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Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

乗継割引


バス均一運賃地下鉄1区運賃連絡乗車券備考
1981.5130円(暫)120円190円割引導入(△60円)
1982.1140円120円200円
1984.4150円(暫)140円230円
1984.12160円140円240円
1988.10170円(暫)160円270円
1989.10180円160円280円
1992.4200円180円320円
1996.9220円200円360円
2006.1220円210円370円
2014.4230円210円380円消費税8%
2019.3230円210円320円割引拡大(△120円)
2019.10230円220円330円消費税10%
Over-tourism対策としての地下鉄誘導を図る為と称して,交通局は2023年9月末でバス1日券(700円)を廃止し,バス・地下鉄1日券(1100円)に集約する方針である。バス券は18年から21年までは600円で発売されていたが,700円でも現在の普通運賃換算で約3乗車で元が取れる。さらに近年は均一区間が岩倉・嵐山・高雄方面に拡大され,従来の調整路線でも使用できることを考えれば割引率は過大だろう。

京都市の1日券は1974年4月の烏丸線廃止と入れ替りに発売されたが,当時の電車・バス普通運賃50円に対して発売額は300円(大人)だったから,6乗車しないと元が取れなかった。現行運賃に当て嵌めれば1380円となって,バス・地下鉄1日券の価格を超える。左上は最初の1日券(小人用見本券)。

2023年4月に実施された乗継割引の廃止は,バス混雑に対して全く逆の効果を持つ。例えば京都駅から金閣寺まで行く場合に,北大路からバスに乗換えると,260円+230円=490円になる。従来は紙の乗車券で120円,交通系ICカードで60円の割引が入って370円~430円だったが,4月以降は無割引になった。バス205系統で230円の区間に,乗換の手間を伴う上に倍以上(490円)支払うincentiveは働かない。

バス地下鉄連絡乗車券は,地下鉄→バス方向は券売機で対応できたが,バス→地下鉄方向は事前購入した紙の1区引換券を券売機に投入し,差額精算を要するなど手間が掛った。1981年5月の地下鉄開業と同時に導入され,当初は合算運賃から60円引だったので,バス運賃130円+地下鉄1区運賃120円が190円になった。ただ地下鉄開業時は,交通局得意の2段階値上げの途上で,バス運賃130円は暫定運賃だった。

左下は270円のバス・地下鉄連絡券だが,発行時期は88年の暫定運賃時のもののようだ。右表に「交通事業白書」の年表より作成した,地下鉄開業後のバス・地下鉄運賃の推移を取りまとめるが,89年4月と97年4月の消費増税時には直接の運賃値上げは無かった。

京都市における交通系ICカードの導入は2014年12月だったが,カード利用の場合には乗継割引(60円)が自動適用されるようになる。合算運賃は250円→440円に76%も上昇したが,割引額は60円固定で「お得感」は損なわれる一方だったので,19年3月に割引額が60円→120円に拡大された。この結果,連絡券の値下げという珍しい事態が発生したが,ICカード利用の割引額は60円に存置された。今回全ての割引運賃を廃止し,ポイント制に移行することになったが,ICOCA, PiTaPa限定で,事前登録が必要かつ暦月に3600円以上利用した場合のみという適用条件は厳しすぎる。

観光客はほぼ完全に割引対象から排除されるが,対市民サービスを維持すれば,市民以外の反感を買おうと地方議員の選挙には影響しないという,一種のVoting Jurisdiction問題になっていて,1980年代後半の「古都保存協力税」を想起させる。古都保存協力税の場合には,京都仏教会という強力な圧力団体があったが,属性もバラバラな観光客では反対運動が組織されることはない。しかし地下鉄に乗らずにバスに乗るという「足による投票」は可能で,結局206系統等の混雑緩和とは逆行する。

日本では交通機関ごとの運賃収受が一般的だが煩雑極まりなく,事務処理コストが無視できない。名古屋ゆとりーとラインのように直通運転をしていても,ガイドウェイ部分は軌道,それ以外は自動車と,旧運輸省の縦割り行政を受けて基本的に合算運賃とされる。欧米では都市内交通はソーン制運賃や時間制運賃の採用が多く,乗換運賃(transfer)は不要になる。ICカード導入により時間管理が容易になるため,San Francisco MUNIのように90分以内乗換自由で$3.00と言った設定が一般化しつつある。

その意味では,廃止されたバス・バス乗継が最初の降車から次の降車まで90分以内で90円割引とされていたことは,ICカードの正しい利用方法だったと言える。これも昔は紙の切符が発行されていたが,赤バス(循環系統)と青バス(他の均一系統)という限られた組合せでのみ利用でき,かつ時間制限がなかった為,場合によっては異なる経路を利用することで往復にも利用できる問題があった。バス・地下鉄割引には時間制限が無いため,今でも往復利用が可能だが,これについても時間制運賃の導入により解決できる。(5/6/2023*)


烏丸今出川

左は1970年の終車通過時刻表から烏丸今出川を抜出したものだが,東行の銀閣寺行最終が22:16発と23:44発の2本記載されている。これは明らかな誤りなので,本サイトでは23:44発のみを錦林車庫行最終として掲載している。22:16発は22乙の最終で,錦林から東山経由・九車行となる便であり,23:44発の方は錦特5系統(錦林~烏今往復)である。右に烏丸今出川の配線を示すが,錦特5系統は2ヶ所の亘線の何れでも折返し可能だったが,常識的には東詰で折返したと考えられる。

西詰東行停留場には銀閣寺(錦林)行最終としては22乙系統のみが記載されるため,通常の乗り場からの最終を敢えて別掲したのかも知れぬ。同様の事情は千本北大路でも生じた。烏丸経由・京都駅行最終は壬特4乙系統で,南詰北行停留場からの発車となり,通常の4系統の西詰東行からではないが,千北での京都駅行に重複表記は無い。1954年以前には,終電時に壬特2系統(壬生~烏今往復)が運転されていたから,錦林車庫の開設と共に臨時系統の運転区間が西→東に反転したものの,昔から烏今は(初)終電時の連絡運輸上重視されていた。

交差点の信号塔が最後まで使用されたのは七条烏丸だが,烏丸今出川(+印)は最後から2箇所目となる信号塔だった。記録によれば,1958年10月8日に自動転轍機新設工事着手,59年2月16日に西詰東行と南詰北行,3月17日に東詰西行,3月30日に北詰南行と順次自動化が完了し,既存の継電連動式操作盤を撤去したとある。烏丸今出川は60年代半ばまで,一部に嘗ての赤レンガ舗装が覗く古風な交差点だった。(4/18/2023)


急行通過

1962年3月27日から開始された市電の急行運転(平日7~9時)だが,68年時点で全177停留場中通過は68停留場と,通過率は38.4%に留まった。晩年には殆どの停留場に交通信号機が設置される状況になったため,「運転停車」の増加でスムーズに通過できる箇所は限られた。急行通過停留場には,左写真(関田町)のように,安全地帯標識に「急行通過」の表示板が付加された他,弘亜社の停留場標識にも「終発時刻案内」の下に表示板が付いた。

東急東横線の急行は「隔駅停車」と揶揄されるが,それでも東横間20駅中通過は10駅と通過率50%を維持するのに対し,例えば無軌条線100系統では,14停留場中通過は4停留場(28.6%)に過ぎない。常設系統で最も通過率が低いのは19系統で,稲荷までの7停留場(3.2km)中,通過は札ノ辻のみ(通過率14.3%)だった。さらに伏見線関係の出入庫系統だと,特A入系統(京都駅~九条車庫1.8km)には通過停留場は含まれない。入庫便は朝ラッシュ終了時に見られ,急行時間帯に掛かる便があった可能性もあるが,全停留場停車の系統に急行板は不要だろう。

最短の常設(=毎日複数回運転される)臨時系統は右写真の錦特2系統(錦林車庫~銀閣寺0.6km)だったが,これは浄土寺を通過したため急行板の意味があった。(3/23/2023)


下鴨集荷場線

大戦末期には,トラック燃料の不足により貨物電車が運転された。中央卸売市場の貨物線については掲載済だが,そこへ物資を供給するための2箇所の集荷場についても引込線が建設された。下鴨集荷場に関しては「こんにちは京都市電」の図録111(「文化財ブックス」35,2022)に図面が掲載されている。元図は南が上に描かれる為,180°回転させた図を左に掲載するが,北大路通が水平に描かれる為,真北は1.5°ほど左に傾いた方角になる。元図は青焼きで極端に縮小されている為,文字の多くは判読不能だが,現在の「カストルム洛北」なる集合住宅の位置に集荷場があり,その西側に沿って延長85mの軌道が引かれたことが判る。

ただ図面には,同時期に建設された高野車庫の引込線が記載されていないことが奇異に感じられる。時期的には,貨物線が44年4月28日付で一括申請されたのに対し,高野車庫の設置申請は同年8月9日付である為,貨物線申請時点には車庫の計画が未確定だったと見られるが,貨物線自体8月3日の認可を待たずに7月31日に竣工したと記録される等,相当混乱した状況にあった。貨物輸送の営業開始は9月21日で,白梅町を通過する貨8号の写真が残ることから,高野~千本北大路~西大路七条~七条千本の経路で運転されたようだ。燃料事情の好転等により49年6月30日限で貨物輸送は休止になり,下鴨集荷場の引込線は50年2月2日付で撤去されている(「関西の鉄道」38, 1999)。

右に46年10月2日米軍撮影の航空写真を掲載する。(Mouse-on)で凡その軌道位置を示すが,①が下鴨集荷場建屋,②が高野車庫(烏丸分庫)建屋に相当する。なお高野車庫入口にはシーサスの存在が記録されるが,留置車両の関係で位置は確認できない。しかし下鴨署と共に,高野川左岸が何故「下鴨」かという疑問は残る。(3/9/2023)


錦特2/特5系統

奈良の青木様から,東近江市で保存されている市電1831号車のシートの間から「交通調査カード」が出て来たと,以前に写真をご提供頂いた。「乗継券のページ」に掲載している22系統のカードと同じ,1975年6月に実施された調査のカードである。日付は記憶に無かったが,交通調査は火曜日か木曜日に実施するのが定石である。京都市でも他の2回の調査日,67年6月6日,72年9月19日共に火曜日だったが,75年は6月12日(木)に実施されたことが判明した。

月曜日や金曜日は週末と近く,普段とは異なる動きが出る可能性があること,水曜日は当時殆どの百貨店が店休日だった為,買物客が少なくなる傾向があり,さらに6月も中旬を過ぎると梅雨の影響を受けて,自転車からの転移で通学客が増加する傾向がある為だ。因みに75年の近畿地方の梅雨入り(確定値)は,6月5日頃と記録されるが,調査当日は好天だった。

写真のカードは12乙系統のものだが,錦特2系統,錦特5系統の2つの部分系統と兼用している。錦林車庫⇔銀閣寺に「錦特2」,錦林車庫⇔河原町今出川に「錦特5」の注記があるが,そもそも河原町今出川の折返し線は交差点東詰にあり,西行の安全地帯は西詰にあったため,河原町今出川折返しでの営業は不可能だった。実際には,錦林車庫⇔烏丸今出川の折返し運転が存在した為,その誤りだと判断される。

この調査カードでは該当系統がパンチ穴で示されるから,このカードは錦特2系統,恐らく錦林車庫からの北行終電近くに発行されたものだろう。それを何らかの事情で,乗客が座席の隙間に突っ込み,気付かれないまま廃車を迎えたことになる。1831号は1975年当時錦林に所属していたが,錦林廃止に伴って76年に九条へ移り,さらに77年に烏丸に移って最期まで働いたが,その間誰もシートを確認しなかったことになる。(2/23/2023)


壬生車庫/Mibu Depot

アルバムの車庫空撮ページの画像は,1974年夏の撮影であるため壬生車庫は廃止後で,跡地では公団住宅の建設が進んでいた。同ページ作成時点(03年12月)では,46年頃の米軍撮影の画像以降,50~60年代の画像が未公開だった為,壬生車庫盛業中の画像を掲載できなかった。左は35年の図に加刷された53年の都市計画図,右は61年5月1日撮影の空中写真閲覧サービスの画像である。

壬生は九条と並んでループ線を有したが,左の都市計画図では北側の外回り線が後院通の手前で行止まりになっている。砂利積載線等だったのかも知れぬが,南行に出庫できない配線は不自然に見える。46年の空撮ではループ線は複線なので,行止まりの時期が本当にあったか疑わしい。右の空撮には新築移転5年目の交通局庁舎が写っているが,それ以外の建物も都市計画図の形状とはかなり異なる。また壬生川通の拡幅・付替えで,交通局用地が若干拡大されたように見え,トラバーサが敷地いっぱいまで延長されている。

壬生車庫東南角の南,灰色の線で囲んだ中京区壬生坊城町19番地(四条壬生川通の北西角)は,元の無軌条電車操車場の跡地(地積751.6平米)で,61年時点では更地のままだが,64年に住宅公団(現UR)壬生坊城アパートが建設された。壬生車庫跡地が「壬生坊城第2団地」と呼ばれるのは,この建物が先に存在した為だろう。

計画図には「公設市場」の記載がある。公設(小売)市場は第1次大戦後の米騒動に対する流通面の改善を目指して,1918年から旧6大都市で開設された。京都市でも延べ18ヶ所が存在したが,壬生の公設市場は45年に疎開・閉鎖されている。最後まで残ったのは,北野・田中・深草の3ヶ所だったが,歴史的使命を終えたとして06年3月末で廃止(民間移管)された。(2/12/2023)


補遺

(1) 下で触れた「油小路」行電車だが,「油小路」の方向幕を出した641号の写真が残る(表示ページで油小路を検索)。641号は烏丸に居た記憶しかないが,新製当初は九条に配属されたらしいことが判る。京都市営地下鉄でも,北大路-四条-九条や東山等,交差道路の名称を付けた駅が多数存在する。地下鉄は東西・南北方向に各1本しかないため交差箇所は特定できるが,それでも古くからある京阪線側が,祇園四条や清水五条等に名称変更をして混乱を避けている。油小路に関しては,市電路線との交差箇所は九条のみならず,今出川から七条まで計5ヶ所存在した為(ただし停留場が設けられたのは九条のみ),九条だと解れというのはやや無理があった気がする。

なお下の市街図では「札ノ辻」電停が上・下の2ヶ所に分かれているが,1931年発行の市街図までは「札ノ辻」1ヶ所だったため,分離期間は限られたようだ。一方,塩小路高倉~大石橋間については,八条通が未拡幅だったため駅直近に「京都駅南口」,その南に「東寺道」電停があった。奈良電にも京都~東寺間に「八条駅」が存在したが,これは京都駅を烏丸口に設置する計画で,八条側の「京都駅」はあくまで仮駅という位置づけだった為だろう。

(2) 嵐電北野線の廃止区間だが,島本氏の図はやや誤解を招く。1937年11月に市電がわら天神から白梅町に到達した段階では,等持院~北野間に小松原駅(場所は馬代通東側)があった。43年10月の白梅町~円町間の市電開通と同時に「白梅町駅」が交差点西側に設置され,入れ替わりに小松原駅は休止(後に廃止)になったが,昭和40年頃まではホームの残骸が残っていた。駅間距離は[等持院<0.4km>小松原<0.3km>白梅町<0.4km>北野]だった。

今出川延長線の第2期工事に伴って,58年7月15日限で嵐電の白梅町~北野間は休止され,9月16日の廃止を期に北野駅と白梅町駅を統合した「北野白梅町駅」に改称された。市バスは昔から「北野白梅町」だったが市電は「白梅町」,市バスの「西ノ京円町」と市電(JR)の「円町」同様,市バスでは旧大字名(衣笠村大字北野,朱雀野村大字西ノ京)を冠した停留所名が多かったようだ。市電の場合69年時点で,北野紙屋川町-下鴨東本町-下鴨高木町-田中大久保町-西院巽町-深草下川原町-竹田久保町くらいしか見当たらない。(2/1/2023)


旧第16師団と竹田街道

国際日本文化研究センター(日文研)所蔵
「京都市街全図」(1940;部分)
かつて深草には陸軍第16師団が置かれていた。旧司令部は聖母女学院本館として現存するが,現在でも師団街道や第一~第三軍道などの道路名に痕跡を留める。旧兵器支廠(「深草駅」西側の土塁で囲まれた区画)跡には龍谷大学や警察学校が立地しているが,戦前の路線図には旧軍用地と関連した停留場名が散見される。

かつて京阪藤森駅は「師団前駅」だったが,市電にも「練兵場前」と「営所道」と称する停留場があった。前者は後の竹田久保町,後者は七瀬川町に相当し兵舎最寄りを意味する。深草下川原町は後年の設置だが,この停留場を含む勧進橋~竹田久保町間は627mしかないのに対し,竹田久保町~竹田出橋間は764mもあり,市電の停留場間隔としては第3位だった。要するにこの間,竹田街道の東側は練兵場だったため,目立った沿線需要が無かったということだろう。因みに,1960年代後半の停留場間隔の1位は棒鼻~丹波橋で766m,2位は七条大宮~東寺前で765mだった。

上図には奈良電の上鳥羽口駅が存在しないが,同駅の開業は40年4月であり,40年発行の図に間に合っていない。同時に「城南宮前」は「竹田」に改称されたが,現駅より約350m伏見駅寄りに位置した。市電九条線は奈良電との平面交差を解消する必要から,九条大宮~九条油小路間が最後となった。この区間は奈良電の単立化を待って39年2月に開業したが,それまでの1年3ヶ月は「油小路」行の電車が走った。上図でも「九条大路油小路」停留場が記載されている。(1/19/2023)