象を持った。

例えば1972年1月23日の千本・大宮・四条線廃止では,16系統(九車~烏車)が16年ぶりに設定されたが,それが独自性を発揮するのは東山線の今出川以北と七条以南の間の流動になる。そのような流動が多いはずは無く,特に今出川以北では空気輸送に近かった。この時に熊野神社前の亘り線(南~東)は停止されたが,残された路線を活用するためには,16系統は熊野で曲がって銀閣寺と結ぶべきだった。九車~熊野~銀閣寺は,278系統や22出入庫で九条車庫が毎日運行していたルートだったので,九条担当系統として違和感はなく,20系統による祇園以北と銀閣寺間の流動をカバーしたはずだ。20系統の代替バス220系統は,熊野から先が熊野→天王→銀閣→百万→熊野の一方循環だったので,例えば岡崎通→四条京阪だと,大幅な遠回りとなって代替機能に乏しかった。16系統を左図のように設定した場合,72.1.23~76.3.31の4年余運転可能で,四条京阪~祇園間徒歩連絡で,京阪と銀閣寺方面の連絡にも寄与したはずだ。

なお市電全廃時の代替バス222系統では,循環運転をする甲・乙以外に西大路回りで烏車~九車間を結ぶ222系統が補助的に運転された一方,東山回りの区間系統は設定されなかったので,益々交通局が16系統を設定した意図は不明確だ。

74年4月1日の烏丸線廃止時には15系統が廃止され,河原町今出川の亘線(南~西)が停止されたが,この場合も15系統と5甲系統を合わせた形の系統(四河~烏今~白梅~烏車~高野)を設定できたはずだ。ここでは14系統と呼ぶが,河原町線から今出川線を結ぶルートは,同志社の通学に必要だったし,また毎月25日の北野天満宮の縁日輸送にも有効だったはずだ。14系統の烏車以西(14甲)は常時運転である必要は無く,平日朝夕と日祝日・毎月25日の昼間のみの運転で良かった。烏車以東(14乙)は13系統の出入庫として従来から運転された系統の改称に過ぎない。錦林時代の22系統も乙は常時運転に対し,甲は平日朝夕運転だったから,同一系統が部分的に異なる運転形態を取ることに違和感はない。左図の14系統は,74.4.1~76.3.31の2年間運転可能だったが,このルートは部分的に市バス59系統がカバーしていて,代替バス215系統の調整が必要なため忌避された可能性がある。

この場合,14甲運転時間帯には13-14系統として,(甲→)烏車~白梅~烏今~四河~高野~烏車(←乙)の運転とすればよいが,運転時分約70分と,13い系統(烏車~高野~四河~高野~烏車)の運転時分約65分と大きな差は無い。なお13系統についてはワンマン化の頃,四河~洛北~百万に延長する計画があったとの証言もある。烏丸系統のワンマン化(1970.1.16)の告知に関する,べぃ様の2006年5月6日付の伝言板記事では,

 私の記憶しているものを申しますと、

1.5、13、15にワンマンカーを運行。
2.百万遍・西大路九条間の連結車運転を取りやめ。
3.13系統を高野・百万遍間延長

という掲示で、そのうち3.が塗りつぶされていたものです。あの時期、北大路線烏丸車庫以東、東山線北部、下鴨線には割合頻繁に乗る機会がありましたので、この掲示と烏丸車庫の1800、1900の運行開始を割合鮮明に憶えているのですが、何分36年前のことですので実際のところは如何なものだったのか……?
 上記3.が塗りつぶされていたのは、作者様がおっしゃっている13(い)も含めたワンマン化が局内の連絡不十分で上記のような表現になってしまったものか、実際に13系統の全便百万遍延長が予定されていたのが直前に中止になったものか、あるいは上記掲示自体私の記憶違いでしょうか?

その意味では,昔の14系統よろしく13系統共々百万遍発着とするのが,16系統に烏車~百万間を走らせるより効率的だった可能性がある。(6/22/2025)