JavaScriptを有効にしてください

Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

京電・市電併存時代

「京都市街全図」(1913)裏面に掲載された,京電・市電併存時代の市内路線図を示す。明記されていないが,運賃区界停留場も記載されている。紛らわしいのは京電は●が区界停留場,〇が一般停留場,◎が区界でない乗換停留場であるのに,市電側はが区界停留場,●が一般停留場を表現していることだ。左図では,京電の区界停留場を,市電の区界停留場をで表示している。ただし幾つかの疑問点はある(図の時点では,七条線の六線共用区間は未開業であることに注意)。

下の運賃表では「五条御影堂」「錦小路」が区界停留場になっているが,左図ではそれらの後継に当る「五条小橋」「堀川蛸薬師」は一般停留場になっている。これらは隣接の区界停留場と近いため,区界停留場としない(つまり運賃値下げ)ことにした可能性がある。また市電側は交差点(四条烏丸,烏丸丸太町)が区界停留場であるか否かが,「京都市電気軌道線路略図」からは読み取れない問題がある。左図では区界停留場扱いにしているが,京電の堀川下立売(+塩小路坂ノ上)以外の乗換停留場は,区界停留場ではなかった例もある。この時期の運賃は,何れも区界停留場2個まで1区で,区界停留場4個を超えると3区で固定されていた。

左図には予定線(未成線)も記載されていて,堀川中立売から堀川~寺之内~御前経由で北野を結ぶ路線(+寺之内御前から金閣寺への枝線)と,後の叡電に相当する三宅線が京電の計画,烏丸今出川~河原町一条を結ぶのが市電の延長計画である。市電側の計画は実現したが,この先鴨川を渡って東一条通から東山通を熊野神社前へ延伸する計画だった。これは今出川通の延長上に西園寺公望の別邸(現・清風荘)があってこれを迂回する為だったが,結局敷地の一部が今出川通の拡幅用地に提供された。東一条通に市電が走ることはなかったが,川端~東山間はその準備工事で拡幅されている(右写真は清風荘の庭園から見える大文字)。

京電の西洞院線の敷設は遅れた為,停留場名が西六条や西松原等,木屋町線を基準として「西」を付すものが多いが,札幌市電の山鼻西線の停留場名(西線6条等)を想起させる。(12/14/2025)


通行税導入後の運賃

京電開業時は自由乗降方式だったが,効率性や安全面で問題があるため,ほどなく停留場が設定される。左は明治42(1909)年発行の「京都電鉄案内」の抜粋だが,乗降場所の項には,「電車乗降ハ必ず電車停留場(電柱ニ〇〇あり)〇を注意せらるべし」とある。〇の字は読めないが当時架線柱に停留場名が標記されていたことを指すと思われる。東廻線の「上ノ口」停留場は交差通名だが,以前は「六條」と称し,後には「市姫」(旧六条通の市比賣神社から)に変更される等,初期には停留場の位置と名称は小刻みに変更された。通行税導入に伴って,1銭区間は2銭になるが,それを避けて区界停留場2個まで3銭が初乗り運賃となり,以降は区界停留場ごとに1銭ずつ上がり,市内線については8銭が上限とされた。

京電開業時には「半区」の定めがあり,半区1銭-1区2銭-1区半3銭-2区4銭という数え方をしたようだ。それによれば税込8銭の上限運賃は3区半に相当する。ただ運賃区間が細かいと切符の売り方も煩雑になるため,明治末年頃までには,区界停留場2個ごとに2銭上がる運用になり,さらには市内線では3区(税込7銭)が上限とされたようだ。市電開業時(1912年6月)には,区間制を採用する京電の営業妨害とならぬよう,1区2銭-2区4銭-3区6銭のいわゆる「2-4-6制」が採用された。これは税別なので,実際は税込3銭-5銭-7銭となり,3区7銭の上限運賃は京電に揃えられた。

1918年7月に京電が市営に統合されると,市内線については均一運賃(税込5銭)に移行したが,伏見線については区間制運賃が継承された。運賃上の区分として,市内線を「本線」,伏見線を「支線」と呼称したが,4年後の22年10月に塩小路~勧進橋~稲荷間が本線に編入される。本線内の乗換は無料だったが,本線-支線間には乗換運賃が設定された。足し合わせ運賃にすれば通行税を2度支払う不都合が生じるためで,京電の時代から存在した。伏見線の運賃については項を改めて記述する。(12/2/2025)


通行税の推移

1988年度末まで,鉄道の特別車両料金(グリーン車・A寝台・近鉄のデラックスシート等)と上位船室料金,航空運賃に税率10%(離島路線は5%)の通行税が課税されていた。1989年度からの消費税導入に伴って,廃止されたが,当初は税率3%で「薄く・広く」という触込みだったが,現在は全旅客から昔の上位クラス並みの税率10%が徴収されている。本項では通行税導入の経緯と,その後の推移について概観する。

最初の通行税は,日露戦争の戦費調達を名目に,明治37(1904)年の「非常特別税法」(法律第3号)で導入が決まり,翌05年1月1日から徴収が始まったが,規程では「平和克復」の翌年末に廃止される臨時特別税だった。日露戦争は05年9月のポーツマス条約締結で終結したから,翌06年12月31日に廃止されるはずだったが,戦費調達は口実に過ぎなかったようで,政府は財政難を理由に06年3月に廃止規程を削除して恒久税化を図った。明治43(1910)年には正式に「通行税法」(法律第5号)が制定されたが,その内容は以下のようだった。

~50哩/海里
80.46/92.6km
~100哩/海里
160.93/185.2km
~200哩/海里
321.86/370.4km
200哩/海里以上
1等5銭20銭40銭50銭
2等3銭10銭20銭25銭
3等1銭2銭3銭4銭
課税対象は汽車・電車・汽船で,当時登場し始めた自動車は(徴税が難しいという理由で)除外されていた。路面電車で日々1銭の運賃を払う通勤客が100%課税される一方,人力車(タクシー)に乗る富裕層(?)は課税されないという逆進性は当初から認識されており,回数券・定期券については5回分の課税になった。当時の回数券が50枚綴り等,枚数がやけに多い理由は節税の側面もある。通行税1銭で50枚綴りなら,1券片当りの負担は1厘に下がる。戦後はどこの都市でも回数券のばら売りが現れたが,通行税があった当時,ばら売りは違法行為(脱税)とされ,罰則も定められていた。
初期の通行税は,21年後の大正15(1926)年3月末に撤廃された。ガソリンの「暫定税率」も74年の導入時には2年間の時限法制だったはずだが,結局51年間も続くことになった。政府が一度掴んだ税源を手放さないのは,昔も今も変わらない。通行税の廃止も代替財源が問題となり,結局資本利子税や営業収益税(従前の外形標準課税から変更)が創設されたが※注,この時は旅客から名目を変えた税を徴収することはなかった。(暫定税率廃止に際して,走行税等の自動車利用者への別課税を新設するのでは意味がない。)

~40km~80km~120km~160km~300km~500km~800km800km超
1等10銭20銭30銭60銭1円20銭1円80銭2円40銭3円
2等5銭10銭15銭30銭60銭90銭1円20銭1円50銭
3等2銭5銭10銭20銭30銭40銭50銭
しかし一旦廃止したものの,政府にとって通行税は忘れ難く,折からの日中戦争の機運もあって,昭和15(1940)年に再度「通行税法」(法律第43号)が制定される。この制度が1969年5月の等級性廃止(グリーン車設定)を含む幾多の改定を経て,1989年3月まで継続した。さすがに市電のような短距離の3等運賃は非課税とされたものの,京都-大阪間は省線で42.8km,京阪(三条ー天満橋)48.0km,新京阪(大宮-天神橋)42.6kmだから課税対象になった。税額の距離帯区分が細かくなったことと,3等と上位等級の差が縮小したこと,陸路と海路が同じ扱いとなったことが注目される。(11/21/2025*)

※注:菅沼明弘,通行税廃止問題とその背景,税大ジャーナル, no.37, 2025.


創業時の京電運賃

京電は1895年に開業したが,その初期の運賃が「国民必携年中宝鑑」(益世館,1901年10月刊)に掲載されている。運賃は極めて単純で,初乗り1銭で,運賃区界停留場を過ぎるごとに1銭が加算される。この書物には,北野線(00年5月)の運賃が掲載され,出町線(01年3月),堀川線下立売~三条間(01年12月)は掲載されないため,1900年末頃の状況に対応するものと考えられる。時代的に全国の路線データを遅滞なく収集・掲載するのは著しく困難だったに違いない。ただ木屋町線の平居町以南については,新寺町通に移設(01年1月)後の可能性もあるが,七条内浜が区界停留場でない為,間之町経由を想定する。しかし七条停車場~六条間に区界停留場が無かったとしても,中間停留場は2箇所程度存在したはずだ。

区界停留場は,やけに近い所(六条~五条御影堂間や智恵光院~千本間等)もあり,均等ではなく,何らかの戦略性が感じられる。例えば京阪電車の対距離運賃が,他社線との競合が無い中間地点でほぼ最高額に近づくように設定される等である。結果的に西廻線が無い段階では,北野まで13銭とかなり高額だった(明治末年の貨幣価値が約3800倍とすれば490円に相当)。なお当時の北野終点は元の一の鳥居の横で,今出川通よりずっと南に位置した。鴨東線については,乗継割引が設定されていて,三条小橋以南または二条寺町以北から乗車した場合は,二条橋まで無賃扱いとなるため,二条橋以遠の運賃を合算すればよい。例えば七条停車場~三条小橋が5銭,二条橋~粟田が3銭だから,七条~粟田間は8銭(約300円相当)になる。

京電は第4回内国勧業博覧会が岡崎公園で1895年4月1日~7月31日に開催されるのに合わせて,観客輸送を目的に開業した。しかし丸太町線に「博覧会前」と称する停留場が存在するのは奇異に感じられる。これは明治4(1871)年以降,ほぼ毎年開催された「京都博覧会」の常設会場が京都御苑の南東部に建設されたことによるが,この博覧会場は1897年に岡崎公園(京都市勧業館→みやこめっせ)に移転し,停留場名は「富小路」に変更されたから,ここにも情報の遅れが見られる。

しかし初乗り1銭は長くは続かず,日露戦争の戦費調達のため,明治38(1905)年1月1日から「非常特別税法」に基づく通行税の徴収が始まる。当初は2年間で終わるはずだったが,政府は廃止規程を削除,恒久税化が図られ,大正14(1925)年度末まで21年続くことになる。結果的に,通行税の導入は電車運賃(税込)の上昇をもたらすことになった。(11/15/2025)


七条停車場


高倉跨線橋(2)に掲載した,高山禮蔵氏による京都駅周辺の配線図は一部修正したもので,原図は左のようだった。違いは東洞院に入る軌道が塩小路の西行線に繋がる点である。東洞院線が北行で運用された以上,東行線と接続しないと運用できない為,修正を行った。しかし中写真では左図の如く,東洞院線は塩小路通南側の軌道に接続され,原図の状態が確認できる。塩小路線の高倉~東洞院間は1901年4月の開通で,伏見線と東廻線の七条行の単線並列だった。しかし塩小路線の烏丸以西の開通は04年12月だったので,七条停車場は依然として終端停留場だった。従って塩小路の南側線で七条停車場まで来た電車はそこで折返して東洞院線へ入ったはずで,その場合は東洞院線が西行線と繋がっていても不思議はない。この時期には北側線は伏見線発着に使われており,伏見線へ出入庫する為には,終端部には亘線があった筈で,北側線の奥には電車の滞留(操車場機能?)が見える。

04年12月に西廻線が開業すると,東廻線とのスルー運転が開始されたから,東洞院線は東行線と接続される必要がある。高倉跨線橋(2)所載の修正図は,西廻線開業後の状況を想定している。実際,右写真では東洞院線が塩小路通北側の軌道に接続されているが,状況は架線を見ると確認し易い。特に右写真では架空複線式になっている点が,中写真と大きく異なる。路面電車の帰電流による水道管等の電食が問題となり,その対策として内務省が「市街地の電気鉄道は架空複線式にすべき」ことを通達(1899)している。京電は架空単線式で開業しており,中写真でもそれが維持されている。京電が架空複線式に移行した年次は不明だが,概ね明治40(1907)年前後かと思われる。なお右写真では,伏見線が使う北側線は単線式のままであることに注意されたい。

公式の記録では,塩小路線の東洞院~烏丸間の開通も西廻線と同じ04年12月とされるが,京電開業当初の写真でも乗り場は塩小路通側(初代駅前)にあったようだ。従って烏丸付近まではもっと早い時期に敷設された筈で,中写真の撮影時期は新高倉線開業の01年8月以降,04年12月までの間と推察できる。左図は塩小路線が西に続くように見えるが,そうならば東洞院線の繋がり方は誤りであり,もしも塩小路線が七条停車場で打切りならば,亘線の記入が必要だろう。なお右写真の撮影時期は,05年1月以降,市電開業の12年6月以前と推察されるが,14年8月には2代目駅本屋が竣工している。(11/1/2025)

※ 本項の写真は,明治期の案内地図及び絵葉書からWeb上に転載された画像を用いている。何れも写真著作権の保護期間(当時は公表後10年;現行法では撮影者の死後70年)を経過したものと判断できる。


京電系統図

市電については,「軌道事業略史」(1952)によって運転系統の変遷を追うことができるが,買収前の京都電気鉄道の系統については殆ど資料が残っていない。しかし市電開業後・伏見線中書島延長前の時期(1912.6-14.8)の系統については,大阪毎日新聞発行の「京都市街全図」(1913)の裏面に記載がある。鴨東線は買収後は線内折返しだったが,この当時は3系統が設定されていて,木屋町二条のデルタ線が全方向使用されていたことが判る。また買収と同時に休止→廃止された御池線は,堀川御池からの線内折返しだった。ただし3系統を含めて,この当時の系統番号は乗務系統で,旅客向けに案内されていた訳ではなかろう。京電は開業当初,行先を大書したサボを用いたが,方向幕設置後に系統板を掲出した写真は歴彩館所蔵の石井行昌作品には見られない。

市電買収後には,3系統・7系統を除いて,ほぼそのまま市電に引継がれている。1→18,2→19,4→16,5→17,6→11系統であり,鴨東線は線内折返しの14系統になった。ただし伏見線系統については,東廻り線・新高倉通の単線を廃止し,東洞院通を複線運用に変更した結果,塩小路線の東洞院以東は伏見線専用になり,運転整理の関係で七条停車場(=烏丸塩小路)には入らず,塩小路東洞院で打切りとされた。その痕跡が後年まで,塩小路東洞院~高倉間の亘線に残されていた。(10/20/2025)


ガイドウェイバス

Memorandaにゆとりーとラインの画像を掲載したので,市電とは無関係だが,バス系の交通システムについて書く。

ゆとりーとラインの車両は,前輪の前と後輪の後の両側に計4個の案内輪を装着している。⇒詳しくはガイドウェイバスの仕組み参照。
この路線の場合,大曽根の転回場と小幡緑地のモードインターチェンジ間は完全にガイドウェイ走行をするが,ガイドウェイ区間での分岐や折返しはシステム的に困難で,分岐部等は自由走行とするのが合理的だが,その結果,現行制度では大型2種免許を不要とするのは難しい。

AdelaideはO-bahnを導入しているが,駅間ではガイドウェイを利用し,駅部では自由走行になる。これは追越し等を可能にする為だが,分岐にも対応可能だ。⇒YouTube

Bangkok BRTは逆に,駅間が自由走行で,駅部ではホームに寄せるためにガイドウェイを使用していた。しかし次期車両には案内輪が装着されない予定らしい。Mexico CityのMetrobusも,島式ホームを使用する路線ではマニュアル運転でホームに寄せているので,運転技術があれば可能ということだろう。
今日ではハード的なガイドウェイは必ずしも必要とされず,気仙沼BRTのような磁気マーカーでも進路の拘束が可能になるが,中国中車(CRRC)が開発したART (Autonomous Rapid Transit)では路面のマーキングを検出して走行する。いわゆる「新交通」(AGT)のAは"Automated"だが,"Autonomous"はより自律性が強調されている。基本的には電気バスで,烏山線のEV-E301系同様,停車中に充電され,LRT並みの輸送力を持つ。2017年の湖南省株洲市(Zhuzhou)からスタートし,四川省宜賓市(Yibin)や上海市等で運行され,MexicoやMalaysiaにも輸出されている。しかし路面マーキングだけでは,積雪時の運用に不安があるから,日本に導入するなら磁気マーカーが必須だろう。⇒東洋経済
東山通の混雑は危機的なので,京都でも何らかの新技術の導入が緊急の課題で,その意味で軌道工事が不要な中量システムは検討に値する。(10/11/2025)


西洞院線単線問題

大阪朝日新聞,19.7.5付「京都附録」には,買収後の京電の広軌化に関して以下の記事が掲載されている。
軌隔統一案附議の風雲暗澹の市会 少数意見の発表に質問質問また質問 結局12名の委員附託

市電軌隔統一案は4日の京都市会に提案せられたり、同案は市理事者たる事務家が技術者を圧迫したりとの説高く、議員間に議論多きのみならず理事者間に於ても意見一致せざる点少からざるより議場大に緊張し傍聴者も極めて多し、各派間に幾多の交渉ありたる後午後3時に至り漸く開会、…愈問題の軌隔統一案に入り安藤市長登壇大略は左の説明を為す

昨年7月1日より本市の経営に移れる旧京電線は其連道、架線、車輛ともに廃頽に近づき大修繕を施すの要あるに至りしより此際その改修と同時に軌隔を拡げ在来の市営線と完全に統一を遂げて運轄営業を円滑にし市民の利益を図り会社買収の目的を完結せんとす、而して軌隔統一に就て道路の拡築を遂行する事は本市の希望する所なるも京都市財政の状態は未だこれを実現するの域に達せず、已むを得ざるものの外は現状維持を標準とせり、本案を摘説すれば
一、軌条は全部在来品を使用の事
二、次の隔間は廃線とす:七条線(西洞院及東洞院に至る)鴨東線(二条木屋町より東山線に至る)下立売線(堀川より烏丸通に至る)各共用線、新高倉線
三、左の区間は単線運転とす:寺町線、西洞院線(七条より四条に至る)
四、新寺町線五条、七条間は12間幅に拡築
五、西洞院線三哲、七条間は9間幅に拡築
六、三哲車庫を改造し北野車庫を廃止す
七、旧車輛は全部売却し新車輛40輛購入の事
八、堀川発電所移転の事
九、架線は全部側柱式(伏見線東洞院線広小路線を除く)
十、工事期間は約2年とす
而して軌隔統一費は乗車料増収見込不用電車売払代三事業積立金の中繰入歳計剰余金等を合せ98万5千円及び市債220万円を以って之に充つ

七条線の西洞院~東洞院間廃止は,この間を塩小路通・京都駅前経由で代替する案(後の計画14号線)があった為だろう。当初から単線で引継いだ寺町線の単線運転は当然として,問題は西洞院線の単線化が含まれることだ。大国議員が登壇し,「市参事会の少数意見を代表して陳べんとするは西洞院線の単線問題なり、複数敷設さるる市電中に単線の存在するが如きは甚だ不都合ならずや、同線路は京都市民全体より見て原案の如く単線存置の価値なし、都市の面目上単線路を敷設するが如きは技術上に於ても面目からず、況んや烏丸線、大宮線は西洞院線と相距る近きにあらずやと西洞院線廃止を主張」し,今井議員も「京電買収当時既に軌隔統一の議ありしや否や、将又軌隔統一は都市計画実行の暁まで延期し得ざるや否や、木屋町線は将来存続する意ありや、二条線撤廃の理由、西洞院線を単線と為すの理由、七条線の廃線等につき質問」した。

これに対して安藤市長、鷲野助役は,「京電線買収の際に己に線路は最早用に立たざるもの多く、予てより線路を修復すると共に軌隔統一を断行せんとの意見を懐き居りしものなり、都市計画の暁まで軌隔統一を延期するを得ず而して今日軌隔統一を実行せらるるとも都市計画の際は其の一部は改廃せらるるやも計られず今日より予め明言する能わず、…西洞院単線につきては現在西洞院線には四箇所の停留所ありて京都市には重要なる線路なり、将来堀川線に関連するものなれば堀川線を延長するに至るまで存続を必要とするも、複線と為す時は経費多大なるを以て単線を以て存続するを可とし廃線と為すべき理由なし」と答弁している。この時市参事会が付した「希望条件」は,① 東山線二条以東疏水に沿える仁王門までの線路を廃止し東山線仁王門以東に新線を延長して蹴上線と連絡する事,② 出町線を軌隔統一工事の最後に着手する事であり,前者は後の計画15号線,後者は河原町通への移設(5号線の一部)として実現した。

この記事だけを見ると,恰も出町線同様,西洞院線が単線だったように読めるが,2024年8月の記事では「市営電気事業沿革史」(1933)を引用し,「明治41(1908)年藤本清兵衛氏社長となるに及びて木屋町線・西洞院線・堀川線・北野線・伏見線の複線敷設を断行し,大いに業績の進展を見,43(10)年3月藤本氏社長の任を退くや古川為三郎氏社長に就任せるも僅か4ヶ月にして辞職し,其の後を受けて大澤善助氏同年9月社長となるや増資を断行して…寺町-丸太町-下立売線・鴨東線を複線とせり。茲に於て出町線を除く外全部複線となり,市内の交通を独占せるが故に…社運益々隆盛に向へり」と書いた。

実際,1918年の京電買収時には,引渡し財産として,「此外軌道単線(出町線)1哩1厘、複線14哩6分5厘,合計15哩6分6厘(此の建設費87万6904円34銭)。時価1哩単線約1万5千円,複線約3万円」(大阪朝日新聞,18.3.3付)との記載があるため,移管時点では出町線以外は全部複線化されていたことは確かだろう。従って市会では,西洞院線の広軌化は既存の軌道敷には収まらない為,物理的に単線化が必要になることを審議したと考えられる。なお「西洞院線には四箇所の停留所あり」とあるのは誤りで,四条~七条間には北から,西仏光寺-西松原-西五條-魚棚-西六條の5停留場があった。

図は1912年の市営電気軌道建設時の四条西洞院交差点の工事図面だが,既存の西洞院線は複線で,軌道中心間隔8 ft.だったことが記載されている(Clickで拡大)。堀川線については四条以北は広軌化して北大路まで延長する計画(2号線)だったが,四条以南については大宮線と近すぎるため堀川通への移設は計画されず,西洞院線は狭軌のまま存置となり,軌道中心間隔から上記の新型車両による置換えも実施されなかった。なおの「広小路線」は「出町線」の誤りだろう。(9/13/2025)