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Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

ワンマンカー登場の頃

錦林の留置線は白川通からよく見えた。1647号等が居たのは奥(西側)の留置線だったが,庫内照明で十分視認できた。 上七軒へ向かうツーマン時代の1834号(20乙系統;1969年1月頃)。ひどくブレているが,1800型特有の塗分けが解る。
2000・2600型ワンマンカーは1964年に登場した。後者の改造は当初50両を予定していたと言われるが,費用・運用両面から18両で打ち切られた。以後はより簡易な改造で対応する方針が立てられ,65年に866号が「MG試験車」に改造され,その経験を踏まえて1600型の改造に移行した。

そんな経緯は知る由も無かったが,66年12月のある夜,白川線を北上していたら,錦林車庫に見慣れぬ車両が居るのを目撃した。多分1613号と1647号だったと思う。後にこれを含む4両が,先行改造されたことを知る。当時,市電の塗色変更が進行中だったが,何故か1647号(←667号)は旧塗色で出場していた。

ワンマン化に際して1640号より若い車号は九条に配置されたが,改造初期には全車錦林配置だった。1600型が営業運転に出たのは年が替わってからだったが,ワンマン化は更にその1年後(68年3月)になった。当初はテープガイドの設置が無く,次駅案内は運転士の肉声だった。

1800型は68年12月,1806・1807号を白梅町で見掛けたのが最初だと思う。600型の半丸鋼を用いたウインドウシルに合わせて,1800形でもワンマン帯の下にベージュの帯が見えるようにするための塗装だったが,塗分け線が大幅に下がった為,中扉付近の処理を含めて,ツーマンでは鈍重な印象を受けた。

1600型がワンマン運転に入る前,67年春頃から既存ワンマンカーの在来色への塗色変更が進められた。その際,従来のワンマン帯は妻面だけだったのを,車両全体に巻くことになり,特に妻面の帯2本化については,(屋外広告規制と同じ意味で)古都には相応しくないように見えた。旧塗色時代の写真は殆ど無いので,デジタル青信号(同志社大学鉄道研究会OB会)へのリンクを張る。特に上から2枚目は,連結車の連結面を示す貴重なカットと言える。

京都駅降車場に停車中の2600型2連で,右は2601号,左の車号は読めない。ワンマン帯は1本であることが判るが,連結器とその下の電気連結器がはっきり見える。連結面側の系統板や方向幕,更には急行板まで,単行と同じ表示がされていたことが確認できる。連結車の連結面側に乗った時,連結相手の系統板を見て,なぜ手間を掛けるのか疑問だった。(2両目前扉は乗務員不在のため,2両目の乗車客への案内か?)
※なお同ページ下の2枚の写真について,「1962年頃だと思います」とあるが,九条への1800型配置は壬生廃止直前からなので,72年1月頃の誤り。そもそも62年にはワンマンカー自体存在しない。(5/17/2025)


高瀬川の河道変遷

1912年陸地測量部1:200001925年陸地測量部1:250001932年陸地測量部1:25000 1965年国土地理院1:25000地理院地図(2025.3)※注1
高瀬川は角倉了以(1554-1614)父子により,1614(慶長16)年に竣工した運河であり,市内中心部では木屋町通沿いの都市景観を形作っているが,六条以南の河道は長年に亘り数多の変遷を経て来た。当初は渉成園(枳殻邸)の敷地を流れていたと言われ,園内の印月池は明治期まで高瀬川から取水していた。渉成園は1653(承応2)年完成とされるので,高瀬川開削から半世紀も経ぬうちに流路が変更されたことになる。御土居は基本的に高瀬川右岸に沿っていたが,その築造(1591(天正19)年頃)は高瀬川開削より早いから,御土居の外側に沿って高瀬川が開削されたと見るのが自然だろう。従って,高瀬川は基本的に御土居の外側を流れていたが,唯一御土居の内側に構築された船着場が「内浜」だった。高瀬川沿いの御土居は江戸末期には大部分失われていたようだが,左の絵図(「改正増補京繪圖大成」竹原好兵衛,1862(文久2)※注2)によれば,六条~七条間の流路変更後に移設された御土居は残存していたようだ。
※注1:今昔マップon the webによる。識別の為,単色地形図では高瀬川水系を水色で彩色している。
※注2:七条通南側に「金蓮寺」と記載されるが,この位置にあったのは四条道場・金蓮寺ではなく,七条道場・金光寺だった。共に時宗に属したが,両者の確執は激しかったと伝えられる。

内浜の埋立ては市電(広軌線)開業と同じ1912(明治45/大正1)年とされるが,市電停留場には「内浜」の名称が残された。1912年の地形図には内浜が記載されるが,この図には広軌線は登場しない。内浜へは下流側から水路が通じており,京電はこの水路と内浜本体を渡る必要があったが,これら2ヶ所の橋梁は内浜の埋立てによって消滅した。旧東海道線から南側の河道はかなり折れ曲がっていたことが判るが,東海道線の南側への移設(14年8月)に支障した為,1925年地形図の頃迄には塩小路~東寺道付近を旧東海道線沿いに付け替え,直線的に鉄道用地と交差する河道に変更されている。この時期には,図の範囲で市電との交差は七条小橋1ヶ所になったが,高瀬川を利用した舟運は20(大正9)年6月迄に終焉を迎えた。

29年1月には,塩小路高倉~七条内浜間の軌道が計画14号線に付け替えられたが,この時には流路の変更が無かった為,河原町線の市電は高瀬川を2度渡ることになった。32年の地形図では,七条内浜交差点にS字カーブが生じているが,七条以北の軌道表記が狭軌時代から改訂されていないように見える。狭軌線が走った頃は新寺町通と呼ばれていたが,14号線開通までに道路拡幅とそれに伴う軌道移設が行われたはずだ。65年の地形図は伏見線が掲載された最後の図だが,東九条地区(東寺道~九条間)で河道の直線化が行われ,更に2002年には,2025年時点の地理院地図に見るように,崇仁地区再開発と関連して,塩小路通の前後で河道の直線化が実施された。その結果,14号線街路との交差は解消され,旧河道も消えつつある。(5/2/2025)


路面電車の速度計

2024年度の熊本市電は事故が相次ぎ,年度末の3月25日朝8:30頃には,熊本城・市役所前に停車中のA系統1063号にB系統1096号が追突する事故が発生した。「軌道運転規則」は,路面電車が先行車に100mまで接近すれば15km/h以下に減速するよう定めるが,追突時に17km/hであったことが問題視されている。熊本ローカル(関連記事)では,路面電車には速度計の設置が義務付けられていないことも問題視されている。「軌道運転規則」は,路面電車の最高速度は原則40km/hと定めることもあり,速度計は必須ではなかったが,近年の車両では設置が標準化している。

上写真は追突された1063号で,熊本市電最古参の1951年製であり,ワンマン登場時の塗装が再現されている。当該車両も,追突した1096号も速度計は装備していない。京都市電では700形と2000形には速度計が装備されていた。下写真は2003号の運転台であり,操作パネル右端のZパンタ上下スイッチと圧力計の間に速度計が見える。目盛は60km/hまでだったが,連結車で千本北大路の坂を下る時,55km/h近くに達していたことを思い出す。700形も同形の速度計を装備していたが,前期型は後付けだったようで,前面中央窓枠に設置されていた。

1966年時点の市電(貨車・無軌条線を除く)346両中,速度計を設置していたのは54両(15.6%)に留まるにも拘らず,市電には速度制限区間が存在した。その入口の架線柱には琺瑯製の速度標識が設置されていたが,右はその仕様である。例えば,肥後橋~丹波橋間の濠川や,葵橋西詰の賀茂川手前に設置されていた。制限区間の出口には,同形の「制限解除」標識が設置されていた。白地緑字だったような気がするが,写真に残っていない。後年には標識が簡易化され,上下線間の吊架線から小型横長のプレートを吊下げる形態になった。(4/12/2025)


設定時の4-5-6系統

烏丸の基幹系統であった,4-5-6系統は大戦末期1945年3月の系統全面改定によって登場した。4-6系統は大半の期間,京都駅を発着する左右対称の循環系統(いわゆるラケット系統)という認識だったが,5系統を含めて2本離れた南北方向の路線を直進する点で共通していた。東側は京都駅から北大路まで行って,西側は1直線に南下する設定だったが,6系統は東山から2本離れた烏丸を南下すると京都駅に突き当たることから,当初から循環系統になった。この設定は,基軸路線である烏丸線で4乙系統と6甲系統が重複運行されることで,輸送力の確保に有効だった。

大戦期の系統削減で,44年以降運転されなくなった系統もあったが,4乙は系統,5乙は系統,6甲は系統,6乙は系統として運転された実績がある。これに対して西側の千本・大宮線には全線を走破する系統は存在せず,西大路線については白梅町~円町間の開通が43年10月と,外郭線で最も遅れたこともあり,ひらがな時代に全線を走破する系統は設定されなかった。西大路線の主力は系統(天王町~円町~西大路七条~京都駅)だったが,西大路七条止への短縮(44年12月)を経て,数字系統復帰時に2系統となって京都駅発着に戻り,新たに設定された4甲系統は西大路駅発着となった。この体制は長くは続かず,翌46年7月に2-4系統の終点が振替えられ,2系統は西大路駅発着,4系統は京都駅発着となった。

5系統については,本来河原町線を直進して,洛北高校前を経由すべきだったが,計画6号線が未開通だった為,烏丸今出川経由で運転された。17系統も同様に,西大路四条を経由すべきだったが,計画12号線が未完に終った為,七条大宮経由で運転された。都電でも,オリンピック関連工事で青山通の青山一丁目~三宅坂間が廃止になった後,この区間を通過した9系統は六本木経由,10系統は四谷三丁目経由で迂回運転された事例が想起される。(4/2/2025)


六線共用(3線軌条)

市電開業時,既存の京電路線と同じ街路への軌道敷設は,3線軌条で行われたが,これを当時の市民は「六線共用」と呼称した。烏丸-丸太町-四条-七条の市内4線区に存在したが,四条線(西洞院~堀川間)以外の3線区は1927年4月までに解消された。3線軌条にすれば,異なる軌間の車両を通すことは容易だが,問題は駅(停留場)にある。軌道中心のずれは駅のホーム等に支障するから,駅部では4線軌条にして軌道中心を一致させる等の工夫が必要になるが,両軌間の車幅が異なる場合はその限りではない。

1930(昭和5)年4月に鉄道がメートル法に移行するまでは,鉄道全般の寸法はマイルやフィートで記述された。図下側の図面では,広軌線の軌道中心間隔は10'6"(=3200mm)と記載され,外側に寄せられた狭軌線の軌道中心間隔は11'8½"(=3569mm)と相当広い。問題は停留場で,晩年には3線区間の安全地帯は四条西洞院西詰東行しかなかったが,狭軌車の外側軌道からの張出しが(2020-1067)/2=476.5mmであったのに対し,広軌I型のそれは(2286-1435)/2=425.5mmとむしろ小さかった。

大正末期には,200-300-500型の半鋼車が登場したが,車幅は2388mmで統一されていて,外側軌道からの張出しは(2388-1435)/2=476.5mmと,狭軌車と同寸法だった。むしろ2388mmは,3線共用区間で安全地帯の位置を狭軌車と統一する為に選択された寸法ではないか,と疑われる。逆に狭軌線に200型並みの車両を導入すれば,張出しは(2388-1067)/2=660.5mmとなり,既設安全地帯に184mmも食い込むことになるから,3線軌条区間に安全地帯を設置することは不可能と言える。

津軽海峡線では,京都市電と同じく狭軌が外側に寄せられているが,これも狭軌側の車両限界が小さい為と,すれ違い時の風圧を軽減する為だろう。一方,奥羽本線の秋田新幹線共用部分(神宮寺~刈和野間)や,かつて存在した石山坂本線(浜大津~膳所間)の片線3線化では,狭軌が内側に寄せられた。前者では中間駅が島式ホームである為,後者では京阪に比べて国鉄の車両限界が大きく,狭軌車が外側を走れば相対式ホームに支障した為だろう。(3/16/2025)


系統予告信号機

大石橋(東詰)九条近鉄前 各操車場への「接近表示装置」の設置は,1952年11月の壬生での試験運用に始まり,55年度に完成を見た。その間,54年の白川線開通に際して「操車場より先の系統,或いは入庫・折返し等を予告し,乗務員及び乗客に便宜」を図る目的で,「系統予告信号機」が銀閣寺道と天王町に設けられた。この信号機は九条にも設置されたが,その他の操車場には波及しなかった。九条の場合,信号機は大石橋(東詰)と九条奈良電(近鉄)前に設置されたが,その現示内容は上図のようだった(各欄,左が壬生廃止前,右が壬生廃止後を示す)。壬生廃止以前には,九条から(7-8-17)の循環系統が運転されていたため,九条近鉄前が3現示しかないのは明らかに不足だった。この信号機が設置された当時には,17系統は乙方向(祇園折返し)しか運転されておらず,九条を東へ出る常設系統は(7-8)の2系統しか無かった為だろう。17系統が循環系統になった後は,どう指示したのか不明だが,少なくとも利用者の観点からは7と17に違いはなかった(九条車庫から祇園を経由して,七条大宮以遠へ行く乗客は稀)。壬生廃止後には甲方向に(8-16-22)が出ることになったので,(16系統の烏丸移管までは)やはり現示数が不足した。

九条の予告信号機の余裕の無さと比べて,錦林のそれは,天王町が5現示,銀閣寺道が6現示と冗長性が高いが,それ故に現示内容は謎だ。錦林操車場開設当初は甲方向へ(2-3-12),乙方向へ(2-3),その翌年には甲方向へ(2-12-22),乙方向へ(2-12)が出ていたので,銀閣寺道の現示数が1つ多いのは理解できる。1960年代までは中右写真(「市電・市バス」2号, 1954)のように,停留場の位置に設置されていたが,後年には下写真のように,折返しポイントの手前に移設されていた。銀閣寺折返しの他車庫系統に対して系変を指示できない為と思われるが,下写真に〇で示すように,折返し線上と本線上にトロリーコンタクターが設置されていた為,折返し便を含めた銀閣寺からの出発順位を知ることができた。 中右写真の現示内容は,上段は(2-12)と読め,中段右は(円)と読めるが,それ以外は判読不能だ。当初だと3系統と,円町折返しの臨22系統があったので,中段は(3-円)でも良いが,下段の1つは(白)として,残りの1灯が何だったかは見当が付かない。天王町も同様で,壬生廃止以前の上3灯は(2-12-22)だったはずで,中段左写真の最下部は(白)に見えるが,残りの1灯が何だったかは不明だ。

7
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系統指令信号機は,車庫前という場所柄,乗換等の発生を判断する必要上,また滞留時間も必然的に長くなる為,嫌でも目に入った。これに対し系統予告信号機は,そもそも壬生・烏丸のように通過人員の多い車庫には設置が無く,入庫・折返し等の発生確率も高くない為,すんなり通り過ぎるだけで,信号機の現示内容は印象に残らなかった。(2/15/2025)

続・南北(東西)運転

図1
図2
図3
図4
「南北運転」の例として,3本下の記事では都バス茶51系統を例示したが,都電にはより複雑な南北運転として,白山通を走った巣鴨車庫の系統が挙げられる。図1のように,田村町(西新橋)~志村橋間を志村車庫前で系統分割した上,両者と部分的に重複する18系統が運転されていた。ここから18-35系統を取り出して見ると,神田橋~巣鴨車庫間が重複した南北運転になっている。志村坂上~志村橋間は,戦後1955年に開通→66年に廃止と,営業は僅か11年に留まったから,都電ラストナンバー41系統の影は薄かった。さらに南から三田車庫の2系統が加わるが,末期には朝夕各2本と,実質的に臨時系統だった。

現在も存在する同種の運転としては,とさでん交通の後免・伊野線が挙げられる。(この場合は路線が東西に延びるため,「東西運転」が相応しい。)図2は主要系統図だが,東端の後免町発着の電車は鏡川橋まで,西端の伊野(及びその手前の朝倉)発着の電車は文殊通までが原則になっている。全区間22.1kmを走破する運転は数本に限られていて,大勢は市内線区間の文殊通~鏡川橋間11.6kmの運転になっている。やはり長距離を通し運転すると,乗務時間が延び,また交通渋滞等の影響でダイヤが乱れ易いためだろう。

日本で単一路線として最も長い軌道線は,西鉄北九州本線(門司~折尾間29.4km)だったと思われる。さようなら西鉄北九州線のページに,83年頃の昼間系統を示しているが,運転系統はだいぶ整理され,本線は到津車庫で系統分割されていた。図3に73年当時の系統を示すが,この時点でも常設系統として本線を全線走破する系統は無い。しかしラッシュ時等に門司~折尾間を到津経由,または幸町経由で走破するダイヤが存在した可能性は否定できない(営業距離は後者が3.0km長く,32.4km)。この場合も,門司からは枝光線に入る中央町まで,折尾からは砂津までと,本線上では東西運転の形態が見られる。

図4に80年5月のJTB時刻表掲載の北九州線の初電・終電時刻を示す。これだと門司~折尾が直通運転されていたように見えるが,表記が簡略化されているため,途中に乗換を含む経路だったか,判断が付かない。しかし初電で見れば,門司~折尾間に下り97分,上り93分を要していて,路面電車の乗車時間としては非常に長かったことは確かだ。(上り第2便と終前便の所要時間は33分になっているが,門司着が1時間早い誤植だろう。)(2/1/2025)


京電と軌道建設規程

第八条 併用軌道ハ道路ノ中央ニ之ヲ敷設シ左ニ掲クル車体外有効幅員ヲ存セシムヘシ
道路ノ種別車道歩道ノ区別アル
道路ノ車道各側
車道歩道ノ区別ナキ道路各側
両側人家連檐又ハ連檐スヘキ場所其ノ他ノ場所
特ニ主要ナル街路8m18以上
主要ナル街路
特ニ主要ナル国道
4m55以上
街路・主要ナル国道
特ニ主要ナル府県道
3m64以上4m55以上4m10以上
国道・主要ナル府県道及市道
特ニ主要ナル町村道
3m64以上

第九条 街路、特ニ主要ナル国道、主要ナル国道及特ニ主要ナル府県道ヲ除ク他ノ道路ニ於テハ左ニ掲クル車体外有効幅員ヲ存シ軌道ヲ其ノ一方ニ偏シテ敷設スルコトヲ得
道路ノ種別車道歩道ノ区別ナキ道路
両側人家連檐又ハ連檐スヘキ場所其ノ他ノ場所
一側他ノ一側一側他ノ一側
国道・主要ナル府県道及市道
特ニ主要ナル町村道
4m55以上2m73以上4m55以上1m82以上
府県道・市道・町村道3m64以上1m82以上3m64以上0m91以上

第十条 本線路ニ於テハ並行セル両軌道中心間ノ間隔ハ車輛ノ最大幅員ニ400mmヲ加ヘタルモノヨリ小ナルコトヲ得ス
② 本線路ニ於テハ車両ト中央柱其ノ他ノ工作物トノ間隔ハ230mmヨリ小ナルコトヲ得ス
③ 本線路ノ曲線ニ於テハ前二項ニ規定スル間隔ハ之ニ両車輛ノ偏倚スル寸法ヲ加ヘタルモノヨリ小ナルコトヲ得ス

左図に示すように,京電の軌道は水路沿いに敷設される場合が多かった。中段は「軌道建設規程」の抜粋だが,第8条では,人家が連坦する街路では,軌道の外側に基本的に4.55mの余裕幅員を取るべきことが指示されている。例えば木屋町通では,西側の余裕幅員に高瀬川を組み込んで基準をクリアしたとされるが,どこまでを街路敷と認定するかで解釈が異なる。第9条は,街路の片側に寄せて敷設する場合の基準だが,京電の軌道は水路側に寄せて敷設される場合が多かったが,例えば蹴上線では疏水右岸の人家を考慮せず,仁王門通で完結したと考えられる。

「軌道建設規程」は1923年の制定であり,前身となる「軌道条例」を廃して「軌道法」に変わる時期に相当する(軌道法は21年公布,24年施行)。軌道条例の時代にも同様の規程があったと推測されるが,軌道条例は1890年制定であり,当初は馬力や蒸気力による軌道が想定されていた為,火の粉による類焼防止を考慮する必要があった。その意味では,人家から離す目的が後の交通空間の確保とは異なり,水路を挟むことは寧ろ好都合だった可能性がある。

第10条は軌道中心間隔に関する規程だが,車両最大幅+400mmを取ることが指示されている。右は西洞院線を含む陸軍地図(1912年)だが,(Mouse-on)で示す1892年の仮製図では,西洞院通には川が流れている。これでは幅員が不足するため,西洞院川を暗渠化して,その上に軌道を敷設したとされるが,西洞院線が当初から複線で建設されたと推測する根拠の1つは,他の路線が軌道中心間隔9ft(2743mm)で複線化されたのに対し,西洞院線の軌道中心間隔は8ft(2438mm)と狭いことにある。狭軌I型の車体幅は2020mmだったので,すれ違い時の余裕は418mmしかなく,基準ぎりぎりであったことが判る。8ftの軌道中心間隔に広軌I型(車体幅2286mm)は持ち込めず,9ftで辛うじて457mmを確保できる程度だったが,この規格が後の改軌に影響したと考えられる。(1/16/2025)