|
Gleanings from Trolley Days市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集 |
3桁臨時系統は,成績調書(年報)等に記載される運転記録から採取できるものの,全貌は明らかでない。一方,2021年に開催された京都市歴史資料館の特別展「こんにちは京都市電-京都市電関係資料をひもとく」で展示された「電車臨時運転系統図」は,全臨時系統を記載したものと考えられる。当該系統図が有効だった期間は,1954年3月1日の白川線開通から55年1月15日の錦林車庫開設前日までの約10ヶ月に限られるが,55年8月24日まで運転された叡電乗入れ系統が見られる点は特徴的だ。この時期は臨時系統が2桁から3桁に移行する過渡期のように見えるが,56年10月12日の下鴨線開業に合わせて,臨時系統の大幅変更が行われた由なので,その際に系統番号が3桁に統一されたと推察される。左の系統図は見難いので,図に描かれた系統の経路を表にまとめる。10の位の1は壬生,2は錦林操車場,5-6は烏丸,7-9は九条になっており,錦林の22系統や九条の72系統のように,そのまま100を加えた3桁系統に移行した系統も散見される。ただ九条の91系統や北野の101系統は,それ以前には臨9や臨10系統と称していたし,宝ヶ池乗入れの110系統は臨1系統だったという風に,臨時系統の桁数は時代と共に増えて来た経緯がある。54年時点でも,11-12-14-15-16系統は正規の系統として別に存在したから,2桁系統については「臨」を付して区別する必要があった。(7/1/2026)
|
|
![]() |
![]() |
市電営業線で最後に挿入された亘線は,塩小路高倉の南~東間だった。左は当該工事に関する京都新聞の記事(1963.3.8付)で,DRFC-OB会の掲示板に紹介されていたものだ。18系統の京都駅スイッチバックを解消する為の工事で,1ヶ月後の4/20付で供用が開始された。当時18系統は73往復が運転されていた旨の記載があるが,67年時点では44往復に減便されていて,18系統が京都駅に寄らなくなったことが,乗客減を招いた可能性がある。新設亘線の南行は歩道際に設置される等,余裕の無い設計だったが,僅か7年弱で廃止になった。
右は56年発行の「市電・市バス」7号掲載の,河原町今出川交差点に下鴨線への直進軌道を挿入する工事風景である。今出川線との「ダイヤモンドクロッシング」は設置済みだが,掘削区間の手前に見える5系統の南行と2系統の北行の曲線軌道については,交差部分はまだ手付かずになっている。まだ自動車も少なかった時代だが,活線への分岐挿入は現在では一層大変な工事になる。(6/15/2026)
![]() |
![]() |
| ca.1950's, David Cope© | 1978, Mitch Libby© |
赤斜線表示は本則と違う系統であることへの注意喚起で,その場合には行先を確認すればよいので合理的と言える。しかしKawasaki 9000型の方向幕では
のように,細かい文字での表示になった為,見易くはなかった。現行のLED表示だと細かい文字の表示は不可能だが,その代り複数の表示を交互に示すことが可能になる。
映像はSubway-Surfaceの地下区間が工事等で使用不能な場合に,40-Marketで地下鉄に接続するための代替ルートを走るKawasaki車で,当時の34-13-11-36系統が"ROUTE DETOURED"を表示するのが見られる。なお当該系統は,2025年2月からT2-T3-T4-T5系統に改称された。
京都市バスでは短縮系統に「入庫」を使う場合があった。本当に入庫する系統もあったが,206B系統(東山通往復)の南行が
を表示するのは奇異に感じた。京都の場合,漢字による記載も不適切なので,直感的な短縮系統表示が望まれる(系統幕は「市バスの系統を探る」から借用)。(5/19/2026)
![]() |
2箇系統以上を担当する営業所は黒と赤の組合わせになり,どちらかと言えば主力系統の側に黒文字が使われたように見える。例えば三田では1-37系統は運転回数が多く,2系統に至っては1日4回の低頻度系統だった。また都庁前発着の28-31系統では,色分けで乗客の識別を助けたのかも知れない。1箇系統しか担当の無い営業所の系統は黒文字かと言えば,南千住の22系統は赤文字を採用している。ただし電照式系統板は赤文字優勢だったので,交通局自体,気にしていなかった可能性もある。
都電では基本系統の短縮系統(short turn)は同じ系統板を用い,基本系統から分岐する系統を「臨時」と称し,本来の系統板の上に「臨時」と記した細い板を付加した。例えば本来の1系統(品川駅-上野駅)に対して,臨時1系統は室町三丁目から分岐して蔵前線を雷門へ向かったが,臨時が設定された系統は限られていた。名古屋では短縮系統にピンク→黄色の地色を用いたこともあったが,余り組織的に行われたようには見えない。一方で15系統(浄心-名駅)や71系統(尾頭橋-下之一色)のように,専用の系統板を表示する短縮系統も存在した。熊本市電では路線縮小後に3系統:上熊本駅-神水橋と短縮系統:上熊本駅-交通局前が交互に運転されていた時期があって,前者は紺色,後者は赤色の地色を用いて区別していた。
京都市では1952年12月の系統全面改定時に,短縮系統に10番台が振られた経緯がある。そのうち12系統だけが長く2系統の短縮系統(天王-西四,後に四河-西四)だったが,当初は14系統(烏車-西四)は4系統,15系統(四河-四大)は5系統,16系統(四烏-百万)は6系統,17系統(九車-祇園)は7系統の短縮系統だった。後に系統変更の結果,12系統以外の短縮系統は「臨」表示になったが,内部的には3桁の系統番号が振られていたことは別掲の通りである。(4/26/2026)
京電に停留場制が導入された当初は,位置を厳格に捉えていたと見え,僅かな移動も停留場名の変更を伴った。左図は西線・烏丸線・東線の五条~七条間の停留場名の変遷を路線図・地図から拾ったものである。東線(木屋町線)では,上ノ口通から六条通を越えて市比売神社の横(停留場名は「市姫」;改軌後に六条へ戻る)へ移動し,隣の御影堂(町)も少し北の五条小橋に移動している。良く解らないのが「六条通」の扱いで,西線(西洞院線)では,雪駄屋通(≒楊梅通)→魚ノ棚通と移動したが,魚ノ棚通が現在の六条通に当ることから,後に西洞院六条に変更された。しかし初期には西六条→西洞院六条は,もっと南の正面通に当る場所にあり,当時は東西の通りでありながら「御前通」と呼ばれていた。烏丸線ではかつて不明門通の御影堂門の正面に東本願寺前があったが,北隣の烏丸魚棚を1本南の花屋町通に移転・統合して東本願寺前とした。しかし市バスは今でも同じ位置で烏丸六条を名乗る。東西の通りの数え唄では:
| 丸竹夷二押御池,姉三六角蛸錦,四綾仏高松万五条, 雪駄ちゃらちゃら魚の棚,六条七条通り過ぎ,八条越えれば東寺道,九条東寺でとどめさす,※注 |
※注:六条以降は「六条三哲通り過ぎ,七条越えれば八九条,十条東寺でとどめさす」というバージョンもあるが,十条通の開通は1904年であり,後年に改変されたものと思われる。また三哲と七条,十条と東寺の逆転もあって正統と見なし難い。
![]() |
![]() |
地下鉄・烏丸線開業による系統再編でも,左下の1981年の「京都公共交通時刻表」掲載の北行時刻を見ても,小出石や途中までの便が北大路駅発着に変更されたことを除いて,同じ便数が維持されている。1970年代後半,京都市内に乗入れる路線バス(高速バスを除く)は,市バス・京都バス・京都交通・国鉄バス・京阪バス・近鉄バス・阪急バス以外に,奈良交通・京阪宇治交通・江若交通・滋賀交通・近江鉄道バス・帝産湖南交通・丹後海陸交通があり,京都市内から天橋立・奈良・信楽等へ路線バスで直通することが出来た。
京都バスの告知には,小出石~朽木学校前間について「他の交通手段での移動をお願いします」とあり,これに該当する公共交通としては,江若バス51系統(堅田葛川線)がある。これがカバーするのは途中~細川間のみであり,これとて春分の日~12月第1日曜日の間の土休日と8/14~16に1日1往復の運転なので,代替交通としては機能しない。高島市営バス(針畑線)で,梅ノ木~朽木学校前間はカバーされるようだが,京都から朽木学校前へ行くだけなら,湖西線・安曇川駅から江若バス・朽木線が利用できる。
東山通のように,乗客が多すぎて維持困難な路線は例外で,多くは過疎化の進行とマイカーの普及により貴重な運転手の労働力を振り向けることが困難になっている。鉄道廃止後は代替バスを走らせるのが一般的だが,代替バスの乗客は鉄道の4割程度に減少することが経験上知られており,その後の需要減で,バス路線としても維持できなくなった例は多い。更にバス運転手の不足が,供給面から安易な鉄道廃止を阻む要因ともなり得る。(4/1/2026)
![]() |
![]() |
![]() |
| 陸地測量部1:25000,1922(T.11)年測図 | 京都市都市計画図1:10000,1922(T.11)年 | 国土地理院1:25000,1964(S.39)年修正 |
都市計画図は基本現状を描くものであるが,昔のことゆえ計画を描いたものなのか判然としない。曲線の複線化では軌道中心間隔を大きく取る必要があるので,曲線緩和は1908年頃とされる複線化のタイミングで実行されたと考えるのが自然だろう。そうであるなら,左の陸地測量部の地形図は1922年測図(最初の1:25000図)であり,部分修正等ではないにも拘らず,現状を反映していないことになる。これ以後,京都東南部の1:25000図には,1930年の「鉄補」(鉄道補入)から,伏見線廃止前の68年の「改測」までに6つの版が存在するが,少なくとも31年の部分修正図には曲線緩和が反映されたようだ。
右に「今昔マップ」に含まれる64年の資料修正版(原図は3色刷)を示す。複線化時点では伏見線には単車しか運転されておらず,戦後の軌道中心間隔の拡大時にも用地の関係で不十分な改善に留まったのだろう。49年10月の1000形登場以前の最大型車だった500形には対応したが,かなりシビアだったと想像され,最後まで15km/hの制限が掛っていた。(3/16/2026)
市電第2期線は,1958年の10号線(西今出川線)完成を以て整備終了となった。最終的に建設されなかった線区は2号線の堀川中立売~北大路堀川間と12号線の西大路四条~四条大宮間になるが,他に堀川線の四条~中立売間と14号線の京都駅前~七条西洞院間については改軌が計画されていた。これらの線区が全て完成した場合に,どんな系統が運行されたかについて想像してみた。1963年の阪急河原町延伸後の系統をベースとし,四条線の系統数は増やさないことを原則とする。左図では3系統が新設,11-18-22系統が廃止となり,トロバスの電車化を含めると全20箇系統から17箇系統に減少するが,路線延長に伴う運転整理が系統数減少に繋がることは珍しくない。個別具体的には,1-2-6-7-8-9-12-13-19系統は現状維持で,4-5-10-15-17-20系統が経路変更,21系統が短縮になる。この系統を実現するためには,西大路四条に北~西,南~東の分岐,七条西洞院・四条烏丸・四条河原町・北大路堀川に南~西の分岐,四条堀川に北~東,今出川堀川に南~西と北~東の計9組の分岐渡り線の追加が必要になる一方,七条烏丸・西大路四条の南~西,円町の北~東,烏丸今出川の南~西と北~東の計5組は使用停止を想定する。
まず14号線については,市の当初計画通り京都駅前でのスルー運行を想定する。4-5系統がこれに該当する。市の計画には七条線の西洞院~烏丸間の廃止が含まれていたが,ここでは8系統を存置している。5系統は21系統の千本・大宮部分をほぼ代替し,また京都駅から千本へ行く10系統も代替するため,5系統に代えて21系統を四条大宮打切りとし,10-11系統の千本・大宮経由を廃止しても利便性に大きく影響しない。京都駅~北野間は狭軌線10系統の経路だったが,西洞院部分は烏丸から近く,中立売部分は今出川に近い為,これに代替させる計画だった。従って市の当初案通り,10系統を四条烏丸-四条堀川-今出川堀川経由とし,2号線南側の系統とする。
一方2号線北側は烏丸今出川から烏丸通を経由する15系統を堀川経由に変更して対処するが,これで京阪線から同志社への通学需要はカバーできる。結果的に烏丸今出川の分岐が今出川堀川に移転したイメージになる。なお15系統を1956年の設定時のように四条河原町打切りにしたのは,河原町線の需要段差と京都駅前での折返し容量を考慮したためだ。10系統,15系統ともに車庫前を通過しない系統となるため,運転上は今出川堀川への操車場新設が合理的だろう。12号線については,梅津線から3系統が直進し,旧20系統の機能を引継ぐが,錦林操車の関係で22乙系統を吸収して梅津へ戻る循環系統とすることを考える。この系統は現在の203系統のバスに近く,また西大路四条以西での経路重複は,旧代替バス212系統と似た扱いと言える。
12号線にはもう1つ九条-四条循環の17系統が入る。この系統は従来,七条大宮経由の迂回ルートだった。しかし現実の17系統の祇園以南の東山部分は,7系統と完全に重複するため,東側は河原町経由への変更が望ましい。伏見線と繋ぐ18系統は,道路混雑のため四条河原町で折返せず,河原町二条まで延長していたが,17系統を河原町経由とすることで,四条烏丸・河原町から伏見線大石橋までの移動を代替でき,7系統との独立性も担保できる。ただし市内線と大石橋以南との乗継制度については,別途検討が必要だろう。また17系統の経路変更による西大路七条~四条大宮間の移動を,20甲系統の変更で対処している。20系統の南北の経路を四条線に直通させると,阪急延伸後の四条線の需要に対して供給過多となる為だ。
この仮想系統図では,4-5系統が京都駅前をスルー運転するのに加えて,西乗り場で6甲-6乙-10系統,東乗り場で2-9-19系統の各3箇系統の折返しが必要になる。通過線だけでは折返し容量が不足する為,東西それぞれに折返し線を持つ3線構造が必要とされよう。(2/10/2026)