Gleanings from Trolley Days市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集 |
基本的には横板の裏側はその逆方向が記載される(たとえば写真の1乙の裏側は1甲)が,10・11系統の場合は甲だけ,乙だけの組合せになるから,左の画像は同じ10・11乙系統の表裏になっている。伏見線では9と19が1枚になった板が使われた関係で,進行方向を示す矢印が両方向兼用になっていて,掲出時に進行方向と逆向きになる場合があったが,同様の現象は13い系統でも生じた。
13い系統には,烏車⇔高野間の出入庫区間と,四河⇔高野間の本系統区間が含まれるが,これを1枚の板にまとめたため,ここでも進行方向の矢印が両方向兼用になっていた。左は出入庫面を示すが,経由地の内容に疑義はないが,両端のどちらが右に書かれたかについては確証がない。13い系統では,出入庫区間の円板は(臨)表示であるにも拘らず,横板は(13)表記である点が特徴的だった。
左の一覧は,壬生営業所,烏丸営業所,八条口操車場の全系統を網羅しているが,何故か八条口の系統のみ系統数字のフォントがsans-serif体になっていることに気付く。九条営業所と錦林営業所の系統については情報が欠落しているため,これらの系統の横板が写った(判読可能な)写真をお持ちの方は,画像の提供をお願いします。(11/17/2022)
その後コロナ禍を理由とする減便や土休日運休が相次ぎ,ついには22年3月に系統自体が休止になり,このバス停への発着は無くなったから,当所への公衆トイレ整備が目的だったようにすら思える。右はGoogle Street Viewだが,バス停標識右側の掲示板には,停留所休止のお知らせが貼られている。左のバス停配置図では,皮肉なことにFのりばの位置には撤去された1番線が描かれている。
その後,22年5月3~5日の3日間,11月19,20,23,26,27日の5日間,「楽洛二条城・金閣寺ライン」(快速臨12系統)が当所に停車する手配が取られたが,1日17便(年136便)にしかならず,施設が有効に活用されているとは言い難い。前にも記したように,せめてかつてこの区間を経由した52系統を停車させるくらいは検討すべきだろう。
交通局が嵐電の軌道を撤去させて,その後継として走らせた路線を廃止したことは初めてではない。言うまでもなく北野線の廃止区間(北野~白梅町間0.4km)である。1925年11月3日に開業し58年7月15日限で休止したから,嵐電としての営業期間は32年8ヶ月,市電としての営業期間は58年9月16日から76年3月末日までの17年6ヶ月だった。(10/26/2022)
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67年6月の交通調査時点での22甲系統の時間帯別運転本数(臨時系統を含まない本則系統のみ)は下表のように報告されている。どの地点での時間帯かは明記されていないが,素直に考えると車庫前出発時刻と見てよいだろう。いずれにせよ初電が繰上がって,6時台に1本運転されていたことになる。たとえば錦林車庫6:50発とし,以下7:10,25,40,55と続けば,白梅町からの「丸太町・銀閣寺」行は,7:19, 29, 39, 54,8:09, 24…等となるが,実態は当たらずと雖も遠からずだろうか?(10/15/2022)
06 | 07 | 08 | ~ | 15 | 16 | 17 | 18 | |
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1 | 4 | 3 | 中休 | 1 | 3 | 3 | 3 |
壬生・九条の両車庫にはループ線があったが,烏丸の出入庫線はかつて,北野車庫や現存の都電荒川車庫と同様にデルタ線を形成していた。
左は1935年の図に加刷された53年の都市計画図だが,東西両側から複線の出入庫線が描かれている。室町寄りにさらにもう1組西側からの引込み線が記載されているが,これは×印で撤去が示され,その跡地に交通局庁舎が記載されている。烏丸車庫には,56年11月19日に壬生の新庁舎へ移転するまで交通局の本局が置かれていた。右図は46年10月の米軍撮影の航空写真だが,交通局庁舎と東西からの出入庫線が見える。ただし西側出入庫線の使用頻度は低かったと見えて,東側のそれや検車棟手前のシーサスに見える軌道敷の油汚れは殆ど無い。西側の出入庫線の撤去時期は不明だが,使用頻度から見て余り支障は無かったと考えられる。室町寄りにあった引込み線だが,恐らく散水車への給水や保線用資材の積載線かと思われるが,単線で十分な気がする。
写真で電車の後方に見える3階建が旧交通局庁舎で,売却後は関西電力の営業所が入居していた。(既に建替え済だが,現在も関西電力の施設となっている。電気局から配電事業を切り離して関西配電に現物出資した経緯から,交通局と関西電力の施設は関係が深い。)
(10/5/2022)
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1967年時点では2系統は甲が123回,乙が168回運転されていたが,72年の報告書には運転本数の記載がない。同年発行の「世界の鉄道」には119回との記載があるが,甲か乙か判然としない(甲側には12甲系統が存在したため,2甲<2乙であった)。しかし四条線廃止に伴って九条に余力が生じたことは確かで,錦林の減便を補う目的で,平日朝夕混雑時に九条から「くまの臨時」が運転された(運転期間72年1月~76年3月)。くまの返しで西大路へ向かう系統は,39年7月のこ系統,44年12月のな系統,45年3月の補四系統等の伝統があるが,当時は壬生の担当であった。この系統の九車出発時の方向幕は「円町」で,循環化後の22乙系統の「白梅町」とは区別できたが,壬生廃止までは臨22系統が「円町」を名乗っていたことからも,それ以前には存在しなかったことが解る。一度だけ九車から熊野まで全区間乗り通したことがあるが,スタフを見逃したため系統番号は不明である(2甲系統を補助するという意味では,九特2系統?)。
これらの系統番号をご存知の方は伝言板でお教え下さい。(9/26/2022)
系統 | 初詣(1/1-3) | 節分(2/4) | 初午(2/12) |
2甲 | 〇 | ||
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117 | 〇 | 〇 | |
194 | 〇 | 〇 |
ここには京都駅の連絡線を経由して西乗り場で折返す,烏丸の臨時(白梅町-京都駅-いなり; 系統名不詳)が記録されている。60年度からは「交通事業成績調書」が廃止されたため詳細は不明だが,恐らく2甲系統の延長を代替したものと思われる。同時に壬生の217系統も同様の経路で運転されたが,これは前年の117系統の代替であろう。ここでは系統名が「韻を踏んで」設定されているが,伏見線関連では196系統(くまの-京都駅-いなり)と296系統(くまの-京都駅-中書島)の例も見られる。
通常のいなり行は東1番線からの出発だが,連絡線を経由する系統は東2番線からの出発になるため,案内がやや混乱したと思われる。また西乗り場では白梅町・みぶ行は3番線折返しになるが,いなり行は2番線で折返したものと思われる。河原町線等,烏丸以東への出発は原則として2番線を利用したためである。(9/2/2022)
10番台系統 | 旧補助系統 | 運転区間 | 本系統 | 運転区間 |
12 | 補三 | 天王町-西大路四条 | 2 | 天王町-西大路九条 |
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14 | 補五 | 烏丸車庫-西大路四条 | 4 | 京都駅-烏丸車庫<西大路>京都駅 |
15 | 補六 | 四条河原町-烏丸車庫-四条大宮 | 5 | 京都駅-烏丸車庫-九条大宮 |
16 | 補七 | 四条烏丸-烏丸車庫-くまの | 6 | 京都駅-烏丸車庫<東山>京都駅 |
17 | 補八 | 九条車庫-四条大宮-ぎおん | 7 | 九条車庫-ぎおん-九条車庫 |
19 | 補九 | 京都駅-いなり | 9 | 京都駅-中書島 |
1の位 | 関連系統 |
1 | 11:三条京阪-嵐山,51:三条京阪-帷子ノ辻 |
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2 | 62:四条烏丸-八瀬・大原,72:四条烏丸-岩倉実相院 |
3 | 23:三条京阪-沓掛,33:三条京阪-三ノ宮,63:三条京阪-灰方 |
4 | 4:三哲-深泥池,14:三哲-松ヶ崎,34:三哲-野々神町 |
5 | 5:三哲-修学院道,35:三哲-北白川別当町,45:三哲-蹴上(後に銀閣寺) |
6 | 6:上賀茂神社-二ノ橋,16:上賀茂神社-藤ノ森神社,46:上賀茂神社-国立病院 |
8 | 8:三条京阪-高雄,48:三条京阪-小野郷 |
8 | 28:三哲-嵐山・大覚寺,38:三哲-嵐山 |
四条河原町 | 河原町二条 | |
下鴨 | 148 | 246 |
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今出川 | 149 | 247 |
804号 | 703号 |
京津線20型の床面高さは不明だが,同じ各停用だった80型は910mmと,800系と同程度だった。もしここに市電500型(床面高さ800mm)が入線するならば,ホームより10cm下がる形になる。床面がホームより低くなる例はほぼ無いので,その際はホーム高さを低い方に合わせればよいが,その場合現有の石坂線車両との段差が25cmとなり,やや過大になる。市電500型の車幅は2,388mmと,石坂線車両とほぼ同規格だったから,ホーム共用に問題は生じない。かつて京津線60型は京阪線と直通運転をしていたが,60型の車幅は2,356mmと少し狭い。戦前の京阪線の車両限界は2,590mmだったため,京阪線内でのギャップは12cm弱あったことになる。(7/16/2022)
[参考]「バリアフリー整備ガイドライン」(国土交通省), pp.196-197.