Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや不完全情報を集めた拾遺集

電鈴


都電がワンマン化された時,戸閉ランプと連動して電鈴2点打で旧来の車掌合図をシミュレートする機構が導入された。現在でも関西私鉄の多くが,出発合図として電鈴2点打を使用しているが,これを最初に採用したのは京電だったという説がある。京電開業時には軌道の運転に関する法令は存在せず,京電で使われた合図が一般化したという説だが,後追いで制定された「電気鉄道取締規則」(1895年8月京都府令第67号)には,車掌合図に関する記述はないため確認できない。(2021年現在の「軌道運転規則」には,
第九十条 車両を出発させるには、車掌の出発合図によらなければならない。但し、特に車掌を省略することができる設備をした車両については、この限りでない。
第九十二条 出発合図、入換合図その他の合図は、その方式を定めて用いなければならない。
とあるだけで,各社が適宜合図を定めればよいことになっている。)

「電気鉄道取締規則」では「告知人」(電車が来ることを知らせる先走り人)が義務付けられたが,これは悪名高い英国の"Red Flag Act"に範を取ったものと思われる。本家「赤旗条例」は京電開業の翌年(1896年)に廃止されたにも拘らず,「告知人」の制度は1904年まで残った。

京都市電では1点打が停車,2点打が通過または発車であったが,ツーマン時代には3点打や4点打もあった記憶がある。いずれも滅多に聞くことがなかったので定かではないが,3点打は運転士から車掌への退行の要求,4点打は車掌から運転士への確認という具合に,バック運転に関して使われたような気がする。進路選択信号に誤進入した場合,車両感知区間外に出ないと進路の再選択ができなかったため,バック運転が必要になった。当然車掌による後方の安全確認が必須とされる。

現存路線では,左に示す「鹿児島市電気軌道運転取扱心得」に合図の定めがあるが,これにはバック運転は登場しない。


回送運転

1970年代前半までは市電・市バスの時限ストが頻発した。スト明け後に平常運転に戻す過程で,通常の初電時と同じような運行が見られたが,違いは途中折返しとなる臨時系統の多くが非営業の「回送」とされたことである。そのため車庫前近くでは(白)系統板の電車の続行が見られた。営業運転より早く平常運転に復帰できるためだろうが,出入庫便を含めて営業運転を原則とする京都市電には珍しく思えた。例外としては「貸切」のための回送があるが,これとて帰途は営業運転されるのが一般的だった。

方向幕のページに掲載した701号(左写真)は,71年6月に実施した百万遍発千本・大宮線経由九条車庫(構内)行の貸切運行のスナップだが,帰途は九条車庫から(臨)円町行となったので,西大路九条から(2)系統として錦林車庫へ戻ったものと思う。

69年6月頃だったと思うが,2週続けて土曜日の午後に,河原町今出川で北から来る(臨)京都駅・九条車庫行に遭遇した。後にも先にも下鴨線で九条所属車の営業運転を見たのはこの時だけだが,それに類する3ケタ系統は無く,恐らくはどこかの小学校の校外学習で植物園に貸切運行した帰途だったのでは,と想像される。

(5/11/2021)

東京オリンピック

1964年は東京オリンピックに限らず,新幹線の開業や非欧米国として初めてOECDに正式加盟する等,敗戦からの復興を象徴する年であった。同年の訪日外国人数は約35万人に過ぎなかったが,それでも前年の約5割増であり,国際化が初めて意識された年とも言える。京都市電でも訪日外国人対策として,主要停留場の安全地帯標識の裏側に英語の案内板を設置した。左図は白梅町北詰南行安全地帯の掲示の復元を試みたものであるが,記憶違いは容赦されたい。停留場が原則交差点を渡った後になるのは65年であり,北詰は当時6箇系統が集中し,回数券ばら売りのブースまで存在する主要乗り場であった。○○行をわざわざ"To go to"と表現するのと,Manhattanよろしく,南北の通りがAvenue,東西の通りがStreetと表現されることに違和感を覚えた記憶がある。ただ英語の案内板は,停留場の移動もあって翌年までに撤去され,恒久的なものとはならなかった。
(5/1/21)

円板(系統板)のバラエティ

京都市では1953年11月以降,円板の地色で所属車庫を表したので,車庫間で移管が生じると円板の種類が増えることになる。営業所間で移管された系統は多数あるが,3営業所となると,13系統(壬生→錦林→烏丸)と22系統(錦林→九条→烏丸)の2箇系統しかない。(他に16系統の如く,烏丸→九条→烏丸と出戻った系統はある。)22系統は重複区間識別のため甲・乙の地色が異なったので,最多の4種類が存在した。しかしそれより多いのは,全車庫に存在した(臨)系統ということになる。

北野線と言えば,10系統が京都駅~北野を単純往復するのみで,平素は(臨)系統を見ることはなかったが,戦前の一時期までは系統に加えて,需要段差に対応して系統(北野~四条西洞院)が運転されていた。この短縮系統が,初電時に臨10系統として運転されていた記録が残る。1954年の操車表によれば,5:05の京都駅行に続いて5:08に北野を出庫し,5:22に四条西洞院(南詰)を10系統として折返していたが,往路は(臨)を表示したはずである。


1958年の記憶

私事で恐縮だが,1958年の9月,亡父に連れられて今出川線の西端まで乗りに行ったことがある。河原町今出川からだったと思うので,(22)系統だったに違いない。しかしお目当ての新線区間は未開業で,北野紙屋川町で降ろされてしまったが,その先白梅町までのレールは完成済で,街灯の光に輝いていた記憶がある。台風のような生暖かい風が吹く夜だったが,調べると台風19号崩れの温帯低気圧が,9月6日に山陰~北陸沖を通過していることが判る。この日は丁度土曜日で,休前日なので間違いないと思うが,開業の10日前とは些か気が早すぎた。結局元来た道を帰ったが,帰途は未更新の600形だった。当時は扉のガラスに「自働開閉」(「動」ではなくて「働」)という文字が入っていたことを思い出す。それから暫くして,加茂大橋で(22)系統を見たら,系統板が水色に変わったことに気づいた。

東チタ12345678
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同年11月1日に「ビジネス特急こだま」が走り始めたので,11月の或る日曜日,京都駅まで見に行くことになった。本来は河原町線で真直ぐ下がればよいものを,何故か4甲系統で西大路を経由した。鈍重な1000形で,低電圧警報ブザーが何度も鳴り響いたことを覚えている。後から思えば,この時が生きた梅津線を見る最初で最後の機会だった。西大路四条で分岐を見た気はするが,1ヶ月足らずで廃止になることなど知る由もなく,七条千本の地下区間の印象の方が大きかった。京都駅に入場したのは夕刻だったので,1番線に滑り込んで来た20系(→151系)8両編成は102T「第2こだま」になる。まだ3等級制だったので,編成中央のサロの(見慣れた青帯とは違う)「2」というステンレス切抜き文字が印象に残る。父親にも写真を撮る趣味は無かったので,何の記録も無いが,時刻は16:31頃,日付は8日か15日だが,どんよりとした曇天だったので,8日の線が濃いかも知れない。(この日の京都市の雨量は1.2ミリと記録されるが,雨に降られた覚えはない。)

(4/11/2021)