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Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

出張所と派出所

京都市電気局運輸課中京区壬生坊城町46番地
 壬生出張所同上
  七条千本派出所下京区七条通朱雀堂ノ口町23番地
  蹴上派出所左京区三条通白川橋東入8丁目西小物座町307番地
  西大路派出所右京区西院三蔵町
 烏丸出張所上京区(北区)小山上総町1番地
  銀閣寺派出所左京区浄土寺西田町23番地
  川端派出所左京区丸太町橋東詰下堤町94番地
 九条出張所下京区(南区)東九条上殿田町4-5合番地
  東福寺派出所東山区本町通二ノ橋上ル本町12丁目252番地
  七条大橋派出所下京区七条大橋東詰堤塘敷
  中書島派出所伏見区葭島矢倉町59番地
  稲荷派出所伏見区深草祓川町10番地
 北野出張所上京区一条通七本松西入滝ヶ鼻町1011番地
 現業員教習所下京区西洞院三哲上ル東塩小路字西ノ口608番地
戦後の「交通事業成績調書」に相当する年報として,戦前には「電気事業成績調書」が京都市電気局から刊行されていた。しかし後者では用地や建物について,各年度の差分のみが記載された為,特定時点の現有施設は明確ではないが,1933年3月に発行された「市営電気事業沿革史」には,当時の運輸事務所や操車場がまとめて記載されている。当時は運輸事務所を「出張所」,操車場を「派出所」と呼称したが,これは東京市電気局も同様だ。※注)
※注:晩年の都電では,錦糸堀の境川派出所と大塚の日の出町派出所が知られていた。これらは何れも引込線を有したが,京都市電では引込線は稀で,単なる操車係詰所のような形態が多かったと推察される。

右図は33年8月5日現在の路線図に出張所を,派出所をで記載したものだが,3月時点には大石橋~九条車庫間が未開通で,従って九条出張所が仮設(東九条車庫)だった。なお北区・南区の上京区・下京区からの分区は55年9月だった為,烏丸・九条の所在地は上京区・下京区で正しい。ただし九条出張所の住所は疑問で,本設の九条車庫は南区東九条下殿田町に所在したが,上殿田町は現在の烏丸通以西に当り,東九条車庫→南口操車場は東九条西山王町の筈だからだ。

派出所は枝線の終端に設置されたものが多かった。京都市では新規路線が開業すると,当初は開業区間を単区間折返しで運転する場合が多かった為で,これには仁王門~蹴上間の14系統,七条大宮~千本間の15系統,東山七条~東福寺間の4→20系統などが該当する。路線終端部だと引込線は無くても,多くの場合,折返し亘線の先の複線を利用して車両の留置は可能だった。西大路(四条)は路線終端ではあったが,市電は17系統しか来ておらず,川端操車で間に合う気がするから,32年4月に開業した無軌条線の操車場だった可能性がある。

この当時,銀閣寺・川端は共に烏丸の派出所だったが,河原町丸太町の北~東に亘線があり,烏丸~川端間の車両の遣り取りが比較的容易だった為だろう。しかし35年3月のひらがな系統導入時に川端は壬生の所管となり,更に45年3月には銀閣寺も壬生の所管となるが,烏丸には高野が新たに割当てられた。伏見線に関しては,33年8月以降は南口の所管になったはずだが,終端の中書島の派出所が維持されたかは不明だ。(稲荷については,一時期単区間折返しが設定された為,暫く残った可能性がある。)

三哲車庫の跡地に乗務員教習所が設置されたことは興味深いが,当該施設は37年12月に烏丸車庫北側(北区小山花ノ木町)に移転している。川端操車場は41年11月に天王町に移転したが,跡地は工務課や架線詰所として使われ,引込線の撤去申請が出されたのは50年7月だった。上表以降に設置された操車場としては,南口→八条口,高野以外に,西大路駅操車場(41年4月),無軌条電車操車場(壬生坊城町19),梅津線操車場(西大路四条西入,阪急借地)等が知られている。(11/12/2024)


市電6号系統


百万遍-高野間は1943年7月に開通した。同年12月に,京都駅-銀閣寺を東山経由で結んだ系統の終点が高野に振替えられ,高野-京都駅間の系統と接続する形になった。45年3月からこの2箇系統は6系統にまとめられ,同年5月からは新たに開設された高野車庫が担当した。その際,旧系統は6甲系統,旧系統は6乙系統に改称される形で,両セグメントが往復運転された。この場合も,操車窓口から遠い側が,近い側がという原則が維持されている。

55年1月16日,錦林車庫開設と同時に高野操車場が廃止され,6系統は烏丸車庫の直轄に移った。54年度の「交通事業成績調書」には,上表のような系統変更が記載されている。ここではが右回り,が左回りの循環系統とされているが,これは京都市電の原則に反する為,いつの頃からか,スタフでは右回りが「」,左回りが「」という別の名称が付与されていた。さらに市電全廃時の代替バス206系統では,左回りが,右回りがという原則に立ち返っている。

問題は,壬生廃止以前のスタフでは6いー6ろと書かれるにも拘らず,運転本数等の統計では6甲-6乙と記載されることだ。後者に関しての明確な定義は見当たらないが,本サイトでは6甲を烏丸車庫-京都駅(烏丸経由往復),6乙を烏丸車庫-京都駅(東山経由往復)と見なしている。下表は朝日新聞社「世界の鉄道'73」掲載の,壬生廃止後の運転回数に関する表(抜粋)である。6系統は,高野操車場廃止時と同様に,が右回り,が左回りとされているが,循環系統で方向別本数が大きく異なることは信じ難い。烏丸線は4乙系統が並走する為,6系統は主力とは言えないのに対し,東山線では基幹系統になる為,本数の多い方が東山線と解釈するのが妥当だろう。 同書では12系統にも同種の間違いが見られ,が左回り,が右回りとされているが,前者の本数が後者の約2倍ということはあり得ない。実際は12乙系統は今出川経由の西大路四条往復で,当時市電で最も本数の少ない系統だった。

京都駅前西の信号塔は「操車塔」と呼ばれ,烏丸系統の操車を行っていた。右写真は,壬生廃止前後の場内信号の状況を示す。左は(4甲-4乙-6甲-6乙)の4現示の系統指令信号機だが,壬生廃止以降,京都駅前での操車業務が中止された為,系統指令信号機は横に向けられてしまった。一つにはワンマンカーでは仕業ごとのスタフが使用された為,ワンマン化の進行に伴い,京都駅前での系統変更の余地が無くなった為と考えられる。なお6系統に関しては,壬生廃止までは6ろ系統にワンマンカーは入らなかった。理由は烏丸線のりばには,4乙系統用に運賃収受要員が配置されていたが,東山線には人員が配置されて居らず,また1800形-1900形の右側ドア開閉スイッチが未設置だった為だろう。西大路・大宮線のりばは左側乗車となる為ワンマン化可能だったが,10・11甲系統にも同様の理由でワンマンカーは入らなかった。 (11/2/2024)


車庫別系統番号

十位名古屋市東京市
0池下→稲葉地(58.12移転)
1浄心三田
2沢上青山
3高辻新宿
4老松町(50.12廃止)本所(両国橋)→柳島
5大塚
6安田→大久手(54.3移転)巣鴨
7下之一色(61.4港分所)三ノ輪
8上飯田(58.4開設)青山南町
9有楽橋
10本所(錦糸堀)
11広尾
12早稲田
13神明町
14三ノ輪(新谷町)
15新宿(大久保)
16広尾(目黒)
17三ノ輪(南千住)
18巣鴨(駒込)
殆どの都市では市電の系統番号は通し番号だったが,名古屋市だけは10の位が運輸事務所(車庫)を示し,1の位が車庫ごとの系統番号という付番方式だった。それまでの「い-ろ-は」方式の系統から,1943年8月頃に移行したとされる。その割当は表左列に示す通りである。このうち老松町については,若宮大通の建設用地に掛って廃止されたため,以後40番台の系統は欠番になった。

この付番方式の面倒なところは,系統の移管が生じると系統番号の変更が必要になることだ。たとえば59年4月の上飯田操車場の車庫昇格に伴って,浄心の14系統(上飯田-赤塚-大学病院-水主町-八熊通)は80系統に,高辻の32系統(上飯田-清水口-鶴舞公園-高辻-堀田駅)は82系統に改番されたが,22系統(上飯田-大津橋-熱田神宮)は移管されずに沢上に残った。結果として,14-32系統は欠番になったが,どの系統がどの車庫に所属するかは,利用者からは余り関心がないことと言える。

58年12月に池下運輸事務所を地下鉄東山線に明け渡して稲葉地へ移転し,移転跡の操車場も59年6月に閉鎖された。稲葉地は都心循環の3系統(名駅-菊井町-新栄町-六反小-名駅)から離れすぎ,管理上不便である為か浄心に移管されたが,その際には3系統の付番は変更されなかった。車庫別の付番方式は硬直的だと反省したのかも知れない。以降,路線縮小に伴って,30-35系統が高辻→浄心,51系統が港→沢上等の系統移管が行われたが,系統番号の変更は実施されなかった。

この付番方式は名古屋市オリジナルか,と言えばそうではなく,大正期の東京市電に遡ることができる。東京の路面電車は,馬車鉄道から転換した東京電車鉄道と,東京市街鉄道(街鉄),東京電気鉄道(外濠線)の3社をルーツとするが,企業統合を経て1911年に東京市に買収されて市電に一元化される。大正に入り,表右列に示す車庫番号(当初は11広尾まで)が導入され,車体側面に正方形を45°回転したひし形のサボが設置された。しかし車庫番号のサボは,系統を案内する物ではないため,大まかな方角以上のことは分らない。

そこで1922年から画期的な案内方式として,経由地を付した系統番号の「横板」が掲出されるようになる。この時,車庫番号を10位として,1位に車庫ごとの系統番号を付番する,後の名古屋市と同じ方式が採用された。当時の車庫は18ヶ所あったので,当然3桁の系統番号も生じるから,3桁系統番号も京都市のオリジナルではない。なお表中,たとえば「新宿(大久保)」とあるのは,新宿出張所配下の大久保分所の意味である。この時の系統は「ぽこぺん都電館」に詳しい。当時は,城東電軌・王子電軌(現荒川線)・玉電(山手線内側)・西武軌道線(東京のN電)など,周辺私鉄を吸収する前だった為,路線網は限定的だった。

この方式の系統番号は,導入翌年の9月1日に関東大震災が発生し,被災後の混乱で僅か1年で姿を消すことになった。(10/20/2024)


進路選択信号機

京都市では交差点の進路選択信号機は中継信号機タイプだったが,1960年代前半までは古いタイプも見られた,と東山七条の項で書いた。古いタイプの信号機を正面から撮った画像が,「市電・市バス」4号(1955)に掲載されていたので転載する。左写真は烏丸車庫前(烏丸北大路)南詰で,①が進路選択信号機,②がポイント制御函,③がポイント作動部を示している。電車は4乙B系統1014号だが,架線はビューゲル対応が完了しているものの,電車はトロリーポールを使用し方向幕も小型,系統板もサボ挿しを使用する以前だ。

右写真は同じく「市電・市バス」2号(1954)に掲載された「自動転轍機」の画像で,②は電気式転轍機の制御函だが,上部の函には殆どタイマーしか入っていないように見え,下部が本体になる。後方に「キャラメル」の看板が見えるだけで,場所は不明だが,「現在,円町・千北・千今・七大・九大・西七・東七・塩高・熊野・勧進橋の10箇所に設置され,本年度に烏庫・河今にも設置される」とあるので,円町・千北・熊野の何れかだろうか?(西七・東七は電空式,千今・九大は背景が銀行,勧進橋は配置が異なるため除外される。) ③はポイントマシン,④は交通局電話のボックスになる。この記述によれば,左写真の烏丸車庫前の進路選択信号機は54年度後半に設置されたばかりということになる。

烏丸車庫東隣の「京聯タクシー」は,京都交通(京バス)の関連会社であった為に,その倒産に絡んで紆余曲折を経て消滅に至った。(10/9/2024)


旧仮名遣い


京都市電では一部目的地について仮名文字の方向幕を使用したが,戦前の旧仮名遣いでは「ぎおん」が「ぎをん」に変わるだけだ。しかし駅名標の仮名表示だと,かなりの差が見られる。たとえばJR西日本の「三都」を構成する京都ー大阪ー神戸は,左上の駅名標サンプルが示すように「きやうと-おほさか-かうべ」と,何れも現在と異なる表記になる。ただし旧仮名の使い分けはかなり難しく,「キョー」という発音に対応する表記は,左下表(文化庁による)のように「きよう-きやう-けう-けふ」の4種類あり,漢字によって使い分けられていた。

元は発音に差があったのだろうが,時間が経つと簡略化が進むのが常なので,万葉仮名の甲類・乙類の区別同様,後代には失われて行くものだろう。「逢坂」は「おうさか」と表記するが,これは語源が「逢ふ」というハ行4段活用動詞なので,旧仮名の「あふさか」は容易に想像が付く。一方「黄檗」も「おうばく」と表記するが,この旧仮名は「わうばく」になる。(前者についてはJR線・京阪線共に隧道名であり,駅名としては旧樺太庁のみ。後者についてはJR駅は61年開業であるため,旧仮名時代には京阪線のみ存在。)

京都の地名に多い(と言うより条坊制に基づく),二条・三条等は「でう」と書き,「二条城」は下表に従えば「にでうじやう」と表記される。しかし昔の人に取っても区別は難物だったようで,右の1922年都市計画図では,二条駅に「にでう」と「にでふ」の2つの表記が混在している。さらに下記事の1911年和楽路屋刊の地図では,「七条停車場」が「しちぜう」(「し」は変体仮名)と表記される等,相当混乱している。(9/29/2024*)


三哲車庫

A:「最新踏査京都新地図」小林壽(著者兼発行者), 中澤明猛堂, 1911 B:「実地踏測京都市街全図」日下伊兵衛(著作印刷兼発行人), 和楽路屋. 1911
C:京都市都市計画基本図(1:3000), 1922 D:京都市明細図(1:1200), 長谷川家版, ca.1927
「京都市電気軌道事務所」では,後年の「運輸事務所」に相当する部署を「出張所」と呼んでいた。下の記事で「三哲出張所に代って北野出張所が開設された」とあるが,1928年1月に北野車庫が初めて開設された訳ではなく,13年8月頃の開設とされる北野車庫が「出張所」に昇格したという意味だ。京電による狭軌線は21.1kmに及び,それを三哲と北野の2車庫で運営していた。市の買収後も2車庫体制が続いたが,言わば「狭軌線営業部」のような形態で,三哲が全体を管理していたということだろう。(近鉄の西大寺検車区の配下に,新田辺車庫と宮津車庫が並立する形態を考えると解り易い。)狭軌線の縮小に伴って,車庫は1ヶ所で足りるようになり,北野が存置された。

京電創業時の本社車庫は東洞院にあり,伏見線接続までは踏切南側にも留置線があった由だが,東洞院車庫は04年6月30日の火災で大きな被害を被った。その代替として三哲本社が建設されたという説もあるが,各種都市図から判断すると,移転は概ね1911年頃ではないかと推察される。同年発行の地図Aでは東洞院に「電鉄会社」の記載があり,地図Bでは三哲に「電鉄」の記載がある。日文研所蔵の地図の範囲では,09年以前に発行された地図では東洞院に「電鉄会社」の記載があるのに対し,13年以降に発行された地図では三哲に記載が移っている為である。

車庫前の停留場は「三哲西洞院」だったが,後に「三哲車庫前」に改称されたようだ。しかし恐らくは戦時中の停留場削減で休止され,戦後復活することはなかった。三哲車庫が電車車庫として記載される都市計画図は地図Cのみだが,京都駅方・北野方の双方に単線の出庫線が存在したようだ。都市計画図の庫内配線は,壬生や北野に比べて単純化されていて,僅か2線が建屋に入るように描かれている。一般に,地図における軌道の表現は正確とは言えないが,地図Dでは庫内の留置線が16線描かれていて,最晩年でもかなりの収容力が維持されていたように見える。(9/18/2024)


狭軌線配線図

本サイトの配線図は1968年頃を基準にしており,狭軌線は含まれないので,左図に晩年の狭軌線の配線を示す。狭軌線が「西廻線」だけになったのは27年4月5日だが,それ以降も小刻みな路線短縮が実施された。当初の建設距離は6,548mと推計されるが,52年11月22日付で京都駅前西乗り場完成に伴い101m短縮され,北野線乗り場は西乗り場2-3番線のすぐ北側に移設された。さらに10号線建設に伴い,北野終点が「一の鳥居」東側から今出川通南側に,57年3月17日付で82m短縮されたので,最終的な建設距離は6,365m(営業距離6.3km)になった。

北野線開通当初,鳥居のすぐ横に待機する京電の写真が残るが,当時は北野天満宮の境内が下の森まで拡がっていた。後年にも似た構図の写真があるが,12年5月の延伸後の終点に,21年10月になって一の鳥居が移設された結果である。10号線の紙屋川開通(57.4.3)に際して北野線は短縮されたが,折返し亘線は2月12日付で南詰に移設されている。さらに同年12月21日付で,三哲(木津屋橋通)にあった亘線が撤去されている。狭軌線の北野出張所は28年1月10日に,それまでの三哲出張所に代って開設されたが,車庫廃止後もいつまでかは不明だが,留置線が1線のみ残されていた(右写真参照)。三哲の亘線の配置は南口操車場と相似であり,京都駅への配車に即応可能だった。北野車庫自体は,終点側に複線の出入庫線,起点側に単線の出庫線を有するだけで,車庫前に亘線は無かったが,狭軌線の亘線は千本中立売・堀川丸太町・四条西洞院と比較的多かった。このうち定期運用があったのは四条西洞院のみと考えられる。

三哲には京電の本社・車庫が東洞院から移転して来ており,18年7月の買収時に市が引き継いだが,右写真(交通局Archive)の建物は京電由来のものと思われる。28年1月の市電車庫廃止後,同年5月10日に最初の市バス車庫として三哲車庫が開設されている。敷地が狭いためか,三哲の市バス車庫は不安定で,42年4月に廃止,51年4月に再開,54年12月に廃止,70年4月に3度目の開設,77年10月に九条の支所に格下げされ,83年11月に支所としても廃止されるという経緯を辿っている。しかし用地を下京区役所に提供しつつ,86年4月から京都駅直近の操車場として現役で運用されている。 (9/8/2024)


Pennsylvania Gauge

かつてMarketの地下鉄はSchuylkill川を鉄橋で渡った。中2線が地下鉄の1581mm複々線だが,まだ第3軌条は敷設されていない。Mt.Washington Transit Tunnelを抜けてSouth Hills Jct.に到着するSiemens製連接車4237号。駅は4面4線だが,手前の2線は使用中止。(2019.11)
Island Ave.のセンターリザベーション(1581mm)を走る川崎製片運車9096号。West Chester/Ardmore線(1588mm, 58/66年廃止)跡に留置される両運車110号他。(1993.4)
北米大陸では,かつて様々なゲージが使われていたが,その中で1588mm(5'2 1/2")ゲージはPennsylvania(以下Penna.)ゲージと呼ばれる。現在でもPittsburghのLRTが使用しているが,New Orleansの路面電車でも使用されているため,Penna.に限られる訳ではない。Philadelphia(以下Phila.)では1581mm(5'2 1/4")ゲージと僅かに狭いゲージが使われるが,これもPenna.ゲージの亜種と言える。Phila.の路面電車は1902年以降,Phila. Rapid Transit(PRT)という民間企業の経営に入るが,07年にはMarket St.に最初の地下鉄を開業する。これについても1581mmゲージが採用され,電圧も路面電車と同じ600Vだった。

上段左に地下鉄開業前の23 St.Portalの写真(A.W.Maginnis Collection),右に現在のPittsburgh LRTを示すが,軌間の7mm差は目視では殆ど識別できない。SEPTAでは1981年導入の川崎製LRVが市内線(Subway-Surface線;T線と総称)と郊外線(Media-Sharon Hill線;D線と総称)で運用されるが,後者はPhila.& West Chester Traction Co.による路線で,Penna.ゲージが採用される。川崎製LRVは,2027年以降にAlstom製低床車に置換えられる計画だが,市内線用の9000型(中段左),郊外線用の100型(中段右)とも,フランジ間の距離は共通という説もある。

旧国鉄在来線の軌間整備基準値は,+10~-5mm(軌道検測車による数値)であったが,軌間1067mmにおける10mmは0.94%に当り,1581mm軌間では14.8mmに相当する。特に狭い軌間の車両が広い軌間に入る場合の問題は小さいから,1581mmと1588mmは保線精度の範囲内と言える。Russiaは5'(1524mm)軌間を採用していたが,Soviet時代の1960年代に1520mmに変更した。これも誤差範囲であるため,新規路線について厳密に適用するとしても,既存設備を急いで改変する必要は無いし,事実隣国のFinlandは1524mm軌間を維持している。

下段はGoogle MapによるSEPTAの69 St.Terminalの衛星画像である。①地下鉄Market-Frankford線(1581mm, 第3軌条700V),②Media-Sharon Hill線(1588mm, 600V),③Norristown高速線(1435mm, 第3軌条630V)の3線が集まるPhila.西部の交通の要衝である。(Mouse-on)では②を橙色,③を水色で区別しているが,複線や側線は記載を簡略化している。標準軌の③は,Phila.& Western鉄道によって07年に開業したが,4面3線の頭端式ターミナルに発着し,①②とは独立している。戦前には,このターミナルにトロリーポールと集電靴を装備したLehigh Valley Transitの路面電車が乗入れて来た。①と②は何れも到着側1面1線と出発側1面2線がループ線で接続する形態だが,北側の車両基地内では双方の軌道は独立しておらず,やはり軌間の差は決定的でないことが解る。画像では架線は見えないが,地下鉄が600V→700Vに昇圧したのは2017年頃であり,基地内電圧を600Vに共通化しても問題は生じない。(8/27/2024)