Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

八条口操車場出入庫系統

京都市電では(車庫を併設しない)操車場への出入庫系統は「錦林A入」や「梅津B出」のように,操車場名+系統文字+出入庫の名称を使用していた。1955年以降該当する操車場は南口→八条口しかなかったが,従前の命名法に従うなら,左図のようにまとめられよう。例えば一番素直な出庫系統は九車→八条の「八条A出庫」系統だが,この逆方向は京都駅を経由する「八条特A入庫」系統になるという意味で,出入庫は別経路になる。稲荷を経由する系統は図には無いが,実際に運転されていたため,これらは「八条C出庫」「八条特C入庫」であったと思われる。他に八条口から,京都駅を往復して八条口の留置線に入る運転もあった。

九条車庫からの八条A出庫系統は殆どが京都駅まで行くが,操車場に到着するまで前途の系統は定まらないため,右写真のように方向幕は「京都駅八条口」行だった。写真は723号が大石橋西詰のポイントを左に切ったところで一旦停止し,右楕円の車掌氏が屈んでポイントと格闘する様子を,左楕円の運転士氏がまだかと覗いている状況を捉えている(©1969, 故なまちゃん様)。このポイントの使用頻度は結構高かったので,自動化しないまでも,なぜ機械式にしなかったのか疑問だ。(11/26/2021)


九特3/278系統

壬生廃止以前,丸太町線西行最終は九条の278系統だった。この系統は伏見線廃止時に変更され,下図のように銀閣寺折返しで運転された。伏見線廃止が系変の理由なので,それ以前は高倉跨線橋を通過したに違いないが,1964年の終発時刻から上図のようだったと推定できる。百万遍から東行の西大路九条行が記載されるが,その時刻は23:05→22:37に約30分繰上がっている。従って銀閣寺23:08折返しの278系統は,伏見線存在時には百万遍以西から運転されていたが,河原町線を北上したと考えるのが自然である。白川線開通以前から九条車庫発京都駅経由銀閣寺往復が運転されていたので,深夜帯に九条(臨)が河原町を北上する伝統があった。図は九条車庫22:32出庫で記載しているが,実際には9・19系統の入庫便を充当した可能性も否定できない。一方この系統の,銀閣寺以南,円町経由西大路九条方面の時刻は伏見線廃止前後で全く変更がない。

河原町線南行最終は長年九条の応援運行であった。終発時刻に「京都駅・九車」が明記されるのは河原町今出川からだが,この運行は熊野から継続しており,熊野から東行の京都駅行は伏見線廃止に伴って23:08→22:49に約20分繰上がっている。この便は九条車庫から東山線を北上して来たと考えるのが自然だが,伏見線廃止後の278系統は約10分繰上がっている。銀閣寺は23:19発で,河原町今出川を23:29に通過し,四条河原町以南で終電となるが,伏見線廃止後には2乙系統が終電になった為,四条河原町発は23:40→23:19へ約20分繰上がった。

結果として伏見線廃止前には,九条(臨)が河原町線を往復する格好だったが,278系統は錦林車庫前で約6分間時間調整し,両方向の便が車庫前を23:16に同時発車した為,九条車庫⇔錦林車庫の単純往復でも運転可能な設定になっていた。白川線開通以前の,九条車庫⇔銀閣寺の単純往復は九特3系統と呼ばれていたが,その運転時刻は,九車22:47→京駅22:56→銀閣23:22→河今23:29→京駅23:48→九車23:54であり,河原町今出川23:29,四条河原町23:40の終発時刻は,1950年代から固定されていたことが解る。ただし1960年代の循環系統の呼称は不明である。

各停留場の終発時刻案内はホーロー製で,容易に書き換えられないこともあり,路線改廃があっても終発時刻が頑なに守られていたことに驚く。

(11/24/2021)


衣笠変電所


京都市電気局衣笠変電所

京都市上下水道局北部営業所(移転後)
衣笠変電所は1938年3月に開設され,市電最期の日まで40年間に亘って運用された。外観は上写真のように,同時期の三条変電所と似たRC造の建屋だった。市電廃止後は上下水道局北部営業所となったが,下写真のように基本的構造を変えずに使用された。2018年5月に上下水道局の組織改編により空家になり,20年2月に一般競争入札(「物件4」参照)を経て東急不動産に売却された。建物は取り壊され,跡地には学生向賃貸マンションが建設され,22年春に入居が開始される。

姉小路と梅津に関しては,現在も敷地の一部を交通局が使用しているものの,旧市電変電所の建物はこれで全て除却・滅失したのではなかろうか。営業所(運輸事務所)についても,一番遅くまで残ったのは九条だったが,これも2017年に建替えられた為,市電時代の建物は残っていない。唯一,カフェに転用された内浜の「電気課通信係詰所」の建物だけが現存している。

忘れてならない交通局施設に「交通局病院」がある。東京都や大阪市も交通(局)病院を持っていたが,病院自体が赤字だったこともあり,「交通財政再建計画」の一環として,自治省の指導により各都市ほぼ一斉に廃止されている。京都市の交通局病院は1959年時点で8診療科(134床)を擁する総合病院で,衣笠変電所の近く(千本十二坊)にあったが,68年3月末の廃止後は(福)京都ライトハウスが跡地を使用している。

(11/22/2021)

京都駅前東乗降場



こちらにも書いたように,京都駅前西乗降場から東乗降場へ伸びる複線がいつ塩小路線に接続されたか,情報が混乱していて判然としない。「交通事業成績調書」には軌道補修や架線張替等の情報も事細かに羅列されるのに,東乗降場の軌道工事に関する明確な記録が見当たらない。上図は1953年の都市計画図で,京都駅前乗降場が従来線より約7m南に整備されることが判り,西乗降場については52年9月20日に供用されている。しかし東乗降場については,塩小路通上の従来線を引き続き使用したため,暫く複々線の様相を呈した。成績調書の関連する記録は以下のようである。

58.11.4京都駅前(東詰分)アーケード借地(287m2)借入(上屋179m2,乗降場97m2,信号所11m2)→国鉄工務課
58.11.21京都駅前東詰南側アーケード新設工事着手
58.12.16京都駅前東扱所 信号配管 竣工
58.12.31京都駅前東詰南側アーケード仮使用開始
59.1.20京都駅前東側市電乗降場上屋竣工(1棟108m2)(完成日1月22日)
59.2.10京都駅前東詰 軌道敷借地(40.2m2)借入れ→国鉄工務課→申請却下
59.2.19京都駅東 軌道転轍機工事方法変更認可申請
58年度(日付無)京都駅前東乗降場軌道模様替 材料費のみ計上,工事未着手
59年度(日付無)東扱所信号装置新設(設計・材料調達のみ)
60.9.7京都駅前東扱所 軌道転轍機工事方法変更竣工←59.2.19申請分(東乗降場改良工事完成日9月24日)

J.W.Higgins氏の写真の日付(59.5.10)が正しいなら,この時点で東乗降場は供用されていない。東詰のアーケードが写っていないが,上の記録に「東詰南側」とあるように,旧伏見線側上屋のみが先行して完成し,河原町線側の上屋は塩小路通の軌道移設後に着工したと考えられる。

中図は58年度の「成績調書」に掲載された分岐器一覧(部分)であるが,この図には58.12.11竣工の七条烏丸東詰の亘線と,59.2.4に撤去された塩小路東洞院の亘線の双方が記載されているので,ほぼ59年初頭の状況を表すものと考えてよい。この時点では,東乗降場の軌道は西乗降場と接続されておらず,信号保安装置も設置されていないことが確認できる。

59.2.10の軌道用地の借地申請は僅か40m2と狭小であり,これが却下されたことにより2月19日に工事方法の変更を申請し,60.9.7に竣工したとすれば,東乗降場の正式運用開始は60年9月であったと見て差し支えないだろう。東詰場内信号機(下左写真)下の進路予告灯は(1)(2)であるが,左側に(3)のランプが見える。信号扱所は軌道より先に竣工しているので,却下された借地は幻の東3番線の用地だったのだろうか?

「交通事業成績調書」の発行は59年度が最後で,以降は月報(交通事業概要)のみの発行になった由だが,月報だと冊数が多くなるため,これを組織的に収蔵する閲覧施設は存在しない。従って60年度以降,「交通事業概要」が年刊化する67年度以前の記録の確認はかなり困難だが,東乗降場に関する軌道工事が60年度前半に施工されたことは間違いなかろう。(11/20/2021)


広電1900型

HiroshimaKyoto
19011916(←916)
19021917(←917)
19031918(←918)
19041919(←919)
19051920(←920)
HiroshimaKyoto
19061921*(←921)
19071923*(←923)
19081924(←924)
19091925(←925)
19101926(←926)
HiroshimaKyoto
19111927(←927)
19121928(←928)
19131929(←929)
19141930(←930)
19151931(←931)
広島電鉄における1900型の付番について,本ホームページでは上表のように旧番号に沿った形の説を採用している。 これは日本路面電車同好会「1984年1月現在日本の路面電車ハンドブック」及び鉄道ピクトリアル1994年7月臨時増刊「特集路面電車」に依拠している。

HiroshimaKyoto
19011916(←916)
19021917(←917)
19031918(←918)
19041923*(←923)
19051919(←919)
HiroshimaKyoto
19061920(←920)
19071924(←924)
19081921*(←921)
19091925(←925)
19101926(←926)
HiroshimaKyoto
19111927(←927)
19121928(←928)
19131929(←929)
19141930(←930)
19151931(←931)
しかしWikipedia(2021年時点)及び鉄道ピクトリアル2021年11月別冊「日本路面電車同好会創立50周年記念誌」では,下表の説が採用されている。即ち1904号から1908号の5両について,種車の番号が入れ子になっている。


紙屋町交差点を行き交う1912号(2)他。(1984.4)
事故廃車になった1922号を挟む1921号と1923号は1977年10月に廃車され,広電へ先行移籍している。78年春頃だったか,大学図書館が購読していた日本の週刊誌(週刊朝日)に,広電で改造中の1900型のグラビアが掲載されたことがあり,その際の車号が1906と1907であったことから,広電の全車移籍の方針が読み取れた記憶がある。先行移籍した2両を,敢えて1908号と1904号というややこしい付番にする必然性が感じられない。可能性としては,広電移籍後の冷房改造等に際して,車体と台車が微妙に交換されたため種車が曖昧になったことは考えられる。

かつて電車博物館の様相を呈していた広島電鉄でも,他社局からの移籍車は急激に数を減らしており,2021年時点では,神戸市から来た570型-1150型,大阪市から来た750型-900型,西鉄から来た600型のボギー車は各1両のみと,かつての長崎電軌同様の保存車扱いになっている。その中で京都市1900型が15両全車健在というのは,稀有のことだろう。900型の直接制御車は1957年製造だから,21年時点で64歳となる。広島へ来てから43年になるので,京都での運用期間の2倍を超えた。いずれ淘汰が及ぶと考えられるので,撮影するなら今の内だろう。

(11/11/2021)