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Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

横板(側面方向板)(3)

左は本サイトの基準期間(1963.6~70.3)に使用された横板をまとめたものである。そのうち現物の写真は1-9-10-11-15-17-18-21の8枚で,4-5-6-19-20の5枚は現物の写真(遠かったり,歪みや隠れた部分があるもの)に基づいて作成したものである。7甲系統の横板は現物の確認なしに「捏造」した物だが,この系統の方向幕に登場する経由地を並べたもので,それなりに妥当だろう。

基本的には横板の裏側はその逆方向が記載される(たとえば写真の1乙の裏側は1甲)が,10・11系統の場合は甲だけ,乙だけの組合せになるから,左の画像は同じ10・11乙系統の表裏になっている。伏見線では9と19が1枚になった板が使われた関係で,進行方向を示す矢印が両方向兼用になっていて,掲出時に進行方向と逆向きになる場合があったが,同様の現象は13い系統でも生じた。

13い系統には,烏車⇔高野間の出入庫区間と,四河⇔高野間の本系統区間が含まれるが,これを1枚の板にまとめたため,ここでも進行方向の矢印が両方向兼用になっていた。左は出入庫面を示すが,経由地の内容に疑義はないが,両端のどちらが右に書かれたかについては確証がない。13い系統では,出入庫区間の円板は(臨)表示であるにも拘らず,横板は(13)表記である点が特徴的だった。

左の一覧は,壬生営業所,烏丸営業所,八条口操車場の全系統を網羅しているが,何故か八条口の系統のみ系統数字のフォントがsans-serif体になっていることに気付く。九条営業所と錦林営業所の系統については情報が欠落しているため,これらの系統の横板が写った(判読可能な)写真をお持ちの方は,画像の提供をお願いします。(11/17/2022)


北野白梅町Fのりば

嵐電と市バスとの乗継ぎを改善するとの触込みで行われた,北野白梅町駅改築工事。これにより旧1番線の敷地に市バスFのりばが開設され,2020年3月から102号系統の経路を変更し, 昼間1時間2本の停車が始まったが,「改善効果」を誇れるほどの便数では無かった。

その後コロナ禍を理由とする減便や土休日運休が相次ぎ,ついには22年3月に系統自体が休止になり,このバス停への発着は無くなったから,当所への公衆トイレ整備が目的だったようにすら思える。右はGoogle Street Viewだが,バス停標識右側の掲示板には,停留所休止のお知らせが貼られている。左のバス停配置図では,皮肉なことにFのりばの位置には撤去された1番線が描かれている。

その後,22年5月3~5日の3日間,11月19,20,23,26,27日の5日間,「楽洛二条城・金閣寺ライン」(快速臨12系統)が当所に停車する手配が取られたが,1日17便(年136便)にしかならず,施設が有効に活用されているとは言い難い。前にも記したように,せめてかつてこの区間を経由した52系統を停車させるくらいは検討すべきだろう。

交通局が嵐電の軌道を撤去させて,その後継として走らせた路線を廃止したことは初めてではない。言うまでもなく北野線の廃止区間(北野~白梅町間0.4km)である。1925年11月3日に開業し58年7月15日限で休止したから,嵐電としての営業期間は32年8ヶ月,市電としての営業期間は58年9月16日から76年3月末日までの17年6ヶ月だった。(10/26/2022)


臨22出庫系統(2)

22甲
錦林07:00
熊野07:07
烏丸07:14
円町07:24
白梅07:28
白梅07:29
円町07:33
烏丸07:43
熊野07:50
錦林07:57
臨22出
錦林07:04
百万07:11
烏今07:18
白梅07:29
円町07:33
烏丸07:43
熊野07:50
錦林07:57
1964年の「始発通過時刻表」には,他系統と比べると格段に遅いにも拘らず,平日朝夕運転の22甲系統の時刻が,錦林車庫発7:00,白梅町発7:29と明記されている。当初は左のスタフイメージの時刻(円町→錦林間は外挿)で運転されたはずだが,1966年頃に突然右の時刻の臨時系統の運転が始まったと記憶する。毎朝7:15頃に河原町今出川を通過する「円町」行は,白梅町からは左の22甲の初電時刻に一致する時刻で運転された。これは一つには今出川線西行の混雑救済だったと思うが,そうなると本来の22甲初電はどうなったのかが気になる。

67年6月の交通調査時点での22甲系統の時間帯別運転本数(臨時系統を含まない本則系統のみ)は下表のように報告されている。どの地点での時間帯かは明記されていないが,素直に考えると車庫前出発時刻と見てよいだろう。いずれにせよ初電が繰上がって,6時台に1本運転されていたことになる。たとえば錦林車庫6:50発とし,以下7:10,25,40,55と続けば,白梅町からの「丸太町・銀閣寺」行は,7:19, 29, 39, 54,8:09, 24…等となるが,実態は当たらずと雖も遠からずだろうか?(10/15/2022)

06070815161718
143中休1333


烏丸車庫のデルタ線

壬生・九条の両車庫にはループ線があったが,烏丸の出入庫線はかつて,北野車庫や現存の都電荒川車庫と同様にデルタ線を形成していた。 左は1935年の図に加刷された53年の都市計画図だが,東西両側から複線の出入庫線が描かれている。室町寄りにさらにもう1組西側からの引込み線が記載されているが,これは×印で撤去が示され,その跡地に交通局庁舎が記載されている。烏丸車庫には,56年11月19日に壬生の新庁舎へ移転するまで交通局の本局が置かれていた。右図は46年10月の米軍撮影の航空写真だが,交通局庁舎と東西からの出入庫線が見える。ただし西側出入庫線の使用頻度は低かったと見えて,東側のそれや検車棟手前のシーサスに見える軌道敷の油汚れは殆ど無い。西側の出入庫線の撤去時期は不明だが,使用頻度から見て余り支障は無かったと考えられる。室町寄りにあった引込み線だが,恐らく散水車への給水や保線用資材の積載線かと思われるが,単線で十分な気がする。 写真で電車の後方に見える3階建が旧交通局庁舎で,売却後は関西電力の営業所が入居していた。(既に建替え済だが,現在も関西電力の施設となっている。電気局から配電事業を切り離して関西配電に現物出資した経緯から,交通局と関西電力の施設は関係が深い。)
(10/5/2022)

四条線応援運行とくまの臨時

初電時には終電時と逆回りの循環系統が運転されることが原則であり,錦林でも壬生廃止後には初電時に222乙,終電時に222甲と称する今出川・丸太町循環系統が運転された。しかし壬生廃止以前に四条線の東行最終となった錦林の今出川・四条循環系統は,終電時の乙のみで,初電時に甲の運転はなかった。初電時に運転されていれば熊野での四条大宮行初電は5:11頃になったはずだが,実際には5:29の1乙初電を待つ必要があった。終電時に運転された臨時系統では,この系統のみ系統番号に関する情報がない(壬生の1系統を補助するという意味では,錦特1系統?)。

1967年時点では2系統は甲が123回,乙が168回運転されていたが,72年の報告書には運転本数の記載がない。同年発行の「世界の鉄道」には119回との記載があるが,甲か乙か判然としない(甲側には12甲系統が存在したため,2甲<2乙であった)。しかし四条線廃止に伴って九条に余力が生じたことは確かで,錦林の減便を補う目的で,平日朝夕混雑時に九条から「くまの臨時」が運転された(運転期間72年1月~76年3月)。くまの返しで西大路へ向かう系統は,39年7月系統,44年12月系統,45年3月の補四系統等の伝統があるが,当時は壬生の担当であった。この系統の九車出発時の方向幕は「円町」で,循環化後の22乙系統の「白梅町」とは区別できたが,壬生廃止までは臨22系統が「円町」を名乗っていたことからも,それ以前には存在しなかったことが解る。一度だけ九車から熊野まで全区間乗り通したことがあるが,スタフを見逃したため系統番号は不明である(2甲系統を補助するという意味では,九特2系統?)。

これらの系統番号をご存知の方は伝言板でお教え下さい。(9/26/2022)


いなり臨時と大石橋の亘り線

1963年の阪急河原町延伸以前は,四条大宮(阪急京都駅)は市内における重要なターミナルであり,市内各所との接続が重視されていた。それは初詣等の波動輸送においても同様だった。1960年の新年には京都駅東西乗り場間の接続が未成だったので,大石橋西~南の亘線を利用して,2甲の臨時延長と壬生の117系統の運転が実施された。しかしメインはぎおん経由の194系統だったようで,節分時には117・194の同時運転も見られた。

系統初詣(1/1-3)節分(2/4)初午(2/12)
2甲
117
194
各系統の運転日は左のようだったが,初詣系統の運転時間は10~17時,節分系統は9~22時,初午時は9~18時の営業で,運転間隔の記載はないが,概ね20分間隔だったと思われる。従って2甲の延長運転については全便ではなく,一部のみだったことになるが,少なくとも60年までは通常片道3本/日の運転しかない大石橋西~南の亘線が活用されていた。しかし翌61年の新年には京都駅の東西連絡が完成し,これらの臨時系統は京都駅経由に変更されたと思われる。

ここには京都駅の連絡線を経由して西乗り場で折返す,烏丸の臨時(白梅町-京都駅-いなり; 系統名不詳)が記録されている。60年度からは「交通事業成績調書」が廃止されたため詳細は不明だが,恐らく2甲系統の延長を代替したものと思われる。同時に壬生の217系統も同様の経路で運転されたが,これは前年の117系統の代替であろう。ここでは系統名が「韻を踏んで」設定されているが,伏見線関連では196系統(くまの-京都駅-いなり)と296系統(くまの-京都駅-中書島)の例も見られる。

通常のいなり行は東1番線からの出発だが,連絡線を経由する系統は東2番線からの出発になるため,案内がやや混乱したと思われる。また西乗り場では白梅町・みぶ行は3番線折返しになるが,いなり行は2番線で折返したものと思われる。河原町線等,烏丸以東への出発は原則として2番線を利用したためである。(9/2/2022)


系統の韻

10番台系統旧補助系統運転区間本系統運転区間
12補三天王町-西大路四条2天王町-西大路九条
14補五烏丸車庫-西大路四条4京都駅-烏丸車庫<西大路>京都駅
15補六四条河原町-烏丸車庫-四条大宮5京都駅-烏丸車庫-九条大宮
16補七四条烏丸-烏丸車庫-くまの6京都駅-烏丸車庫<東山>京都駅
17補八九条車庫-四条大宮-ぎおん7九条車庫-ぎおん-九条車庫
19補九京都駅-いなり9京都駅-中書島
1952年12月に従来の補助系統が数字に変更された時,殆どの10番台系統は本系統の短縮系統として定義された。このうち15系統は旧補六系統の延長系統であり,19系統は9系統から1区間はみ出すが,事実上伏見線北部の輸送段差に対応するものと言える。補助系統と本系統で1の位が揃ったのは補一と補九だけで,他は本系統+1になっていたのは,誤乗防止だろうか?11系統と13系統は補助系統を引き継がなかったが,市電系統が1の位で「韻を踏む」(=1の位が同じ系統は類似系統になる)のはある意味当然だろう。



1の位関連系統
111:三条京阪-嵐山,51:三条京阪-帷子ノ辻
262:四条烏丸-八瀬・大原,72:四条烏丸-岩倉実相院
323:三条京阪-沓掛,33:三条京阪-三ノ宮,63:三条京阪-灰方
44:三哲-深泥池,14:三哲-松ヶ崎,34:三哲-野々神町
55:三哲-修学院道,35:三哲-北白川別当町,45:三哲-蹴上(後に銀閣寺)
66:上賀茂神社-二ノ橋,16:上賀茂神社-藤ノ森神社,46:上賀茂神社-国立病院
88:三条京阪-高雄,48:三条京阪-小野郷
828:三哲-嵐山・大覚寺,38:三哲-嵐山
市バス系統についても,かつては短縮系統や分岐系統で1の位を揃える傾向が見られた。左表は1965年頃の「韻を踏んだ」系統を拾ったものだが,正確には72系統設定前に35系統が廃止されていたりした為,これらの系統が全て同時に存在した訳では無い。ともあれ60年代半ばには,1の位が方向を示唆する傾向が見られ,定期券の系統選択に際して,単一系統として扱われる組合せも多かった。他に類似系統が続き番になる場合も多かったが,これには四条烏丸から中書島・淀へ向かう19-20系統,四条車庫から修学院道(岩倉)へ向かう30-31系統,四条車庫から山科方面へ向かう39-40-41系統,三条京阪から東土川へ向かう42-43系統,伏見線廃止代替の81-82-83系統等の例がある。

四条河原町河原町二条
下鴨148246
今出川149247
市電3桁系統では,一部の例外を除いて100番台と200番台は独立に付番されている。たとえば左の5乙-15乙の短縮系統では,山鉾巡行時の河原町二条折返し系統の末尾2桁は通常の四条河原町折返しとは揃わない。そもそも200番台の系統に関しては情報が限られているため,筆者が知らぬだけかも知れない。(8/5/2022)


京阪大津線の床面高さ

804号703号
こちらに京阪線・京津線・石坂線の車両サイズについて記載しているが,現有車両の床面高さは京津線が900mm,石坂線が1,050mmと15cmの差がある。しかし車両中心からの車幅は前者が1,220mm,後者が1,190mmと差は3cmに留まる。写真はびわこ浜大津駅2番線に停車中の京津線800系と石坂線700形の開扉状況である。ホームは京津線規格で作られているため,700形は床面が少し高い位置に来ると共に,ホームと車両との隙間が僅かに広いことが分る。一般に車両の床面がホームより高いことは許容されるが,段差が25cmを超えるのは不適当とされる。

京津線20型の床面高さは不明だが,同じ各停用だった80型は910mmと,800系と同程度だった。もしここに市電500型(床面高さ800mm)が入線するならば,ホームより10cm下がる形になる。床面がホームより低くなる例はほぼ無いので,その際はホーム高さを低い方に合わせればよいが,その場合現有の石坂線車両との段差が25cmとなり,やや過大になる。市電500型の車幅は2,388mmと,石坂線車両とほぼ同規格だったから,ホーム共用に問題は生じない。かつて京津線60型は京阪線と直通運転をしていたが,60型の車幅は2,356mmと少し狭い。戦前の京阪線の車両限界は2,590mmだったため,京阪線内でのギャップは12cm弱あったことになる。(7/16/2022)

[参考]バリアフリー整備ガイドライン」(国土交通省), pp.196-197.