Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

梅津車庫

梅津ネタをもう1つ。「さよなら京都市電」に各車庫の配置図が掲載されているが,梅津車庫は除外されているため,国土画像情報から1961年5月1日撮影の航空写真を掲載しておく。

元は府の自動車試験場の敷地であり,米軍撮影の戦後の航空写真では,この場所には複雑なテストコースが見られる。梅津車庫の敷地は,5,908.64坪(=19,532.7平米)と,6,873.00坪の烏丸と3,779.46坪の錦林の中間的な面積があった。61年5月は支所時代末期だが,ループ線より北側は広大な空地になっていて,敷地利用率は高くない。東隣には当時から京都外大が存在したが,確かに手狭に見える。

(Mouse-on)の建物番号だが,①は支所(→運輸事務所)庁舎,②は検車棟,③は検車棟付属屋,④は変電所である。⑤の建物名称は不明だが,恐らくは修理工場に類するものだと推察される。(トロバスは一般的な自動車で牽引・推進が可能なので,架線が無くても差し支えない。)外回りのループ線は記載を省略しているが,留置車両は内回り線に5両,外回り線に2両,短絡線上に1両と,検車棟から頭を出しているのが1両の計9両※注1)が見え,支所前にも1両が停車中である。この当時の在籍車は100型6両,200型2両,300型11両※注2)の計19両だったから,約半数が車庫周辺に居たことになる。
※注1)外回り線・短絡線・支所前の各1両(計3両)は車体の短い100型と思われる。
※注2)61年4月中旬に3両が追加新造されたので,これを含めると14両(計22両)になる。ただ撮影時点に追加の3両が営業に供されていたかは不明。

ループ線の内側は,かつては広大な芝生になっていた。敷地に余裕があったため,この年8月の北野線廃止時には狭軌車両の一時保管場所となった由だが,芝生エリア南側に見える3両分の車体らしき物体は,その先陣かも知れない。

※都合により,当分の間,本ページの更新頻度が落ちます。(1/15/2022)


急行板

急行板サイズの副票としては,「急」以外にも3種類を実見している。かつては「終」の裏に「試」の円板が存在したが,使用頻度が低いため各車に備える必然性に乏しく,その代替として試運転標識が使われた。回送は本来白板が正当だが,転属等の際には回送標識が使用された。今出川・丸太町線最終日,循環22乙系統の最終に,熊野神社前から「回」のサボを携えた職員が複数名乗り込んできたことを思い出す。恐らく九条の1600型を錦林に廃車回送した帰りだと推察される。そのような使われ方が多かったためか,「回」のサボには余り明るい印象がない。白サボは1964年に2000・2600型が登場した当初,ワンマン化に関する組合との折合いが付かず,一部がツーマン運行された時期に識別用に掲出された。しかし白無地のサボがツーマン標識だとは,説明されねば解るはずがない。(1/11/2022)

電気フロッグ

左に京都市無軌条線の配線図を示す。100系統とその亜系統のみの単純な路線だったため分岐は少ないが,図中に赤で示す6ヶ所には「電気フロッグ」が設置されていた。架線分岐器はイギリス英語ではFrogと俗称されるが,日本語版のWikipediaにはその辺りの記載がない。(京都市の文書には「フログ」も用いられるが,元がFrog(=蛙)なので促音表記が正しい。)

検車棟内は4複線化され,手前の構内短絡線分岐には(↑←×)信号機が設置される。(鉄ピクno.271, 1972)
西大路四条の2基と高畝町は進路選択信号機で自動化されており,梅津車庫の3基は信号保安装置に収容されていた。梅津の車庫内には複線の留置用ループ線があったが,壬生や九条のループ線と異なり,2線とも反時計回りで運用された。しかしトロリーバスの特性として,隣接する架線にポールを移動すれば簡単に方向転換ができた。梅津の検車棟の手前には左へ分岐する架線(構内短絡線)があったが,その先がどうなっていたか確認していない。

四条大宮から壬生への出入庫線については架線は接続されておらず,出入庫時にはポールを付け替える必要があった。また無軌条線が四条大宮~西大路四条間であった時代の操車場は四条坊城にあったが,梅津(高畝町)延伸時に架線撤去工事の記録がないため,引込線は無かったと推察される。壬生運輸事務所梅津支所は1958.12.1に開設され,北野車庫廃止日と同じ61.8.1付で運輸事務所に昇格している。(12/30/2021)


224系統

小泉内閣による規制緩和の結果,(学)京都女子学園の通学需要を目的に,プリンセスラインなるバス会社が参入したことは周知の通りだが,昔から同校の通学需要は重視されていて,市電時代には北白川地区からの通学用に「東山七条臨時」が運転されていた。系統新設は1959年9月1日で,当初は錦林車庫発7:48と7:58の2便が運転された。末期には往路と復路の経路は左図のように異なっていたが,初期の復路については記載がない。最近もコロナの影響で中・高の始業時間をずらしたが,過去にも時差通学が実施された時期があり,その当時は中・高の始業時間に合わせて各1便運転されていた。この系統の存在は,右写真の銀閣寺電停に掲出された学休期の運休告知等によって広く知られるところだった(写真は高橋裕氏による)。かつて13系統が通った百万遍の東~南の亘線(電空転轍機設置)を使う数少ない系統だったが,錦林車庫の廃止に先立つこと2年,烏丸線廃止と同時(74年3月末)に消えた。
(12/16/2021)


運転本数と時隔

"Operationsのページ"に,1967年6月時点の系統別運転本数を示しているが,終日運転される系統については,最も回数の多い無軌条線100系統の180回から,最も少ない17乙系統の36回までバラついている。一般的な電車系統では2乙系統が168回で最多だったが,概ね100回を超える1-4-7-8-9系統などは基幹系統だと見なせる。

営業時間が5時台から23時台まで約18時間に及ぶ場合,標準的な旅客波動を考慮した運転本数別の典型的時間分布をまとめてみた。市電の場合は23時台は実質的にはフル営業とは言えないため,23時台の本数を一部ラッシュ時に振り向けたものが現実に近いだろう。67年時点の各系統の時間帯別運転本数は判っているが,そういう個別の事情より,ざっくりとした運転本数と運転間隔との関係をイメージするのに役立てば幸いである。たとえば無軌条線は昼間時恐らく6分間隔だったと思われるが,市電梅津線は廃止直前に110回だったので概ね10分間隔であり,トロバス化に伴って増回されたことが分かる。(トロバス化直後には200回以上運転されていたが,当時は定員の少ない100型も使われていた。)

上の基幹系統を,ほぼ同じルートで辿る市バス系統について,2021年時点の平日ダイヤで比較すると下表のようである。いわゆる循環系統の中では208系統のみが赤字に転落しており,伏見線81系統と並んで衰退が著しい。ただ営業係数は良いものの,河原町線17系統が(部分的に205系統が代替するとは言え)最大の減便対象となったことが目立つ。(12/10/2021)

電車系統回数(1967)バス系統回数(本数比)営業係数(2019)
1乙136201乙90(66%)84
2乙1681764(38%)71
4甲B116205乙125(108%)89
7乙106207乙94(89%)63
8乙100208乙46(46%)115
913081/特8166(51%)129