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Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

戦前の横板と横幕


横板(側面方向板)の掲出は1953.6.8からと記録されるが,これは戦後の話であって,戦前にも横板の掲出はあった。梅寿堂茶舗さんご提供の写真にある系統の横板を拡大・判読した結果を左上に示す。写真からは戦後と同様のフック付き鉄製看板(ただし無広告)に見えるが,白黒写真では色は全く判らない。系統がこの経路だったのは43.12.24迄だが,43.8.12に金属回収令が公布・施行されているので,恐らくは回収対象となって戦前の横板は消滅したのではないか,と想像される。

左下は戦前の600型だが,この当時は前扉すぐ後ろの戸袋窓に,室内側から側面方向幕(横幕?)が設置されていた。写真では白幕になっているが,停留場では戸袋窓と扉で合わせて3枚のガラス越しに見る必要があり,かつ着座者を考えて高い位置に設置されたため,相当見難かったはずである。結果的に余り良い考えでは無かったと見えて,使用が続けられることもなく,他形式への波及も無かったようだ。

大阪市電では,一部の車両に外付けの側面方向幕が使用された。右写真は循環15系統1700型のものだが※注,中扉の直前(京都でも3扉車の横板はこの位置)に設置されていた。これだとガラス3枚を介する必要は無いが,雨水浸入や車両限界が気になる。
※注:15系統は,都島車庫<四ツ橋筋>なんば<堺筋>都島車庫。小林庄三「なにわの市電」(トンボ出版,1995)掲載の写真を加工。

今なら京阪3000系プレミアムカーに採用された液晶ディスプレイ内蔵複層ガラスが利用可能だが,コスト的に疑問。(9/3/2023)


東九条車庫/Higashi-Kujo Depot

伏見線の車両管理は九条車庫で行われたが,九条車庫が無かった時代,伏見線広軌正式開業(1923年6月26日)の5年後(28年10月12日)に伏見線の運用拠点として,後の京都駅八条口(アバンティ)の位置に東九条車庫が開設されている。左は1929年の都市計画図に記載された同車庫であり,図上には「九條車庫」と記載されるが,これは誤りである※注。位置的には「八条」だが,地名が旧・東九条村(18年京都市編入)だった為の名称で,「九条」とは呼び難い。図には10本の留置線と,他車庫にもあった資材積載(給水)用と見られる側線1本が描かれている。
※注:一部公式文書では「九条仮車庫」と記載されている。

あくまで仮車庫の位置づけだったので,九条線・大石橋~九条車庫前間開通に伴う九条車庫の開設と同時に,33年8月5日付で廃止されたが,その後も留置線1本と操車場機能が残された。(Mouse-on)は1935年の都市計画図に示される同地点だが,この当時には「京都駅南口」電停が高倉跨線橋直近にあり,大石橋との間に「東寺道」電停が存在したことが判る。仮車庫(操車場)の向かいには,長年に亘って(上下)水道局の本庁舎が立地していたが,2022年に移転・解体された。(8/9/2023)


錦林の横板


以前にも書いたように,錦林の横板に関しては,定期券購入の際に事務所出入口脇に置いてあるのを何度も見ていたが,画像記録を撮っていない。左上は "Memoranda"に掲載(2014年11月)した,千本丸太町を渡る2甲系統601号の写真だが,横板が写っているものの,拡大しても内容は判読不能である。他にも各出版物やWebページに同様の写真は散見されるが,内容が判読可能な距離・角度のものは見当たらない。

左下は錦林所属系統の横板を,他系統の経由地選択から類推したものである。錦林の横板は,甲・乙が別板であったため系統数の割に種類が多いが,全くの捏造であるため内容は保証できない。例えば12系統は2系統の短縮系統であったため,そのまま1枠を削除したが,12系統には烏丸丸太町や百万遍が挿入されなかったか等である。横板の経由地に関する確度の高い情報をお持ちの方は,ご提供をお願いしたい。(7/16/2023)


と書いたら,奈良の青木様より2系統の横板の画像を頂きました。甲・乙が別板になっていたのは,63年6月以前の古い板のようで,左下の2系統では甲・乙が通しで1枚になっています。晩年の円板のように,系統の縁取りが黒になっている点も特徴的で,2系統の短縮系統である12系統も当然1枚になっていたはずなので,同仕様で捏造しました。ただし22系統に関しては,系統板の色が異なることもあり,甲・乙別が維持されていました。また2系統自体に変更があった訳ではないので,古い板が併用されていた可能性はあります。併せてこちらも改訂しました。(7/19/2023)


「成績調書」の写真ページ

無軌条転換直前の梅津車庫前を行く514型。 外大の建物から見た梅津車庫。手前が検車棟,左がその付属棟。
1959年度まで発行された「交通事業成績調書」には,当該年度の主な事業に関する写真ページが付録として掲載されていた。58年度版には今出川延長線の開通や,梅津線の無軌条転換などのイベントが記録されている。左はその一例である。

梅津線は市電として初めて単架線で建設された路線であるが,戦中の突貫工事ゆえ路盤が不完全であり,交差道路など一部を除いて軌道敷は枕木がむき出しだった。従って改修に多額の費用を要する点が,市電路線としての維持を断念する一因になった。左写真には東行の(↑←×)信号機が見えるので,場所は車庫東門の西側であることが判る。手前には市電200/300型の廃車体が見えるが,これは仮設事務所として使われていた。

右写真では内側ループ線に300型,外側線には100型が並んでいるのが見える。300型は梅津線無軌条化に伴って導入されたが,当初から折戸は塗分けであったことが判る。またループ線の外側に,広い敷地を擁したことも判る。(7/1/2023)


PCC車の空制・電制(Aircars/All-electrics)

40th St. Portalの13系統2059(?)号(1978.9) Darby終点の11系統2198号(1981.6)
TYPENUMBERSCARSBUILDERYEARSCRAPMOTORS
1938 PCC2001-20055St.Louis19381960GE 1198F1
1938 PCC2006-202015St.Louis19381960WH 1432
Brilliner2021-20233Brill19391956GE 1198G1
1940 PCC2501-258080St.Louis19401982GE 1198F3
1940 PCC2031-2080 50St.Louis19401982WH 1432D
1942 PCC2081-209010St.Louis19421982WH 1432D
1942 PCC2581-262343St.Louis19421982GE 1198
1942 PCC2624-268057St.Louis19421982WH 1432D
1947 PCC2701-272525St.Louis19471992WH 1432D
1947 PCC2726-280075St.Louis19471992*GE 1220A
1948 PCC2091-214050St.Louis19481992WH 1432J
1948 PCC2141-220060St.Louis19481992*GE 1220A
ex-St.Louis2201-224040St.Louis19401962GE 1220A
ex-St.Louis2241-225010St.Louis19401962WH 1432J
ex-Kansas City2251-229040St.Louis19461985WH 1432J
ex-Toronto2240-225011St.Louis19461983WH 1432J
ex-Toronto2300-231819Pullman19461982WH 1432J
転轍機の電空式・電気式から連想されるのは,1930年代のモータリゼーションへの対抗手段として,合衆国の電鉄経営者協議会が委員会を設置して開発したPCC(=Presidents' Conference Committee)車である。高加速・高減速の高性能車で,標準化の推進により欧米諸都市に広く普及した。Philadelphiaでは,PRT最晩年の38年に20両を53系統用に導入したのを手始めに,合計473両を新車購入,120両を他都市から中古購入している(表は©Mike Szilagyiによる)。

42年(戦前)までの初期のPCC車は空制車だった為"Aircars"と呼ばれた。これらは2001~と2501~の車号を振られたが,前者は導入時ワンマン専用,後者はワンツーマン車であったことによる番号区分で,後年には殆ど意味を持たなかった。46年以降(戦後)の車両は,電気制動になった為"All-electrics"と呼ばれる(表の太字)。これらは2701~の車号を振られたが,2091~の追番も使われたらしく,当時まだワンツーマンが残っていたものか,事情は不明である。他都市からの転入車には2201~が振られたが,これにも空制車が混在する。ただし空制の転入車は62年までに淘汰されたので,70年代後半には,概ね2000-2500-2600番台が空制車,2100-2200-2700番台が電制車という認識だった。

写真は今も残るSubway-Surface線上の空制車(左)と電制車(右)である。この当時,空制車は数を減らしていたが,1981年に川崎製9000型LRVが本格稼働するまでは,まだ姿を見ることができた。電制車と空制車は,バス窓の有無で容易に識別できる。窓配置と制動方式は無関係なので,どこの都市にも当てはまるかと問われれば自信はない。バス窓は,立ち客からの眺望を確保することが主な導入理由だった。電車の塗色は,73年からの車両改修に合わせて導入されたもので,俗に"Gulf Oil Paint Scheme"と呼ばれる。かつてのガルフ石油の看板と配色がそっくりだった為だ。

PCC車の大勢は92年に引退したが,これは同年まで存続していた15-23-56系統が,「暫定的に」バス代行とされた為だ。その後15系統のみ電車運転に復帰したが,それにはPCCⅡと呼ばれる改造車(2320-37の18両)が使用されている。PCC車を放逐した川崎製LRVも,ADA (Americans with Disabilities Act of 1990)不適合を理由に,2030年までにAlstom製の低床連接車への置換えが決まっている。

日本で本格的にPCC車の技術を導入した車両として都電5500型が知られるが,純粋のPCC(電制)車は荒川車庫に保存される5501号(54年製)のみで,5502号以下の6両は間接自動制御・WNドライブではあったが,基本的に空制車であり,言わば戦前の仕様に先祖帰りした形であった。京都市では,866-80, 901-15, 724-48の計55両(全車烏丸配属)が,間接自動制御,電制常用や弾性車輪等の新機軸を導入したものの,依然として吊掛け駆動だったので,5502号の水準にも達していない。(6/17/2023)


電空・電気転轍機(Electro-pneumatic/Electric Switches)

左表はこれまでにも引用した,1959年度版「成績調書」の「信号保安設備表」から連動装置と転轍機部分の全体を抽出したものである。この時点では七条烏丸は信号塔でポイントを扱ったので,烏丸線の連動装置扱所は,京都駅西-七条烏丸-烏丸車庫であろう。しかし烏丸車庫は烏丸線と言うより北大路線だが,烏丸線に代表させたのかと言えば,七条烏丸は七条線側にも記載されているので,単に北大路線が落ちただけと思われる。

右表は63年頃の配置表を捏造したものである。ここでは七条烏丸相当分を烏丸線・七条線双方から削り,烏丸車庫を北大路線でもカウントした。東山線の連動装置は百万遍と叡電前だったが,叡電前の分岐撤去により1ヶ所削減した。同時に京都駅東西接続に伴い河原町線に1ヶ所追加している。「京都市電配線図」を(四半世紀ぶりに)再作成したが,転轍機の種別はこの「捏造された」配置表に依拠している。

ポイントの電空式・電気式の区別を意識したのは,伏見線廃止後に,九条所属車のH棒仕切り裏側に(=乗務員向に)22乙系統(東山経由の出入庫系統を含む)の経路上の転轍機種別を記載した路線図が貼られた時である。それ以前から,ポイントマシンがコンパクトな交差点と,大型キャビネットが設置された交差点が存在することは承知していた。

左表では四条線に4基の電気転轍機が設置されているが,うち2基は西洞院と堀川の狭軌線分岐だった。分岐器の設置は進行方向左側の共用レールのみ,狭軌用架線は広軌用とは別に少し高い位置に吊架されていて,双方の架線にコンタクタを設置することで,狭軌車・広軌車を判別する特殊な機構だった為,他への転用は難しかったと思う。

右表では,七条烏丸の自動化に伴い,烏丸線・七条線各2基を手動→自動に移動している。また叡電前の分岐廃止に伴い,東山線から電空転轍機3基(叡電線内2基を含む)を削除し,塩小路高倉(南~東)の分岐新設に伴い,河原町線・伏見線に電気転轍機各1基を追加している。さらに京都駅の東西連絡に伴い,東場内用に電気転轍機(手動)1基を追加した為,河原町線は左表に比べて2基の増加になる。

七条線と千本大宮線の配置数から,七条大宮は前者が電気式,後者が電空式と,2方式が混在していた計算になる。西大路七条・東山七条共に電空式であった為,電気式2基は七条大宮に設置されたとしか解釈できない為だ。不思議なのは九条車庫で,左表では電気転轍機が設置されていたが,後年の写真では電空転轍機に変更されている。例えば63年に塩小路高倉で必要になった電気転轍機2基を九条車庫から供出し,ほぼ同時期に不要になった叡電前の電空転轍機を九条車庫に宛がったとするのは,考え過ぎだろうか?(6/4/2023)


散水車(撒水車)


昭和30年代までは,どこの都市でも舗装が行き届かず,乾燥すると道路には砂埃が舞う状態だった。当時は「散水車」の活躍が日常の光景だったが,タンクローリー型自動車が普及する前は,路面電車がその役割を担った。京都市の場合,広軌線には最大10両の散水車が在籍した。1~5号は開業から翌年に掛けて新造されたが,6~8号はN電からの改造,ラストナンバーの10号は広軌I型49号から改造された。※注) 実際の活躍は1940年頃迄だったとされ,41年7月に6両が廃車,50年1月に残り4両が廃車されて消滅した。
※注)N電からの改軌改造には,他に300形類似の車体に載替えた181号があったが,使用成績が良くなかったらしく殆ど活躍しなかった。9号については35年に入籍されているが,出自は不明である。

上図は「さよなら京都市電」掲載の散水車1号だが,同時期の広軌I型よりやや小型だった。広軌線では貨車の車番には「貨」が付されたが,散水車は写真で見る限り数字のみの表記である。また広軌I型改造の10号を除いて,vestibule(前面窓)無だったが,散水車の用途を考えれば雨天時の走行は無いので不要ではある。それとは別に,18年7月の京電買収時に狭軌散水車134~136号を引継いでいるが,これらもN1~N3と,客車と重複する車番に改番されている。なお41年に廃車された6両のうち5両が,タンクを下して貨4~貨8に改造された。種車の対応は不明だが,散水車として新造された5両と考えるのが自然だろう。

散水車には当然給水が必要になる。これには各車庫(操車場)の引込み線(積載線)が使われたと思われるが,唯一地図上に残る給水線が疏水端に設けられていた。下図(昭和2年頃京都市明細図(長谷川家版))の徳成橋南詰に引込み線が記載されているが,同時期の都市計画図には記載がない為,長期間存在した訳では無さそうだ。なおくまの~百万遍間の開通は28年1月,くまの~天王町間の開通は30年3月だった為,この地図には記載がない。(5/23/2023)


乗継割引


バス均一運賃地下鉄1区運賃連絡乗車券備考
1981.5130円(暫)120円190円割引導入(△60円)
1982.1140円120円200円
1984.4150円(暫)140円230円
1984.12160円140円240円
1988.10170円(暫)160円270円
1989.10180円160円280円
1992.4200円180円320円
1996.9220円200円360円
2006.1220円210円370円
2014.4230円210円380円消費税8%
2019.3230円210円320円割引拡大(△120円)
2019.10230円220円330円消費税10%
Over-tourism対策としての地下鉄誘導を図る為と称して,交通局は2023年9月末でバス1日券(700円)を廃止し,バス・地下鉄1日券(1100円)に集約する方針である。バス券は18年から21年までは600円で発売されていたが,700円でも現在の普通運賃換算で約3乗車で元が取れる。さらに近年は均一区間が岩倉・嵐山・高雄方面に拡大され,従来の調整路線でも使用できることを考えれば割引率は過大だろう。

京都市の1日券は1974年4月の烏丸線廃止と入れ替りに発売されたが,当時の電車・バス普通運賃50円に対して発売額は300円(大人)だったから,6乗車しないと元が取れなかった。現行運賃に当て嵌めれば1380円となって,バス・地下鉄1日券の価格を超える。左上は最初の1日券(小人用見本券)。

2023年4月に実施された乗継割引の廃止は,バス混雑に対して全く逆の効果を持つ。例えば京都駅から金閣寺まで行く場合に,北大路からバスに乗換えると,260円+230円=490円になる。従来は紙の乗車券で120円,交通系ICカードで60円の割引が入って370円~430円だったが,4月以降は無割引になった。バス205系統で230円の区間に,乗換の手間を伴う上に倍以上(490円)支払うincentiveは働かない。

バス地下鉄連絡乗車券は,地下鉄→バス方向は券売機で対応できたが,バス→地下鉄方向は事前購入した紙の1区引換券を券売機に投入し,差額精算を要するなど手間が掛った。1981年5月の地下鉄開業と同時に導入され,当初は合算運賃から60円引だったので,バス運賃130円+地下鉄1区運賃120円が190円になった。ただ地下鉄開業時は,交通局得意の2段階値上げの途上で,バス運賃130円は暫定運賃だった。

左下は270円のバス・地下鉄連絡券だが,発行時期は88年の暫定運賃時のもののようだ。右表に「交通事業白書」の年表より作成した,地下鉄開業後のバス・地下鉄運賃の推移を取りまとめるが,89年4月と97年4月の消費増税時には直接の運賃値上げは無かった。

京都市における交通系ICカードの導入は2014年12月だったが,カード利用の場合には乗継割引(60円)が自動適用されるようになる。合算運賃は250円→440円に76%も上昇したが,割引額は60円固定で「お得感」は損なわれる一方だったので,19年3月に割引額が60円→120円に拡大された。この結果,連絡券の値下げという珍しい事態が発生したが,ICカード利用の割引額は60円に存置された。今回全ての割引運賃を廃止し,ポイント制に移行することになったが,ICOCA, PiTaPa限定で,事前登録が必要かつ暦月に3600円以上利用した場合のみという適用条件は厳しすぎる。

観光客はほぼ完全に割引対象から排除されるが,対市民サービスを維持すれば,市民以外の反感を買おうと地方議員の選挙には影響しないという,一種のVoting Jurisdiction問題になっていて,1980年代後半の「古都保存協力税」を想起させる。古都保存協力税の場合には,京都仏教会という強力な圧力団体があったが,属性もバラバラな観光客では反対運動が組織されることはない。しかし地下鉄に乗らずにバスに乗るという「足による投票」は可能で,結局206系統等の混雑緩和とは逆行する。

日本では交通機関ごとの運賃収受が一般的だが煩雑極まりなく,事務処理コストが無視できない。名古屋ゆとりーとラインのように直通運転をしていても,ガイドウェイ部分は軌道,それ以外は自動車と,旧運輸省の縦割り行政を受けて基本的に合算運賃とされる。欧米では都市内交通はソーン制運賃や時間制運賃の採用が多く,乗換運賃(transfer)は不要になる。ICカード導入により時間管理が容易になるため,San Francisco MUNIのように90分以内乗換自由で$3.00と言った設定が一般化しつつある。

その意味では,廃止されたバス・バス乗継が最初の降車から次の降車まで90分以内で90円割引とされていたことは,ICカードの正しい利用方法だったと言える。これも昔は紙の切符が発行されていたが,赤バス(循環系統)と青バス(他の均一系統)という限られた組合せでのみ利用でき,かつ時間制限がなかった為,場合によっては異なる経路を利用することで往復にも利用できる問題があった。バス・地下鉄割引には時間制限が無いため,今でも往復利用が可能だが,これについても時間制運賃の導入により解決できる。(5/6/2023*)