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Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

ひらがな時代の系統板

壬生 烏丸 九条 北野
戦前1935年から45年の10年間,京都市電系統はひらがなを採用しており,当時の系統板が円形であったことは写真から判っているが,白黒写真では色は判らない。上のリストは,鉄道省編「日本案内記近畿篇・上 改版」(博文館1941年刊)に掲載された京都市電の案内である。ここに掲載されるのは京都駅前発着の13箇系統のみで,以下のように纏められる。1939年7月の系統と基本的に一致するが,(う)系統については北大路経由の誤りである。
京都駅前ループ線烏丸塩小路(東)烏丸塩小路(西)
う-ゑ-き-ち-つ-ねを-く-た-と-も-や
ここには系統板の色が「白板」「赤板」「青板」と明記されている。赤板が壬生所属,青板(伏見線)が九条所属であり,北野は「白板赤字」と後年の10系統と同じ色遣いだったようだ。当時烏丸が後の錦林のような白板であったことも判るが,文字色は特に注記がないので黒字と考えるのが自然だろう。

左下の系統図は2016年6月頃Web上で拾ったものだが,どのページだったか出自は不明だ。京都駅以南が欠損しているため,細かい時期の特定は困難だが,37年4月の千今直進軌道敷設以降,38年12月の西七~西八間開業以前の状態を表しており,壬生の(う-ゑ)系統が北大路経由の循環運転である点が上のリストとは異なる。図には系統板の絵が添えられていて,烏丸所属系統は白地に黒字で表現されている。

戦後,銀閣寺操車場は壬生の担当だったが,この系統図から当時は烏丸の所管だったことが判る。(き)系統は,後に行先が高野に変更されたが,高野操車場もまた烏丸の担当だった。この結果,か行の系統は(か-け-こ)が壬生,(き-く)が烏丸,な行は(な-に)が壬生,(ぬ-ね-の)が烏丸と,分割管理されていた。

系統図では,北野の(ろ)系統が薄青~灰色バックになっているが,右中の交通局archiveの写真(恐らくは北野終点のN125号。この写真の主眼は女子車掌の登場にある)は,白板赤字と矛盾しない。右下に当時の系統板(円板)のサンプルを作成してみた。写真を見る限り「縁なし」であり,前部のみに掲出された為,後方からの系統特定は困難だった。(2/29/2024)


安全地帯

安全地帯が拡幅された現在の長崎駅前。エレベータは手前階段の外側に設置。(2023.4)
京都市電の交差点における安全地帯は,交差手前が原則だったが,多くの交差点で1965年頃に交差後に変更された(詳しくはこちらを参照)。交差手前での信号待ち車両の輻輳を緩和する為だろうが,結果的に電車の2面待ちをしなくて良くなった。たとえば河今から百万遍だと,東行が東詰に統合されれば,西詰の1-22系統と南詰の2-12系統の両睨みが不要になる。一方,河今から烏車以西に行く場合は,南詰で5-15系統を待てば済んだのが,北詰の5系統と西詰の15系統の両睨みが必要になったが,こうした例は稀だろう。

例えば河原町線だと,今出川と四条が交差後に変更され,丸太町と七条は交差手前に存置される等,交差点ごとに統一的に行われることが一般的だったが,図の千丸・烏丸のように,南北方向は交差後,東西方向は交差手前と混在した交差点もあった。両交差点とも直進系統のみが運転されたため,一見問題は無いように見えるが,問題は千丸で曲がる初電・終電時の臨20出入庫系統である。終電が東詰と南詰で2重停車になるのは良いとしても,初電については乗降を扱える場所が無いことになる。この壬生5:06発の銀閣寺行に乗った経験は無く,南詰・東詰の何れで扱ったかは定かでないが,京都市電の安全地帯配置におけるほぼ唯一のバグと言える。(正解は千本線の安全地帯を南詰の相対式にすることだろう。)

伏見線は変則軌道だった為,南行は路側乗降になる停留場が多く,さほど危険ではなかったが,北行については路側乗降となる肥後町・丹波橋・棒鼻と,伏見線唯一の安全地帯が設置された十条通を除いて路面マーキングのみで,その危険性が路線廃止の口実とされた。また西大路駅前・西大路九条・京阪国道口の3ヶ所の安全地帯は,横断歩道橋直結の相対式だったが,バリアフリーとは程遠い,自動車優先の時代だった。近年まで同様の構造だった長崎駅前電停には,エレベータが整備されている。(2/17/2024)


京都駅前東乗降場(2)

↑1 ↓3↓4 ↑2           ↓5
京都駅前ループ線は1952年8月1日に休止となり,9月20日には3線式の駅前ターミナルが完成したが,東乗降場の方は,連絡線は建設されたものの塩小路線とは接続されず,長らく複々線状態で放置された。図1(「市電・市バス」9号,58-3)は58年12月31日に仮供用した東乗降場のアーケードに言及しているが,これは後の伏見線側ホーム上屋を指す。60年度から「成績調書」(年報)の発行が停止されたため,詳しい記録を辿ることは難しいが,塩小路線との接続は60年7月,河原町線側上屋を含む工事完成は同年9月とされる。[過去記事]

東乗降場移設後は,駅本屋寄りの東1番線が伏見線,反対側の東2番線が河原町線で運用されたが,それ以前の運用方法は定かではない。本HPでは塩小路通上にあった時代には逆に記載しているが,図2(小山徹「京大鉄研雑誌」1957による)が1つの根拠になっている。(この図にも誤りはあって,18系統は行先に応じて両方の番線に入ったはずだ。)たとえばJ.W.Higginsによる写真3では,連絡線直近の旧東1番線に2系統1000型が入線しているのが確認できる。58年度版成績調書に掲載された,アーケードの完成写真(写真4)では,旧東1番線に600型,旧東2番線に800型が入線しているように見えるが,1000型が写っていれば河原町線が特定できた。

需要の大きい河原町線が駅本屋寄りに来るのは,西乗降場の烏丸線同様,理に適ってはいるが,セミクロスシートのパンタ試験車(9系統中書島行)を捉えた写真5(1951西城浩志蔵,「鉄ピク」2011年12月臨増による)は,背後にトロリーポールが見えるので旧東1番線であり,逆の運用がされていた時期もあるようだ。「市電・市バス」1号(54-5)掲載の「電車乗務員座談会」では,北野所属の林氏が,「京都駅前の河原町線-伏見線-北野線等の案内札を立ててもらいたい」と発言されているので,写真5の「伏見線のりば」の標識は,連絡線の工事に伴ってその後撤去された可能性がある。いずれにせよ,西乗降場に比べて東乗降場の写真は(晩年を除いて)目にすることが少ないので,実際のところ記憶を辿るのが難しい。(2/8/2024)


14系統

5
6
14
22甲系統は平日(当時は月~土)朝夕混雑時のみ運転だったので,比較的見ることが少なかったが,それでも終日運転だった時期もあった為,14系統に比べればマシと言えた。設定期間も1955年1月~72年1月の17年間に及んだが,14系統は52年12月~63年6月の10年半と短かった。普段目にしない系統であるにも拘らず,西京大学前(→府立大学前)の系統通知信号機には(14)が点灯するのが謎だった。その後平日朝夕運転であることを知り,61年頃だと思うが,わざわざ放課後に百万遍まで往復乗車した経験がある。乗ってみれば,何の変哲もない系統だったが,(14)の円板の裏が(白)であることを確認できた。百万遍北詰にはかつて折返し線が存在したが,これは既に撤去済(56年5月)だった。

2021年4月の記事に「66年頃だと思うが,烏丸運輸事務所の横に廃止された(14)系統の横板が並んでいるのを見た」と書いたが,内容は全く記憶に残っていない。それを捏造したのが右の図だが,烏丸車庫以西については15系統の横板と同じにしている。しかし平日朝夕運転系統に急行通過停留場である「金閣寺」を採用したかは疑わしい。ただ急行運転の開始は62年3月で,この横板はそれ以前から使われていたはずだ(この当時烏丸横板の広告主は「かねてつ」が多かったが復元困難)。大徳寺前の系統通知信号機には(14)の設定が無いが,烏丸車庫以西は15甲と一致するため,(15)を通知すれば車庫前の発車順位から区別が付いたはずだ。

運転系統図では系統は単色の線で表記されたが,14系統のみ黄・緑の2色使用だった記憶がある。都電14系統(杉並線)も京都と同じ63年に消えた(12月)が,大阪の14系統(守口~あべの橋)は全廃直前となる68年暮れまで残った。(1/11/2024)


赤バス・青バス

「赤バス・青バス」と聞くと,多項選択モデルのIIA (independence of irrelevant alternatives)特性の例を想起するが,それとは関係無く,各地の路線バスで終車の方向幕を赤ランプで,その1本前の方向幕を緑ランプで照らすことの通称として使われて来た※注。赤バスを逃すと後が無いが,青バスなら待てばもう1本あると安心できる。
※注:信号機の"green light"を「青信号」と呼称するのと同様,日本語では慣用的に「青」の範囲が広い。

画像は22系統の青バス(中書島)だが,LED車になると方向幕を照らすことが不可能な為,幕表示部分を赤色または緑色の点列で囲むことで代用されるが,これには少なくとも3色LEDが必須になる。運転席スイッチでは前者を「終車灯」後者を「終前灯」と呼ぶのが一般的だが,ボンネット時代の京都市バスで「続行灯」と称するスイッチを見た記憶がある。電車の場合「続行灯」は単線区間の続行運転を示すのに使われた(例:下之一色線)ので全く意味が違う。

元は都電の方向幕に起源があるとも言われれるが,京都では終電が「終」の円板で示されただけで「青電」は無関係に見えるが誤りだ。表は1953年頃の終電時刻表の5乙系統部分を抜粋したものだが,5乙青前(烏特1へ着発)→5乙青→5乙終の順に記載されていて,少なくとも当時は部内的には「青電」が明確に定義され,それに関しても他系統接続が考慮されていたことが読み取れる。(12/6/2023)


Overtourism and Trams

東山通の市バス混雑を見るに付け,市電が残っていたら違っただろうと考える人は多い。たとえば,
Merkmal: 京都市の「観光公害」45年前廃止の「市電」が現役だったら避けられた? (11/12/2023)
軌道の場合は,広島や宇都宮のような30m級連節車(HU300形で定員160人)を導入すれば,輸送力を格段に増強することが可能になるが,現況の交通状況と迂回経路が存在せず,発掘調査が必須になることを考えると,一度撤去した軌道の再敷設は不可能に近い。だとすれば運転手の労働生産性を上げる方法は連節バスになるが,定員を通常の11mノンステップ車の約75名から120名程度に増やすことが可能だ(日野ブルーリボンの例)。しかし超低床車の場合,東山七条交差点のような急勾配箇所では,底を擦る可能性があり,また東山通の幅員に余裕がない点も条件的に厳しい(最小回転半径は11m車の約8mから約10mに増加する)ため,道路改修が必要になる。→More

東山への鉄軌道アクセスについては,当サイトでは京都駅~七条(五条)間の京阪線への枝線(路線延長約1km)を提唱している。地下線のため費用は嵩むがB/C的にはクリア可能だと考えるが,京都市にも(京阪にも)その財力はないため,別スキームが必要になる(観光庁のオーバーツーリズム対策予算等では桁が不足)。清水寺の場合,五条坂バス停からの0.8km(徒歩14分)に対し,清水五条駅からは1.5km(24分)になるため近いとは言えないが,川端~東山間の歩行者空間を整備すれば克服可能な範囲だろう。しかし歩行者空間と言えば,「歩くまち・京都」構想の要だった都心部の歩道拡幅事業について,2015年10月に完成した四条通(烏丸~川端間)について,タクシー事業者や交差街路住民等からの評判が悪く,これに続く東山通の歩道拡幅については整備が凍結されている。

四条通については,御池通・五条通が迂回路になり得るが,東山通については川端通しかなく,また混雑の主体が府外ナンバー車の混入にあり,整備後の渋滞は一層激しくなると予想されるためである。とは言え,清水道や五条坂のバス停付近は歩行者空間の体を為しておらず,安全上も歩道の拡幅は避けられないから,最低でも祇園~五条坂間は車道の2車線化が必要だろう。その場合,バス・タクシー等の公共交通と,指定車・許可車以外の通行を制限するトランジットモールとしての運用が現実的であり,四条通以上に沿道の理解が必須になる。2車線化で車線幅に余裕が出れば,連節バスの運行も容易になると考えられる。

軌道再敷設の困難さからも,東山通等に市電を残すべきだったという意見は多く,5年前のNewsweekにも同様の記事が掲載されていた(既出)。
Newsweek: 京都は40年前に路面電車を廃止した、大きな過ちだった (5/29/2018)
しかし実際問題として,再敷設をするならば車両基地の確保を含めて課題山積と言える。(11/15/2023*)


信号塔/Switch Towers

交差点の信号塔は,1970年の再建計画による路線廃止開始時点では,左表の水色枠で囲った5ヶ所(京都駅前を含む)が残っていたが,このうち信号扱所として機能していたのは京都駅前のみである。59年時点には,塩小路高倉-九条大宮-西大路七条の3ヶ所にも信号塔が残っていたが,そのうち西大路七条は59年10月24日付で撤去されている。建坪は塩小路高倉を除いて0.93~1.47坪(3.07~4.86平米)と狭小であり,基本的には柱上式平屋建だったため,建坪=敷地面積とすれば容積率100%だったが,京都駅前のみ総2階建のため200%になる。

他に四条大宮北東角にも信号塔が存在したが,56年2月25日に用途廃止となり,57年4月4日付で自動転轍機が使用開始されている。また四条線の反対側,祇園には機械式転轍機を扱う信号小屋があったとされる。祇園の転轍機自動化は59年12月15日付であり,比較的遅くまで存在したはずだが,写真等が見当たらないため形態は不明だ。京都駅前操車塔については,烏丸線七条以北の廃止(49年4月1日)に伴い用途廃止になったが,躯体は巨大な「市電・市バス案内盤」(目的地のボタンを押すと経路を表示)の建屋に流用された。
左は46年10月米軍撮影の航空写真で,左から順に西大路七条-九条大宮-塩小路高倉付近を抽出したものである。撤去された信号塔がどこに在ったかだが,信号塔は3平米ほどの小さな構造物であり,モノクロ航空写真では街路樹と区別が付かないが,敢えてこれではないか,というものを(Mouse-on)で示しているが自信はない。特に塩小路高倉については僅か1.41平米の極小物件だが,この時点には南~東方向の分岐は存在しない点に注意されたい。なお信号塔の建設時期については,1938年頃とされるため,終戦時には存在していた。西大路七条については,「信号塔を廃止して器具函を設置した」とあるが,電空式転轍装置の器具函はコンプレッサー等を含む大型キャビネットで,その設置位置は交差点南西側だったので,敢えて信号塔と別の場所に置いたのか,信号塔の位置を読み違えたのか不明だ。(11/8/2023)


車号記載位置

京都市電では,車体側面の車号は左の梅小路公園の1605号の如く,車体中央に局章の下に記載される(多くの場合切抜き数字)のが原則だった。ところが広軌I型29号では,車体中央の局章は変わらないものの車号は腰板左下隅に記載されている。その後の200/300型でも,下の記事の271号に見るように車号は左下隅にあり,514型も同様だった。ただし200/300型については,塗色変更の際に車体中央に車号が移されている。古い車両がすべて同様かと言えばN電は違っていて,車体中央には車号のみで局章は腰板右下隅にペイントされていた。※注
※注:現車は平安神宮神苑に保存され,2020年に重要文化財に指定されたが,塗装が劣化しているため,「デジタル青信号」所載の画像を加工。

大型車(3扉車)については,1001号に見るように中扉の左側に車号,右側に局章と分離されている。2000/2600/1800型の前中扉車では,1605号と同様に局章と車号がまとめて配置された。しかし車体長が長かった為か,1900型については車号と局章が分離されたが,中扉左側に局章,右側に車号と,1000/500型とは逆の配置になった。

妻面の車号は,29号や271号に見るように,かつては幕板左側に記載された。当時は救助網が大きく,車両後部に畳んだ状態では腰板の車号は見難い為だと思われる。200/300/500型では,幕板の車号は切抜き数字が使われたが,塗色変更と相前後して前照灯右下の位置にペイントされるようになった。それでも昭和40年代初頭までは,500型で幕板の切抜き数字と腰板のペンキ文字が並存した車両が散見された。(10/15/2023)