Gleanings from Trolley Days市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集 |
壬生 | 烏丸 | 九条 | 計 | ||||
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50.1.1 | 250-280 301-329 | 60 | 201-219,237-249 | 32 | 220-236,281-293 330-350 | 51 | 143 |
52.10.1 | 31 | 15 | 44 | 90 | |||
56.10.12 | 205,206,208,247,248,251,257,261,266 301,302,304-306,310 | 15 | 232,237,245,280 311,313,315,317,322,329,332-337,339-341, 343-345,349,350 | 24 | 39 | ||
58.12.1 | 205,206,248 305,310,313,315,329,336,337,341,343,344,349 | 14 | 14 |
200/300型は単車ながらエアブレーキが装備された点で広軌I型とは大きく異なるが,電動機は広軌I型と同じ25HP(18.5kW)×2を搭載していた。余りに非力だった為か,1935年から37年に掛けて8両が35HP(26kW)×2に換装されたが,以後中断し戦後49年になって再開されている。換装は廃車直前の55年まで続けられたが,戦後施工の一部については,出力が40HP(30kW)×2に強化されている。
200/300型の塗色は当初マルーン1色だったが,1935年登場の514型で採用された濃淡茶色塗装に順次変更された。モノクロ写真では600型で採用された青電色(黄土色+濃緑色)の塗装と殆ど区別が付かないが,マツモト模型で製作された300型模型の塗色が参考になる。さらに戦後の49年頃から,在来車の青電色への統一が進んだから,全廃時点には濃淡茶色の旧塗色車は存在しなかったはずだ。(10/4/2023)
⑷ 新型コロナウイルス感染症のような不測の事態により変化する需要動向や物価高騰等の社会情勢に応じて、機動的・弾力的な運賃設定を可能とするなど、自由度の高い運賃制度を構築すること。 特に、本市においては、観光利用が多い特性を踏まえ、観光利用と日常生活を中心とした市民利用との棲み分けについて、運賃制度をはじめ各種規制を柔軟に運用できるような制度構築に向け検討を行うとともに、必要な財政支援措置を講じること。 |
基本は賃金と同様,"equal service"なら"equal fare"とすべきだろう。一部の公共施設では,2部料金制の考え方を用いて,固定費用部分は市民税によって賄われるとして,相当額を非市民から追加徴収することが行われる。しかし公共交通(特に地下鉄建設補助金)には,国民の税金が少なからず投入されているから,市民だけを優遇することには問題がある。京都市には,財源不足を非市民に負担させようとする性向がありそうだ(cf.「古都保存協力税」)。現実的には,観光用急行バス(現在運休中の100番台系統)等で,サービスの質の差別化を図ることや,混雑緩和策としての大型荷物料金徴収が考えられるが,後者はワンマンカーでは技術的に難しい。
途上国では,公共施設(博物館等)に外国人料金を設ける例があるが,鉄道における差別運賃としては中国鉄路の例が想起される。1995年の兌換紙幣(FEC)廃止と相前後して廃止されたが,それ以前は外国人運賃(1.75倍?)が設定されていた。ただし外国人窓口で並ばずに切符を購入できる等,サービス面で若干の差別化が図られていたが,差別運賃の導入に言及すること自体,日本が途上国レベルになったことを物語るように思える。(9/19/2023*)
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横板(側面方向板)の掲出は1953.6.8からと記録されるが,これは戦後の話であって,戦前にも横板の掲出はあった。梅寿堂茶舗さんご提供の写真にあるを系統の横板を拡大・判読した結果を左上に示す。写真からは戦後と同様のフック付き鉄製看板(ただし無広告)に見えるが,白黒写真では色は全く判らない。を系統がこの経路だったのは43.12.24迄だが,43.8.12に金属回収令が公布・施行されているので,恐らくは回収対象となって戦前の横板は消滅したのではないか,と想像される。 左下は戦前の600型だが,この当時は前扉すぐ後ろの戸袋窓に,室内側から側面方向幕(横幕?)が設置されていた。写真では白幕になっているが,停留場では戸袋窓と扉で合わせて3枚のガラス越しに見る必要があり,かつ着座者を考えて高い位置に設置されたため,相当見難かったはずである。結果的に余り良い考えでは無かったと見えて,使用が続けられることもなく,他形式への波及も無かったようだ。
大阪市電では,一部の車両に外付けの側面方向幕が使用された。右写真は循環15系統1700型のものだが※注),中扉の直前(京都でも3扉車の横板はこの位置)に設置されていた。これだとガラス3枚を介する必要は無いが,雨水浸入や車両限界が気になる。 今なら京阪3000系プレミアムカーに採用された液晶ディスプレイ内蔵複層ガラスが利用可能だが,コスト的に疑問。(9/3/2023) |
あくまで仮車庫の位置づけだったので,九条線・大石橋~九条車庫前間開通に伴う九条車庫の開設と同時に,33年8月5日付で廃止されたが,その後も留置線1本と操車場機能が残された。(Mouse-on)は1935年の都市計画図に示される同地点だが,この当時には「京都駅南口」電停が高倉跨線橋直近にあり,大石橋との間に「東寺道」電停が存在したことが判る。仮車庫(操車場)の向かいには,長年に亘って(上下)水道局の本庁舎が立地していたが,2022年に移転・解体された。(8/9/2023)
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以前にも書いたように,錦林の横板に関しては,定期券購入の際に事務所出入口脇に置いてあるのを何度も見ていたが,画像記録を撮っていない。左上は "Memoranda"に掲載(2014年11月)した,千本丸太町を渡る2甲系統601号の写真だが,横板が写っているものの,拡大しても内容は判読不能である。他にも各出版物やWebページに同様の写真は散見されるが,内容が判読可能な距離・角度のものは見当たらない。 左下は錦林所属系統の横板を,他系統の経由地選択から類推したものである。錦林の横板は,甲・乙が別板であったため系統数の割に種類が多いが,全くの捏造であるため内容は保証できない。例えば12系統は2系統の短縮系統であったため,そのまま1枠を削除したが,12系統には烏丸丸太町や百万遍が挿入されなかったか等である。横板の経由地に関する確度の高い情報をお持ちの方は,ご提供をお願いしたい。(7/16/2023) と書いたら,奈良の青木様より2系統の横板の画像を頂きました。甲・乙が別板になっていたのは,63年6月以前の古い板のようで,左下の2系統では甲・乙が通しで1枚になっています。晩年の円板のように,系統の縁取りが黒になっている点も特徴的で,2系統の短縮系統である12系統も当然1枚になっていたはずなので,同仕様で捏造しました。ただし22系統に関しては,系統板の色が異なることもあり,甲・乙別が維持されていました。また2系統自体に変更があった訳ではないので,古い板が併用されていた可能性はあります。併せてこちらも改訂しました。(7/19/2023) |
無軌条転換直前の梅津車庫前を行く514型。 | 外大の建物から見た梅津車庫。手前が検車棟,左がその付属棟。 |
梅津線は市電として初めて単架線で建設された路線であるが,戦中の突貫工事ゆえ路盤が不完全であり,交差道路など一部を除いて軌道敷は枕木がむき出しだった。従って改修に多額の費用を要する点が,市電路線としての維持を断念する一因になった。左写真には東行の(↑←×)信号機が見えるので,場所は車庫東門の西側であることが判る。手前には市電200/300型の廃車体が見えるが,これは仮設事務所として使われていた。
右写真では内側ループ線に300型,外側線には100型が並んでいるのが見える。300型は梅津線無軌条化に伴って導入されたが,当初から折戸は塗分けであったことが判る。またループ線の外側に,広い敷地を擁したことも判る。(7/1/2023)
40th St. Portalの13系統2059(?)号(1978.9) | Darby終点の11系統2198号(1981.6) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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42年(戦前)までの初期のPCC車は空制車だった為"Aircars"と呼ばれた。これらは2001~と2501~の車号を振られたが,前者は導入時ワンマン専用,後者はワンツーマン車であったことによる番号区分で,後年には殆ど意味を持たなかった。46年以降(戦後)の車両は,電気制動になった為"All-electrics"と呼ばれる(表の太字)。これらは2701~の車号を振られたが,2091~の追番も使われたらしく,当時まだワンツーマンが残っていたものか,事情は不明である。他都市からの転入車には2201~が振られたが,これにも空制車が混在する。ただし空制の転入車は62年までに淘汰されたので,70年代後半には,概ね2000-2500-2600番台が空制車,2100-2200-2700番台が電制車という認識だった。
写真は今も残るSubway-Surface線上の空制車(左)と電制車(右)である。この当時,空制車は数を減らしていたが,1981年に川崎製9000型LRVが本格稼働するまでは,まだ姿を見ることができた。電制車と空制車は,バス窓の有無で容易に識別できる。窓配置と制動方式は無関係なので,どこの都市にも当てはまるかと問われれば自信はない。バス窓は,立ち客からの眺望を確保することが主な導入理由だった。電車の塗色は,73年からの車両改修に合わせて導入されたもので,俗に"Gulf Oil Paint Scheme"と呼ばれる。かつてのガルフ石油の看板と配色がそっくりだった為だ。
PCC車の大勢は92年に引退したが,これは同年まで存続していた15-23-56系統が,「暫定的に」バス代行とされた為だ。その後15系統のみ電車運転に復帰したが,それにはPCCⅡと呼ばれる改造車(2320-37の18両)が使用されている。PCC車を放逐した川崎製LRVも,ADA (Americans with Disabilities Act of 1990)不適合を理由に,2030年までにAlstom製の低床連接車への置換えが決まっている。
日本で本格的にPCC車の技術を導入した車両として都電5500型が知られるが,純粋のPCC(電制)車は荒川車庫に保存される5501号(54年製)のみで,5502号以下の6両は間接自動制御・WNドライブではあったが,基本的に空制車であり,言わば戦前の仕様に先祖帰りした形であった。京都市では,866-80, 901-15, 724-48の計55両(全車烏丸配属)が,間接自動制御,電制常用や弾性車輪等の新機軸を導入したものの,依然として吊掛け駆動だったので,5502号の水準にも達していない。(6/17/2023)
右表は63年頃の配置表を捏造したものである。ここでは七条烏丸相当分を烏丸線・七条線双方から削り,烏丸車庫を北大路線でもカウントした。東山線の連動装置は百万遍と叡電前だったが,叡電前の分岐撤去により1ヶ所削減した。同時に京都駅東西接続に伴い河原町線に1ヶ所追加している。「京都市電配線図」を(四半世紀ぶりに)再作成したが,転轍機の種別はこの「捏造された」配置表に依拠している。
ポイントの電空式・電気式の区別を意識したのは,伏見線廃止後に,九条所属車のH棒仕切り裏側に(=乗務員向に)22乙系統(東山経由の出入庫系統を含む)の経路上の転轍機種別を記載した路線図が貼られた時である。それ以前から,ポイントマシンがコンパクトな交差点と,大型キャビネットが設置された交差点が存在することは承知していた。
左表では四条線に4基の電気転轍機が設置されているが,うち2基は西洞院と堀川の狭軌線分岐だった。分岐器の設置は進行方向左側の共用レールのみ,狭軌用架線は広軌用とは別に少し高い位置に吊架されていて,双方の架線にコンタクタを設置することで,狭軌車・広軌車を判別する特殊な機構だった為,他への転用は難しかったと思う。
右表では,七条烏丸の自動化に伴い,烏丸線・七条線各2基を手動→自動に移動している。また叡電前の分岐廃止に伴い,東山線から電空転轍機3基(叡電線内2基を含む)を削除し,塩小路高倉(南~東)の分岐新設に伴い,河原町線・伏見線に電気転轍機各1基を追加している。さらに京都駅の東西連絡に伴い,東場内用に電気転轍機(手動)1基を追加した為,河原町線は左表に比べて2基の増加になる。
七条線と千本大宮線の配置数から,七条大宮は前者が電気式,後者が電空式と,2方式が混在していた計算になる。西大路七条・東山七条共に電空式であった為,電気式2基は七条大宮に設置されたとしか解釈できない為だ。不思議なのは九条車庫で,左表では電気転轍機が設置されていたが,後年の写真では電空転轍機に変更されている。例えば63年に塩小路高倉で必要になった電気転轍機2基を九条車庫から供出し,ほぼ同時期に不要になった叡電前の電空転轍機を九条車庫に宛がったとするのは,考え過ぎだろうか?(6/4/2023)