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Gleanings from Trolley Days市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集 |
例えば1972年1月23日の千本・大宮・四条線廃止では,16系統(九車~烏車)が16年ぶりに設定されたが,それが独自性を発揮するのは東山線の今出川以北と七条以南の間の流動になる。そのような流動が多いはずは無く,特に今出川以北では空気輸送に近かった。この時に熊野神社前の亘り線(南~東)は停止されたが,残された路線を活用するためには,16系統は熊野で曲がって銀閣寺と結ぶべきだった。九車~熊野~銀閣寺は,278系統や22出入庫で九条車庫が毎日運行していたルートだったので,九条担当系統として違和感はなく,20系統による祇園以北と銀閣寺間の流動をカバーしたはずだ。20系統の代替バス220系統は,熊野から先が熊野→天王→銀閣→百万→熊野の一方循環だったので,例えば岡崎通→四条京阪だと,大幅な遠回りとなって代替機能に乏しかった。16系統を左図のように設定した場合,72.1.23~76.3.31の4年余運転可能で,四条京阪~祇園間徒歩連絡で,京阪と銀閣寺方面の連絡にも寄与したはずだ。
なお市電全廃時の代替バス222系統では,循環運転をする甲・乙以外に西大路回りで烏車~九車間を結ぶ222系統が補助的に運転された一方,東山回りの区間系統は設定されなかったので,益々交通局が16系統を設定した意図は不明確だ。
74年4月1日の烏丸線廃止時には15系統が廃止され,河原町今出川の亘線(南~西)が停止されたが,この場合も15系統を5甲系統を合わせた形の系統(四河~烏今~白梅~烏車~高野)を設定できたはずだ。ここでは14系統と呼ぶが,河原町線から今出川線を結ぶルートは,同志社の通学に必要だったし,また毎月25日の北野天満宮の縁日輸送にも有効だったはずだ。14系統の烏車以西(14甲)は常時運転である必要は無く,平日朝夕と日祝日・毎月25日の昼間のみの運転で良かった。烏車以東(14乙)は13系統の出入庫として従来から運転された系統の改称に過ぎない。錦林時代の22系統も乙は常時運転に対し,甲は平日朝夕運転だったから,同一系統が部分的に異なる運転形態を取ることに違和感はない。左図の14系統は,74.4.1~76.3.31の2年間運転可能だったが,このルートは部分的に市バス59系統がカバーしていて,代替バス215系統の調整が必要なため忌避された可能性がある。
この場合,14甲運転時間帯には13-14系統として,(甲→)烏車~白梅~烏今~四河~高野~烏車(←乙)の運転とすればよいが,運転時分約70分と,13い系統(烏車~高野~四河~高野~烏車)の運転時分約65分と大きな差は無い。なお13系統についてはワンマン化の頃,四河~洛北~百万に延長する計画があったとの証言もある。烏丸系統のワンマン化(1970.1.16)の告知に関する,べぃ様の2006年5月6日付の伝言板記事では,
私の記憶しているものを申しますと、その意味では,昔の14系統よろしく13系統共々百万遍発着とするのが,16系統に烏車~百万間を走らせるより効率的だった可能性がある。(6/22/2025)1.5、13、15にワンマンカーを運行。
2.百万遍・西大路九条間の連結車運転を取りやめ。
3.13系統を高野・百万遍間延長という掲示で、そのうち3.が塗りつぶされていたものです。あの時期、北大路線烏丸車庫以東、東山線北部、下鴨線には割合頻繁に乗る機会がありましたので、この掲示と烏丸車庫の1800、1900の運行開始を割合鮮明に憶えているのですが、何分36年前のことですので実際のところは如何なものだったのか……?
上記3.が塗りつぶされていたのは、作者様がおっしゃっている13(い)も含めたワンマン化が局内の連絡不十分で上記のような表現になってしまったものか、実際に13系統の全便百万遍延長が予定されていたのが直前に中止になったものか、あるいは上記掲示自体私の記憶違いでしょうか?
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左図は60年頃の第1期線上と,それに隣接する折返し亘線を記載している。赤は後年になって設置された亘線,緑は比較的早い時期に撤去された亘線を示す。初期には1期線上の知恩院前(~27年頃)と七条大橋東詰(~39年頃)に操車場があったが,その付近にも亘線が存在した可能性が高く,東山三条北詰にも,蹴上線・京津線関連と思われる折返し線が戦後まで存在した。それらを含めても1期線上の折返し線は比較的少ないが,1期線の外郭の角に当たる箇所の2期線側には,殆ど例外なく折返し線が設置されたことが分かる。なお四条河原町には南北に折返し線が存在したが,四条線との間に亘線が存在したことが無いため省略している。
四条大宮はかつては重要なターミナルだったが,南詰の折返し線の設置は53年3月であり,それまでは四条大宮を起終点とする系統は,ミブまたは四条西洞院まで行って折返していた。四条西洞院の折返し亘線は東詰にあったが,狭軌線廃止後に西詰に移された。3線軌条区間の亘線設置が難しいからだが,その意味では烏丸丸太町北詰の亘線も,3線軌条解消後に設置された可能性が高い。
1期線外郭の2期線側に亘線が設置される場合が多いのは,第2期線の部分開業時には枝線として線内折返し運転をした名残と言える。右図は各線区の最初の開業区間とその次の延長時の運転系統を示す。年代順に見ると;
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錦林の留置線は白川通からよく見えた。1647号等が居たのは奥(西側)の留置線だったが,庫内照明で十分視認できた。 | 上七軒へ向かうツーマン時代の1834号(20乙系統;1969年1月頃)。ひどくブレているが,1800型特有の塗分けが解る。 |
そんな経緯は知る由も無かったが,66年12月のある夜,白川線を北上していたら,錦林車庫に見慣れぬ車両が居るのを目撃した。多分1613号と1647号だったと思う。後にこれを含む4両が,先行改造されたことを知る。当時,市電の塗色変更が進行中だったが,何故か1647号(←667号)は旧塗色で出場していた。
ワンマン化に際して1640号より若い車号は九条に配置されたが,改造初期には全車錦林配置だった。1600型が営業運転に出たのは年が替わってからだったが,ワンマン化は更にその1年後(68年3月)になった。当初はテープガイドの設置が無く,次駅案内は運転士の肉声だった。
1800型は68年12月,1806・1807号を白梅町で見掛けたのが最初だと思う。600型の半丸鋼を用いたウインドウシルに合わせて,1800形でもワンマン帯の下にベージュの帯が見えるようにするための塗装だったが,塗分け線が大幅に下がった為,中扉付近の処理を含めて,ツーマンでは鈍重な印象を受けた。
1600型がワンマン運転に入る前,67年春頃から既存ワンマンカーの在来色への塗色変更が進められた。その際,従来のワンマン帯は妻面だけだったのを,車両全体に巻くことになり,特に妻面の帯2本化については,(屋外広告規制と同じ意味で)古都には相応しくないように見えた。旧塗色時代の写真は殆ど無いので,デジタル青信号(同志社大学鉄道研究会OB会)へのリンクを張る。特に上から2枚目は,連結車の連結面を示す貴重なカットと言える。
京都駅降車場に停車中の2600型2連で,右は2601号,左の車号は読めない。ワンマン帯は1本であることが判るが,連結器とその下の電気連結器がはっきり見える。連結面側の系統板や方向幕,更には急行板まで,単行と同じ表示がされていたことが確認できる。連結車の連結面側に乗った時,連結相手の系統板を見て,なぜ手間を掛けるのか疑問だった。(2両目前扉は乗務員不在のため,2両目の乗車客への案内か?)
※なお同ページ下の2枚の写真について,「1962年頃だと思います」とあるが,九条への1800型配置は壬生廃止直前からなので,72年1月頃の誤り。そもそも62年にはワンマンカー自体存在しない。(5/17/2025)
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1912年陸地測量部1:20000 | 1925年陸地測量部1:25000 | 1932年陸地測量部1:25000 | 1965年国土地理院1:25000 | 地理院地図(2025.3)※注1 |
内浜の埋立ては市電(広軌線)開業と同じ1912(明治45/大正1)年とされるが,市電停留場には「内浜」の名称が残された。1912年の地形図には内浜が記載されるが,この図には広軌線は登場しない。内浜へは下流側から水路が通じており,京電はこの水路と内浜本体を渡る必要があったが,これら2ヶ所の橋梁は内浜の埋立てによって消滅した。旧東海道線から南側の河道はかなり折れ曲がっていたことが判るが,東海道線の南側への移設(14年8月)に支障した為,1925年地形図の頃迄には塩小路~東寺道付近を旧東海道線沿いに付け替え,直線的に鉄道用地と交差する河道に変更されている。この時期には,図の範囲で市電との交差は七条小橋1ヶ所になったが,高瀬川を利用した舟運は20(大正9)年6月迄に終焉を迎えた。
29年1月には,塩小路高倉~七条内浜間の軌道が計画14号線に付け替えられたが,この時には流路の変更が無かった為,河原町線の市電は高瀬川を2度渡ることになった。32年の地形図では,七条内浜交差点にS字カーブが生じているが,七条以北の軌道表記が狭軌時代から改訂されていないように見える。狭軌線が走った頃は新寺町通と呼ばれていたが,14号線開通までに道路拡幅とそれに伴う軌道移設が行われたはずだ。65年の地形図は伏見線が掲載された最後の図だが,東九条地区(東寺道~九条間)で河道の直線化が行われ,更に2002年には,2025年時点の地理院地図に見るように,崇仁地区再開発と関連して,塩小路通の前後で河道の直線化が実施された。その結果,14号線街路との交差は解消され,旧河道も消えつつある。(5/2/2025)
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上写真は追突された1063号で,熊本市電最古参の1951年製であり,ワンマン登場時の塗装が再現されている。当該車両も,追突した1096号も速度計は装備していない。京都市電では700形と2000形には速度計が装備されていた。下写真は2003号の運転台であり,操作パネル右端のZパンタ上下スイッチと圧力計の間に速度計が見える。目盛は60km/hまでだったが,連結車で千本北大路の坂を下る時,55km/h近くに達していたことを思い出す。700形も同形の速度計を装備していたが,前期型は後付けだったようで,前面中央窓枠に設置されていた。
1966年時点の市電(貨車・無軌条線を除く)346両中,速度計を設置していたのは54両(15.6%)に留まるにも拘らず,市電には速度制限区間が存在した。その入口の架線柱には琺瑯製の速度標識が設置されていたが,右はその仕様である。例えば,肥後橋~丹波橋間の濠川や,葵橋西詰の賀茂川手前に設置されていた。制限区間の出口には,同形の「制限解除」標識が設置されていた。白地緑字だったような気がするが,写真に残っていない。後年には標識が簡易化され,上下線間の吊架線から小型横長のプレートを吊下げる形態になった。(4/12/2025)
大戦期の系統削減で,44年以降運転されなくなった系統もあったが,4乙はち系統,5乙はた系統,6甲はつ系統,6乙はき系統として運転された実績がある。これに対して西側の千本・大宮線には全線を走破する系統は存在せず,西大路線については白梅町~円町間の開通が43年10月と,外郭線で最も遅れたこともあり,ひらがな時代に全線を走破する系統は設定されなかった。西大路線の主力はな系統(天王町~円町~西大路七条~京都駅)だったが,西大路七条止への短縮(44年12月)を経て,数字系統復帰時に2系統となって京都駅発着に戻り,新たに設定された4甲系統は西大路駅発着となった。この体制は長くは続かず,翌46年7月に2-4系統の終点が振替えられ,2系統は西大路駅発着,4系統は京都駅発着となった。
5系統については,本来河原町線を直進して,洛北高校前を経由すべきだったが,計画6号線が未開通だった為,烏丸今出川経由で運転された。17系統も同様に,西大路四条を経由すべきだったが,計画12号線が未完に終った為,七条大宮経由で運転された。都電でも,オリンピック関連工事で青山通の青山一丁目~三宅坂間が廃止になった後,この区間を通過した9系統は六本木経由,10系統は四谷三丁目経由で迂回運転された事例が想起される。(4/2/2025)
1930(昭和5)年4月に鉄道がメートル法に移行するまでは,鉄道全般の寸法はマイルやフィートで記述された。図下側の図面では,広軌線の軌道中心間隔は10'6"(=3200mm)と記載され,外側に寄せられた狭軌線の軌道中心間隔は11'8½"(=3569mm)と相当広い。問題は停留場で,晩年には3線区間の安全地帯は四条西洞院西詰東行しかなかったが,狭軌車の外側軌道からの張出しが(2020-1067)/2=476.5mmであったのに対し,広軌I型のそれは(2286-1435)/2=425.5mmとむしろ小さかった。
大正末期には,200-300-500型の半鋼車が登場したが,車幅は2388mmで統一されていて,外側軌道からの張出しは(2388-1435)/2=476.5mmと,狭軌車と同寸法だった。むしろ2388mmは,3線共用区間で安全地帯の位置を狭軌車と統一する為に選択された寸法ではないか,と疑われる。逆に狭軌線に200型並みの車両を導入すれば,張出しは(2388-1067)/2=660.5mmとなり,既設安全地帯に184mmも食い込むことになるから,3線軌条区間に安全地帯を設置することは不可能と言える。
津軽海峡線では,京都市電と同じく狭軌が外側に寄せられているが,これも狭軌側の車両限界が小さい為と,すれ違い時の風圧を軽減する為だろう。一方,奥羽本線の秋田新幹線共用部分(神宮寺~刈和野間)や,かつて存在した石山坂本線(浜大津~膳所間)の片線3線化では,狭軌が内側に寄せられた。前者では中間駅が島式ホームである為,後者では京阪に比べて国鉄の車両限界が大きく,狭軌車が外側を走れば相対式ホームに支障した為だろう。(3/16/2025)
大石橋(東詰) | 九条近鉄前 |
各操車場への「接近表示装置」の設置は,1952年11月の壬生での試験運用に始まり,55年度に完成を見た。その間,54年の白川線開通に際して「操車場より先の系統,或いは入庫・折返し等を予告し,乗務員及び乗客に便宜」を図る目的で,「系統予告信号機」が銀閣寺道と天王町に設けられた。この信号機は九条にも設置されたが,その他の操車場には波及しなかった。九条の場合,信号機は大石橋(東詰)と九条奈良電(近鉄)前に設置されたが,その現示内容は上図のようだった(各欄,左が壬生廃止前,右が壬生廃止後を示す)。壬生廃止以前には,九条から(7-8-17)の循環系統が運転されていたため,九条近鉄前が3現示しかないのは明らかに不足だった。この信号機が設置された当時には,17系統は乙方向(祇園折返し)しか運転されておらず,九条を東へ出る常設系統は(7-8)の2系統しか無かった為だろう。17系統が循環系統になった後は,どう指示したのか不明だが,少なくとも利用者の観点からは7と17に違いはなかった(九条車庫から祇園を経由して,七条大宮以遠へ行く乗客は稀)。壬生廃止後には甲方向に(8-16-22)が出ることになったので,(16系統の烏丸移管までは)やはり現示数が不足した。 九条の予告信号機の余裕の無さと比べて,錦林のそれは,天王町が5現示,銀閣寺道が6現示と冗長性が高いが,それ故に現示内容は謎だ。錦林操車場開設当初は甲方向へ(2-3-12),乙方向へ(2-3),その翌年には甲方向へ(2-12-22),乙方向へ(2-12)が出ていたので,銀閣寺道の現示数が1つ多いのは理解できる。1960年代までは中右写真(「市電・市バス」2号, 1954)のように,停留場の位置に設置されていたが,後年には下写真のように,折返しポイントの手前に移設されていた。銀閣寺折返しの他車庫系統に対して系変を指示できない為と思われるが,下写真に〇で示すように,折返し線上と本線上にトロリーコンタクターが設置されていた為,折返し便を含めた銀閣寺からの出発順位を知ることができた。 中右写真の現示内容は,上段は(2-12)と読め,中段右は(円)と読めるが,それ以外は判読不能だ。当初だと3系統と,円町折返しの臨22系統があったので,中段は(3-円)でも良いが,下段の1つは(白)として,残りの1灯が何だったかは見当が付かない。天王町も同様で,壬生廃止以前の上3灯は(2-12-22)だったはずで,中段左写真の最下部は(白)に見えるが,残りの1灯が何だったかは不明だ。 | ||||||||||||||||
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![]() | 系統指令信号機は,車庫前という場所柄,乗換等の発生を判断する必要上,また滞留時間も必然的に長くなる為,嫌でも目に入った。これに対し系統予告信号機は,そもそも壬生・烏丸のように通過人員の多い車庫には設置が無く,入庫・折返し等の発生確率も高くない為,すんなり通り過ぎるだけで,信号機の現示内容は印象に残らなかった。(2/15/2025) |