Gleanings from Trolley Days市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集 |
↑1 ↓3 | ↓4 ↑2 ↓5 |
東乗降場移設後は,駅本屋寄りの東1番線が伏見線,反対側の東2番線が河原町線で運用されたが,それ以前の運用方法は定かではない。本HPでは塩小路通上にあった時代には逆に記載しているが,図2(小山徹「京大鉄研雑誌」1957による)が1つの根拠になっている。(この図にも誤りはあって,18系統は行先に応じて両方の番線に入ったはずだ。)たとえばJ.W.Higginsによる写真3では,連絡線直近の旧東1番線に2系統1000型が入線しているのが確認できる。58年度版成績調書に掲載された,アーケードの完成写真(写真4)では,旧東1番線に600型,旧東2番線に800型が入線しているように見えるが,1000型が写っていれば河原町線が特定できた。
需要の大きい河原町線が駅本屋寄りに来るのは,西乗降場の烏丸線同様,理に適ってはいるが,セミクロスシートのパンタ試験車(9系統中書島行)を捉えた写真5(1951西城浩志蔵,「鉄ピク」2011年12月臨増による)は,背後にトロリーポールが見えるので旧東1番線であり,逆の運用がされていた時期もあるようだ。「市電・市バス」1号(54-5)掲載の「電車乗務員座談会」では,北野所属の林氏が,「京都駅前の河原町線-伏見線-北野線等の案内札を立ててもらいたい」と発言されているので,写真5の「伏見線のりば」の標識は,連絡線の工事に伴ってその後撤去された可能性がある。いずれにせよ,西乗降場に比べて東乗降場の写真は(晩年を除いて)目にすることが少ないので,実際のところ記憶を辿るのが難しい。(2/8/2024)
|
2021年4月の記事に「66年頃だと思うが,烏丸運輸事務所の横に廃止された(14)系統の横板が並んでいるのを見た」と書いたが,内容は全く記憶に残っていない。それを捏造したのが右の図だが,烏丸車庫以西については15系統の横板と同じにしている。しかし平日朝夕運転系統に急行通過停留場である「金閣寺」を採用したかは疑わしい。ただ急行運転の開始は62年3月で,この横板はそれ以前から使われていたはずだ(この当時烏丸横板の広告主は「かねてつ」が多かったが復元困難)。大徳寺前の系統通知信号機には(14)の設定が無いが,烏丸車庫以西は15甲と一致するため,(15)を通知すれば車庫前の発車順位から区別が付いたはずだ。
運転系統図では系統は単色の線で表記されたが,14系統のみ黄・緑の2色使用だった記憶がある。都電14系統(杉並線)も京都と同じ63年に消えた(12月)が,大阪の14系統(守口~あべの橋)は全廃直前となる68年暮れまで残った。(1/11/2024)
画像は22系統の青バス(中書島)だが,LED車になると方向幕を照らすことが不可能な為,幕表示部分を赤色または緑色の点列で囲むことで代用されるが,これには少なくとも3色LEDが必須になる。運転席スイッチでは前者を「終車灯」後者を「終前灯」と呼ぶのが一般的だが,ボンネット時代の京都市バスで「続行灯」と称するスイッチを見た記憶がある。電車の場合「続行灯」は単線区間の続行運転を示すのに使われた(例:下之一色線)ので全く意味が違う。
元は都電の方向幕に起源があるとも言われるが,京都では終電が「終」の円板で示されただけで「青電」は無関係に見えるが誤りだ。表は1953年頃の終電時刻表の5乙系統部分を抜粋したものだが,5乙青前(烏特1へ着発)→5乙青→5乙終の順に記載されていて,少なくとも当時は部内的には「青電」が明確に定義され,それに関しても他系統接続が考慮されていたことが読み取れる。(12/6/2023)
東山への鉄軌道アクセスについては,当サイトでは京都駅~七条(五条)間の京阪線への枝線(路線延長約1km)を提唱している。地下線のため費用は嵩むがB/C的にはクリア可能だと考えるが,京都市にも(京阪にも)その財力はないため,別スキームが必要になる(観光庁のオーバーツーリズム対策予算等では桁が不足)。清水寺の場合,五条坂バス停からの0.8km(徒歩14分)に対し,清水五条駅からは1.5km(24分)になるため近いとは言えないが,川端~東山間の歩行者空間を整備すれば克服可能な範囲だろう。しかし歩行者空間と言えば,「歩くまち・京都」構想の要だった都心部の歩道拡幅事業について,2015年10月に完成した四条通(烏丸~川端間)について,タクシー事業者や交差街路住民等からの評判が悪く,これに続く東山通の歩道拡幅については整備が凍結されている。
四条通については,御池通・五条通が迂回路になり得るが,東山通については川端通しかなく,また混雑の主体が府外ナンバー車の混入にあり,整備後の渋滞は一層激しくなると予想されるためである。とは言え,清水道や五条坂のバス停付近は歩行者空間の体を為しておらず,安全上も歩道の拡幅は避けられないから,最低でも祇園~五条坂間は車道の2車線化が必要だろう。その場合,バス・タクシー等の公共交通と,指定車・許可車以外の通行を制限するトランジットモールとしての運用が現実的であり,四条通以上に沿道の理解が必須になる。2車線化で車線幅に余裕が出れば,連節バスの運行も容易になると考えられる。
軌道再敷設の困難さからも,東山通等に市電を残すべきだったという意見は多く,5年前のNewsweekにも同様の記事が掲載されていた(既出)。
Newsweek: 京都は40年前に路面電車を廃止した、大きな過ちだった (5/29/2018)
しかし実際問題として,再敷設をするならば車両基地の確保を含めて課題山積と言える。(11/15/2023*)
他に四条大宮北東角にも信号塔が存在したが,56年2月25日に用途廃止となり,57年4月4日付で自動転轍機が使用開始されている。また四条線の反対側,祇園には機械式転轍機を扱う信号小屋があったとされる。祇園の転轍機自動化は59年12月15日付であり,比較的遅くまで存在したはずだが,写真等が見当たらないため形態は不明だ。京都駅前操車塔については,烏丸線七条以北の廃止(49年4月1日)に伴い用途廃止になったが,躯体は巨大な「市電・市バス案内盤」(目的地のボタンを押すと経路を表示)の建屋に流用された。
左は46年10月米軍撮影の航空写真で,左から順に西大路七条-九条大宮-塩小路高倉付近を抽出したものである。撤去された信号塔がどこに在ったかだが,信号塔は3平米ほどの小さな構造物であり,モノクロ航空写真では街路樹と区別が付かないが,敢えてこれではないか,というものを(Mouse-on)で示しているが自信はない。特に塩小路高倉については僅か1.41平米の極小物件だが,この時点には南~東方向の分岐は存在しない点に注意されたい。なお信号塔の建設時期については,1938年頃とされるため,終戦時には存在していた。西大路七条については,「信号塔を廃止して器具函を設置した」とあるが,電空式転轍装置の器具函はコンプレッサー等を含む大型キャビネットで,その設置位置は交差点南西側だったので,敢えて信号塔と別の場所に置いたのか,信号塔の位置を読み違えたのか不明だ。(11/8/2023)
京都市電では,車体側面の車号は左の梅小路公園の1605号の如く,車体中央に局章の下に記載される(多くの場合切抜き数字)のが原則だった。ところが広軌I型29号では,車体中央の局章は変わらないものの車号は腰板左下隅に記載されている。その後の200/300型でも,下の記事の271号に見るように車号は左下隅にあり,514型も同様だった。ただし200/300型については,塗色変更の際に車体中央に車号が移されている。古い車両がすべて同様かと言えばN電は違っていて,車体中央には車号のみで局章は腰板右下隅にペイントされていた。※注) ※注:現車は平安神宮神苑に保存され,2020年に重要文化財に指定されたが,塗装が劣化しているため,「デジタル青信号」所載の画像を加工。 大型車(3扉車)については,1001号に見るように中扉の左側に車号,右側に局章と分離されている。2000/2600/1800型の前中扉車では,1605号と同様に局章と車号がまとめて配置された。しかし車体長が長かった為か,1900型については車号と局章が分離されたが,中扉左側に局章,右側に車号と,1000/500型とは逆の配置になった。 妻面の車号は,29号や271号に見るように,かつては幕板左側に記載された。当時は救助網が大きく,車両後部に畳んだ状態では腰板の車号は見難い為だと思われる。200/300/500型では,幕板の車号は切抜き数字が使われたが,塗色変更と相前後して前照灯右下の位置にペイントされるようになった。それでも昭和40年代初頭までは,500型で幕板の切抜き数字と腰板のペンキ文字が並存した車両が散見された。(10/15/2023) |
壬生 | 烏丸 | 九条 | 計 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
50.1.1 | 250-280 301-329 | 60 | 201-219,237-249 | 32 | 220-236,281-293 330-350 | 51 | 143 |
52.10.1 | 31 | 15 | 44 | 90 | |||
56.10.12 | 205,206,208,247,248,251,257,261,266 301,302,304-306,310 | 15 | 232,237,245,280 311,313,315,317,322,329,332-337,339-341, 343-345,349,350 | 24 | 39 | ||
58.12.1 | 205,206,248 305,310,313,315,329,336,337,341,343,344,349 | 14 | 14 |
200/300型は単車ながらエアブレーキが装備された点で広軌I型とは大きく異なるが,電動機は広軌I型と同じ25HP(18.5kW)×2を搭載していた。余りに非力だった為か,1935年から37年に掛けて8両が35HP(26kW)×2に換装されたが,以後中断し戦後49年になって再開されている。換装は廃車直前の55年まで続けられたが,戦後施工の一部については,出力が40HP(30kW)×2に強化されている。
200/300型の塗色は当初マルーン1色だったが,1935年登場の514型で採用された濃淡茶色塗装に順次変更された。モノクロ写真では600型で採用された青電色(黄土色+濃緑色)の塗装と殆ど区別が付かないが,マツモト模型で製作された300型模型の塗色が参考になる。さらに戦後の49年頃から,在来車の青電色への統一が進んだから,全廃時点には濃淡茶色の旧塗色車は存在しなかったはずだ。(10/4/2023)
⑷ 新型コロナウイルス感染症のような不測の事態により変化する需要動向や物価高騰等の社会情勢に応じて、機動的・弾力的な運賃設定を可能とするなど、自由度の高い運賃制度を構築すること。 特に、本市においては、観光利用が多い特性を踏まえ、観光利用と日常生活を中心とした市民利用との棲み分けについて、運賃制度をはじめ各種規制を柔軟に運用できるような制度構築に向け検討を行うとともに、必要な財政支援措置を講じること。 |
基本は賃金と同様,"equal service"なら"equal fare"とすべきだろう。一部の公共施設では,2部料金制の考え方を用いて,固定費用部分は市民税によって賄われるとして,相当額を非市民から追加徴収することが行われる。しかし公共交通(特に地下鉄建設補助金)には,国民の税金が少なからず投入されているから,市民だけを優遇することには問題がある。京都市には,財源不足を非市民に負担させようとする性向がありそうだ(cf.「古都保存協力税」)。現実的には,観光用急行バス(現在運休中の100番台系統)等で,サービスの質の差別化を図ることや,混雑緩和策としての大型荷物料金徴収が考えられるが,後者はワンマンカーでは技術的に難しい。
途上国では,公共施設(博物館等)に外国人料金を設ける例があるが,鉄道における差別運賃としては中国鉄路の例が想起される。1995年の兌換紙幣(FEC)廃止と相前後して廃止されたが,それ以前は外国人運賃(1.75倍?)が設定されていた。ただし外国人窓口で並ばずに切符を購入できる等,サービス面で若干の差別化が図られていたが,差別運賃の導入に言及すること自体,日本が途上国レベルになったことを物語るように思える。(9/19/2023*)