Gleanings from Trolley Days市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集 |
無軌条転換直前の梅津車庫前を行く514型。 | 外大の建物から見た梅津車庫。手前が検車棟,左がその付属棟。 |
梅津線は市電として初めて単架線で建設された路線であるが,戦中の突貫工事ゆえ路盤が不完全であり,交差道路など一部を除いて軌道敷は枕木がむき出しだった。従って改修に多額の費用を要する点が,市電路線としての維持を断念する一因になった。左写真には東行の(↑←×)信号機が見えるので,場所は車庫東門の西側であることが判る。手前には市電200/300型の廃車体が見えるが,これは仮設事務所として使われていた。
右写真では内側ループ線に300型,外側線には100型が並んでいるのが見える。300型は梅津線無軌条化に伴って導入されたが,当初から折戸は塗分けであったことが判る。またループ線の外側に,広い敷地を擁したことも判る。(7/1/2023)
40th St. Portalの13系統2059(?)号(1978.9) | Darby終点の11系統2198号(1981.6) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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42年(戦前)までの初期のPCC車は空制車だった為"Aircars"と呼ばれた。これらは2001~と2501~の車号を振られたが,前者は導入時ワンマン専用,後者はワンツーマン車であったことによる番号区分で,後年には殆ど意味を持たなかった。46年以降(戦後)の車両は,電気制動になった為"All-electrics"と呼ばれる(表の太字)。これらは2701~の車号を振られたが,2091~の追番も使われたらしく,当時まだワンツーマンが残っていたものか,事情は不明である。他都市からの転入車には2201~が振られたが,これにも空制車が混在する。ただし空制の転入車は62年までに淘汰されたので,70年代後半には,概ね2000-2500-2600番台が空制車,2100-2200-2700番台が電制車という認識だった。
写真は今も残るSubway-Surface線上の空制車(左)と電制車(右)である。この当時,空制車は数を減らしていたが,1981年に川崎製9000型LRVが本格稼働するまでは,まだ姿を見ることができた。電制車と空制車は,バス窓の有無で容易に識別できる。窓配置と制動方式は無関係なので,どこの都市にも当てはまるかと問われれば自信はない。バス窓は,立ち客からの眺望を確保することが主な導入理由だった。電車の塗色は,73年からの車両改修に合わせて導入されたもので,俗に"Gulf Oil Paint Scheme"と呼ばれる。かつてのガルフ石油の看板と配色がそっくりだった為だ。
PCC車の大勢は92年に引退したが,これは同年まで存続していた15-23-56系統が,「暫定的に」バス代行とされた為だ。その後15系統のみ電車運転に復帰したが,それにはPCCⅡと呼ばれる改造車(2320-37の18両)が使用されている。PCC車を放逐した川崎製LRVも,ADA (Americans with Disabilities Act of 1990)不適合を理由に,2030年までにAlstom製の低床連接車への置換えが決まっている。
日本で本格的にPCC車の技術を導入した車両として都電5500型が知られるが,純粋のPCC(電制)車は荒川車庫に保存される5501号(54年製)のみで,5502号以下の6両は間接自動制御・WNドライブではあったが,基本的に空制車であり,言わば戦前の仕様に先祖帰りした形であった。京都市では,866-80, 901-15, 724-48の計55両(全車烏丸配属)が,間接自動制御,電制常用や弾性車輪等の新機軸を導入したものの,依然として吊掛け駆動だったので,5502号の水準にも達していない。(6/17/2023)
右表は63年頃の配置表を捏造したものである。ここでは七条烏丸相当分を烏丸線・七条線双方から削り,烏丸車庫を北大路線でもカウントした。東山線の連動装置は百万遍と叡電前だったが,叡電前の分岐撤去により1ヶ所削減した。同時に京都駅東西接続に伴い河原町線に1ヶ所追加している。「京都市電配線図」を(四半世紀ぶりに)再作成したが,転轍機の種別はこの「捏造された」配置表に依拠している。
ポイントの電空式・電気式の区別を意識したのは,伏見線廃止後に,九条所属車のH棒仕切り裏側に(=乗務員向に)22乙系統(東山経由の出入庫系統を含む)の経路上の転轍機種別を記載した路線図が貼られた時である。それ以前から,ポイントマシンがコンパクトな交差点と,大型キャビネットが設置された交差点が存在することは承知していた。
左表では四条線に4基の電気転轍機が設置されているが,うち2基は西洞院と堀川の狭軌線分岐だった。分岐器の設置は進行方向左側の共用レールのみ,狭軌用架線は広軌用とは別に少し高い位置に吊架されていて,双方の架線にコンタクタを設置することで,狭軌車・広軌車を判別する特殊な機構だった為,他への転用は難しかったと思う。
右表では,七条烏丸の自動化に伴い,烏丸線・七条線各2基を手動→自動に移動している。また叡電前の分岐廃止に伴い,東山線から電空転轍機3基(叡電線内2基を含む)を削除し,塩小路高倉(南~東)の分岐新設に伴い,河原町線・伏見線に電気転轍機各1基を追加している。さらに京都駅の東西連絡に伴い,東場内用に電気転轍機(手動)1基を追加した為,河原町線は左表に比べて2基の増加になる。
七条線と千本大宮線の配置数から,七条大宮は前者が電気式,後者が電空式と,2方式が混在していた計算になる。西大路七条・東山七条共に電空式であった為,電気式2基は七条大宮に設置されたとしか解釈できない為だ。不思議なのは九条車庫で,左表では電気転轍機が設置されていたが,後年の写真では電空転轍機に変更されている。例えば63年に塩小路高倉で必要になった電気転轍機2基を九条車庫から供出し,ほぼ同時期に不要になった叡電前の電空転轍機を九条車庫に宛がったとするのは,考え過ぎだろうか?(6/4/2023)
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昭和30年代までは,どこの都市でも舗装が行き届かず,乾燥すると道路には砂埃が舞う状態だった。当時は「散水車」の活躍が日常の光景だったが,タンクローリー型自動車が普及する前は,路面電車がその役割を担った。京都市の場合,広軌線には最大10両の散水車が在籍した。1~5号は開業から翌年に掛けて新造されたが,6~8号はN電からの改造,ラストナンバーの10号は広軌I型49号から改造された。※注)
実際の活躍は1940年頃迄だったとされ,41年7月に6両が廃車,50年1月に残り4両が廃車されて消滅した。 ※注)N電からの改軌改造には,他に300形類似の車体に載替えた181号があったが,使用成績が良くなかったらしく殆ど活躍しなかった。9号については35年に入籍されているが,出自は不明である。 上図は「さよなら京都市電」掲載の散水車1号だが,同時期の広軌I型よりやや小型だった。広軌線では貨車の車番には「貨」が付されたが,散水車は写真で見る限り数字のみの表記である。また広軌I型改造の10号を除いて,vestibule(前面窓)無だったが,散水車の用途を考えれば雨天時の走行は無いので不要ではある。それとは別に,18年7月の京電買収時に狭軌散水車134~136号を引継いでいるが,これらもN1~N3と,客車と重複する車番に改番されている。なお41年に廃車された6両のうち5両が,タンクを下して貨4~貨8に改造された。種車の対応は不明だが,散水車として新造された5両と考えるのが自然だろう。 散水車には当然給水が必要になる。これには各車庫(操車場)の引込み線(積載線)が使われたと思われるが,唯一地図上に残る給水線が疏水端に設けられていた。下図(昭和2年頃京都市明細図(長谷川家版))の徳成橋南詰に引込み線が記載されているが,同時期の都市計画図には記載がない為,長期間存在した訳では無さそうだ。なおくまの~百万遍間の開通は28年1月,くまの~天王町間の開通は30年3月だった為,この地図には記載がない。(5/23/2023) |
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京都市の1日券は1974年4月の烏丸線廃止と入れ替りに発売されたが,当時の電車・バス普通運賃50円に対して発売額は300円(大人)だったから,6乗車しないと元が取れなかった。現行運賃に当て嵌めれば1380円となって,バス・地下鉄1日券の価格を超える。左上は最初の1日券(小人用見本券)。
2023年4月に実施された乗継割引の廃止は,バス混雑に対して全く逆の効果を持つ。例えば京都駅から金閣寺まで行く場合に,北大路からバスに乗換えると,260円+230円=490円になる。従来は紙の乗車券で120円,交通系ICカードで60円の割引が入って370円~430円だったが,4月以降は無割引になった。バス205系統で230円の区間に,乗換の手間を伴う上に倍以上(490円)支払うincentiveは働かない。
バス地下鉄連絡乗車券は,地下鉄→バス方向は券売機で対応できたが,バス→地下鉄方向は事前購入した紙の1区引換券を券売機に投入し,差額精算を要するなど手間が掛った。1981年5月の地下鉄開業と同時に導入され,当初は合算運賃から60円引だったので,バス運賃130円+地下鉄1区運賃120円が190円になった。ただ地下鉄開業時は,交通局得意の2段階値上げの途上で,バス運賃130円は暫定運賃だった。
左下は270円のバス・地下鉄連絡券だが,発行時期は88年の暫定運賃時のもののようだ。右表に「交通事業白書」の年表より作成した,地下鉄開業後のバス・地下鉄運賃の推移を取りまとめるが,89年4月と97年4月の消費増税時には直接の運賃値上げは無かった。
京都市における交通系ICカードの導入は2014年12月だったが,カード利用の場合には乗継割引(60円)が自動適用されるようになる。合算運賃は250円→440円に76%も上昇したが,割引額は60円固定で「お得感」は損なわれる一方だったので,19年3月に割引額が60円→120円に拡大された。この結果,連絡券の値下げという珍しい事態が発生したが,ICカード利用の割引額は60円に存置された。今回全ての割引運賃を廃止し,ポイント制に移行することになったが,ICOCA, PiTaPa限定で,事前登録が必要かつ暦月に3600円以上利用した場合のみという適用条件は厳しすぎる。
観光客はほぼ完全に割引対象から排除されるが,対市民サービスを維持すれば,市民以外の反感を買おうと地方議員の選挙には影響しないという,一種のVoting Jurisdiction問題になっていて,1980年代後半の「古都保存協力税」を想起させる。古都保存協力税の場合には,京都仏教会という強力な圧力団体があったが,属性もバラバラな観光客では反対運動が組織されることはない。しかし地下鉄に乗らずにバスに乗るという「足による投票」は可能で,結局206系統等の混雑緩和とは逆行する。
日本では交通機関ごとの運賃収受が一般的だが煩雑極まりなく,事務処理コストが無視できない。名古屋ゆとりーとラインのように直通運転をしていても,ガイドウェイ部分は軌道,それ以外は自動車と,旧運輸省の縦割り行政を受けて基本的に合算運賃とされる。欧米では都市内交通はソーン制運賃や時間制運賃の採用が多く,乗換運賃(transfer)は不要になる。ICカード導入により時間管理が容易になるため,San Francisco MUNIのように90分以内乗換自由で$3.00と言った設定が一般化しつつある。
その意味では,廃止されたバス・バス乗継が最初の降車から次の降車まで90分以内で90円割引とされていたことは,ICカードの正しい利用方法だったと言える。これも昔は紙の切符が発行されていたが,赤バス(循環系統)と青バス(他の均一系統)という限られた組合せでのみ利用でき,かつ時間制限がなかった為,場合によっては異なる経路を利用することで往復にも利用できる問題があった。バス・地下鉄割引には時間制限が無いため,今でも往復利用が可能だが,これについても時間制運賃の導入により解決できる。(5/6/2023*)
西詰東行停留場には銀閣寺(錦林)行最終としては22乙系統のみが記載されるため,通常の乗り場からの最終を敢えて別掲したのかも知れぬ。同様の事情は千本北大路でも生じた。烏丸経由・京都駅行最終は壬特4乙系統で,南詰北行停留場からの発車となり,通常の4系統の西詰東行からではないが,千北での京都駅行に重複表記は無い。1954年以前には,終電時に壬特2系統(壬生~烏今往復)が運転されていたから,錦林車庫の開設と共に臨時系統の運転区間が西→東に反転したものの,昔から烏今は(初)終電時の連絡運輸上重視されていた。
交差点の信号塔が最後まで使用されたのは七条烏丸だが,烏丸今出川(+印)は最後から2箇所目となる信号塔だった。記録によれば,1958年10月8日に自動転轍機新設工事着手,59年2月16日に西詰東行と南詰北行,3月17日に東詰西行,3月30日に北詰南行と順次自動化が完了し,既存の継電連動式操作盤を撤去したとある。烏丸今出川は60年代半ばまで,一部に嘗ての赤レンガ舗装が覗く古風な交差点だった。(4/18/2023)
東急東横線の急行は「隔駅停車」と揶揄されるが,それでも東横間20駅中通過は10駅と通過率50%を維持するのに対し,例えば無軌条線100系統では,14停留場中通過は4停留場(28.6%)に過ぎない。常設系統で最も通過率が低いのは19系統で,稲荷までの7停留場(3.2km)中,通過は札ノ辻のみ(通過率14.3%)だった。さらに伏見線関係の出入庫系統だと,特A入系統(京都駅~九条車庫1.8km)には通過停留場は含まれない。入庫便は朝ラッシュ終了時に見られ,急行時間帯に掛かる便があった可能性もあるが,全停留場停車の系統に急行板は不要だろう。
最短の常設(=毎日複数回運転される)臨時系統は右写真の錦特2系統(錦林車庫~銀閣寺0.6km)だったが,これは浄土寺を通過したため急行板の意味があった。(3/23/2023)
ただ図面には,同時期に建設された高野車庫の引込線が記載されていないことが奇異に感じられる。時期的には,貨物線が44年4月28日付で一括申請されたのに対し,高野車庫の設置申請は同年8月9日付である為,貨物線申請時点には車庫の計画が未確定だったと見られるが,貨物線自体8月3日の認可を待たずに7月31日に竣工したと記録される等,相当混乱した状況にあった。貨物輸送の営業開始は9月21日で,白梅町を通過する貨8号の写真が残ることから,高野~千本北大路~西大路七条~七条千本の経路で運転されたようだ。燃料事情の好転等により49年6月30日限で貨物輸送は休止になり,下鴨集荷場の引込線は50年2月2日付で撤去されている(「関西の鉄道」38, 1999)。
右に46年10月2日米軍撮影の航空写真を掲載する。(Mouse-on)で凡その軌道位置を示すが,①が下鴨集荷場建屋,②が高野車庫(烏丸分庫)建屋に相当する。なお高野車庫入口にはシーサスの存在が記録されるが,留置車両の関係で位置は確認できない。しかし下鴨署と共に,高野川左岸が何故「下鴨」かという疑問は残る。(3/9/2023)