Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

中扉・車内時計

500型・1000型(京都市の区分では「大型ボギー車」)の中扉は1956.2.6に廃止され,扉の位置には座席が延長された。実は1000型の中扉から乗車した明確な記憶は1回(55年春,1甲系統に近衛通から乗車)しかない。中扉閉鎖後も一部の車両には円形の戸閉スイッチ(ハンドルを差し込んで回転させる)が残っていたが,この扉を扱うためだけに3人乗務とするのは不効率だったことは否めない。

大型ボギー車は,高度成長期前半の大量輸送には役立ったが,混雑時の降車は困難を極めた。名古屋市電のように乗車専用扉にして,後部車掌が扱うようにすべきだったが,全扉が手動だった500型で同様な運用を行う為にはドアエンジン装備が必要であり,今更感があって見送られたと推察される。3人乗務廃止後,大型ボギー車では車掌の負担軽減のため車内放送機器が設置された。と言っても,車掌台にハンドマイクと,中扉の上部に広告板を設け,その裏側にスピーカーを設置しただけの簡易な設備だった。

画像はTucson 869号の櫛桁部分である。京都時代は両側2列の管球照明であり,中央部の蛍光灯は無かった。運転台とのH棒仕切りは,ワンマン化時に丸椅子を設置するために,櫛桁より客室側に移動した。1800/1900型では櫛桁中央部にスピーカーが設置されているが,かつてはこの位置には車両番号が記され,両側に広告枠があった。さらに1961年頃から67年頃まで,第1エンド側の中央部には電気時計が設置され,車両番号は左端に移されたが,料金箱制導入に際して時計は撤去された。(500型原形車を除く非蛍光灯車では,中央部に車両番号を記した照明用アングルが設置された。)

600型の原形(686型を除く)は櫛桁を持たなかったが,「締替え時」に追加された。ただし高さが浅かった為か,600型には車内時計は設置されなかったような気がする。(9/1/2021)


新葵橋

市電6号線が賀茂川を渡る新葵橋は,道路工事が間に合わず電車専用橋として開通した。写真は洛北高校へ向かう5系統1009号だが,下流側に木造の仮設歩道が設置されていた(「さよなら京都市電」毎日新聞社, 1978から)。当時,北行電車の左側車窓からは,眼下に川面が見えたが,気づいたら道路で水面が見えなくなっていた。

上流側の車道・歩道を設置した後,仮設歩道を撤去し,下流側の車道・歩道を設置する工事が実施されたが,下の写真(「古都再見」河出書房新社, 1961)は,北行車線が完成した建設途上の姿を捉えている。出版時期から1959年頃の撮影と推察されるが,橋脚の方は完成時の幅員で建設されていたことが判る。

葵橋は1918年以降,隣接の出町橋も含めて流出を繰返したが,37年10月に市区改正道路として建設が決定された。53年の都市計画図には,現橋位置に橋は存在しないが,46年10月の航空写真(Mouse-on)には,やや低い位置に仮橋(?)が架かっているのが見える。

(8/18/2021)

終着表記

↑旧5甲系統の横板画像は奈良の青木様提供
阪急河原町延伸に際して,千本大宮線全線を走る系統が5系統から21系統へ振替えられた。5系統の当時の横板は,錦林の系統同様に甲と乙が別になっていたが,方向幕は九条大宮行だったのに,横板は「東寺行」であることを奇異に感じた。市電の東寺前は東寺道(慶賀門)の位置だったが,東寺(教王護国寺)自体は九条大宮から京阪国道口に達する広さなので,九条大宮も広義では「東寺」と呼べないことはない。しかし阪急延伸後の21系統の横板では「九条大宮行」に変更されたから,やはり不適当なことを認めたのだろう。

昭和30年代の市バスの京都駅発着系統は,実際には全て三哲発着だったが,方向幕は京都駅行だった。昭和40年代になると,一部系統(典型的には御園橋操車の2-9系統)が郊外側操車となり三哲へ入らなくなった。しかし方向幕上は4-5系統等の三哲行も含めて「京都駅行」だったため,若松町発着系統の「三条京阪行」も含めて,方向幕が真の行先である場合と違う場合が混在した。

1954年3月の白川線開通までは,壬生の13系統と烏丸の15系統は四条大宮発着だったが,四条大宮南詰の渡り線は53年3月1日まで存在しなかった。従って当初,15系統は四条大宮で折返すことができず,四条西洞院まで行って折返したが,四条大宮~四条西洞院が非営業であったか否かは不明である。四条大宮発着には,叡電乗入れ系統も該当するが,これは壬生操車であったことは明らかだ。また15系統は結構な頻度で祇園延長が実施されたが,これも実際の延長区間は四条西洞院~祇園間と少し短かかった。

(8/9/2021)

交通事業成績調書

本HPでも過去の運用等に関する1次資料として利用している「交通事業成績調書」だが,閲覧は容易ではない。左図は国立国会図書館の所蔵分(クリックで拡大)だが,1950~54,56~58年度の8年度分に限られる。東京都交通局の同名の出版物も所蔵されているが,これは2年度分に限られるというように,日本最大の出版物収集を行っているはずの国会図書館にして不完全である。

資料はデジタル化されているが,「図書館送信限定」とされていて,閲覧には協定のある公立図書館等まで出向く必要がある。過去の行政資料には一般的な著作権は適用されないので,公衆送信としても問題はないと思うのだが…。

かつて本調書を府立総合資料館で閲覧したこともあるが,閉館後の後継施設となる京都府立京都学・歴彩館には1950, 51, 56の3年度分しか所蔵されておらず,移転時に一部廃棄となった可能性がある。「交通事業成績調書」は途中で名称が変更されて,「事業概要(年報)」→「交通事業白書」となったようだが,これに関しては1964年度以降所蔵(合冊)がある。

逐年発行される資料は累積するため置き場に困ることは理解できるが,図書館では昔からマイクロフィルム化等により減容化を図って来た。今は簡単にデジタル化が可能であり,その保管費用はほぼゼロに近いので,行政文書等は廃棄せずにデジタル保管が当然だと思うが,日本の役所は今だに「保管期限が過ぎれば廃棄」の建付けから脱却できない。


五山送り火

五山送り火の最大の観覧場所は加茂大橋周辺になるが,1973~74年頃には東山通を上がり,百万遍で左折して京都駅へ向かう九条の臨時が運転されていた。一般に,イベント終了時の方が乗客集中による混雑が激しくなるが,この臨時系統も主として帰りの足を確保する為に運転されたと考えられる。伏見線・四条線共廃止された後だったので,その経路は左図のようだったと推察される。往路は百万遍直行で差支えないが,復路は七条河原町の渡り線を使う外ない。まだツーマン車が少し残っていた時期だったが,百万遍で見かけたのは1600型ワンマンだった。(1800型には「京都駅」の方向幕が無かった為?) また京都駅~百万遍間を2周する運用だと,乗務時間が過重になると考えられる。

昭和40年代以降,臨時系統の詳細な記録が残されていないため系統番号は不明だが,1961年8月の月報には,
   ● 8月16日 大文字のため臨時系統の運転,第288号系統 京駅~四河~河今,時間 18時~21時
という記載がある。昔から五山送り火に際しては,九条車庫が活躍していたことが判るが,この当時は伏見線を使えば出入庫は容易だったし,河原町線の南行最終便としても日常的に運転されたため違和感はないが,伏見線廃止後だとかなり無理があるように感じた。

(7/27/2021)