臨時系統と祭礼

Irregular Routes and Festivals

レールに拘束されている市電は,市バスより系統設定の自由がない,と考えるのが当然ですが,京都市電には結構特徴的な臨時系統がありました。ここではその幾つかをピックアップしてみます。

常設系統の通らない渡りを通過する系統

常設系統が分岐するポイントは,車庫前など一部を除いて,進路選択信号によって自動化されていた。 しかし,常設系統が通らない渡りを通過する系統も初電・終電時を中心に運転されており,この場合は乗務員が手動でポイント(switch box)を操作することになる。これらにも系統番号があったはずだが,今となっては詳細は薮の中である。

千本丸太町(南~東):み ぶ-千本丸太町-天王町-銀閣寺(壬生)
 20系統の初電を銀閣寺に送る,20系統の終電を銀閣寺から回収するために運行。当時,丸太町線西行きの最終は,(循環222系統ではなく)この壬生車庫行であった。 この渡りは,白川線開通以前は東天王町操車場(戦前は川端丸太町)と壬生車庫間の車両のやりとりに活躍したはずである。

百万遍(南~東):錦林車庫→百万遍→東山七条(錦林)
 俗に「東山七条臨」とよばれ,北白川地区の生徒を京都女子中学・高校に送り届けるために運行。中学・高校の始業時に合わせて平日朝に南行き2本のみ運転され,復路はくまので右折したため百万遍を経由しない。この運行(224系統)は,烏丸線廃止と同時に中止された。

大石橋(西~南):九条車庫-中書島,九条車庫-いなり(九条)
 伏見線へ初電を送りだし,終電を回収するために運行。

大石橋(西~北):九条車庫-京都駅(九条)
 初電・終電時のみならず,朝ラッシュ終了後の9時・10時台にも,伏見線の電車を入庫させるために結構運転された。 このほか同じ目的で,短距離臨時系統「京都駅-京都駅八条口」も運転されたが,夕方ラッシュは八条口に留置可能な3両を再投入することで賄えたのかもしれない。 当時,河原町線南行きの最終は,九条所属車が2乙系統を代走する京都駅・九条車庫行で,初・終電時のみ京都駅でのスイッチバックは健在であった。

その他,百万遍(西~北)は1949年から55年にかけて運転された京福(現・叡山電鉄)乗入れ系統のうち,京都駅発の系統の経路変更(東山→河原町)に伴って短期間使用していたはずである。 また七条河原町(東~南)は,市電最後の1年間,京都駅前東のりばに移設された6系統が使用した。 残り2ヶ所(九条大宮(西~北)と千本北大路(西~南))については,戦後の定期運行はなかった。(前者については,西大路駅付近開通以前には定期運行があった。)

祭礼時の運行

市電の運行に大きく影響する主要な祭礼としては,祇園祭と節分祭が挙げられよう。そこで,この2つの祭りの際の運行状況に触れることにする。

四条烏丸~西洞院間の臨時センターポール区間を行くツーマン代用の1814号, (20)北野・金閣寺行(1971.7;「四条線最後の夏」)
祇園祭

祇園祭では,宵山時に四条西洞院-四条河原町間,巡行時に四条西洞院-四条河原町間と河原町二条-四条河原町間が運行休止になった。
 たとえば,壬生の1系統は「(臨)四条西洞院-千本今出川-百万遍-四条河原町」(101系統), 九条の7系統は「(臨)四条西洞院-九条車庫-四条河原町」(172系統)として運行された。 河原町線についても,北からの系統は全て「(臨)河原町二条」行となった。 南側については,伏見線があった時代には,九条車庫が活躍すればよかったのだが,伏見線廃止後は,烏丸・錦林の車両が封じ込められて,「京都駅-四条河原町」をピストン運行した。
 山鉾巡行経路にあたる,四条線の室町-河原町間は南側からの,河原町線の四条-御池間は東側からの片持ち吊架となっていたが,これはこの区間で架線を切断することなく山鉾を通過させるためである。(それでも四条河原町北行の安全地帯は,毎年この時期撤去する必要があった。)
 各鉾町から山鉾が出てくる四条通の西洞院-室町間では,架線の切断を余儀なくされるため,この時期だけセンターポール方式に変更された。そのため,路面にはこの移動式のセンターポールを支持するための穴が用意されていた。
 交差道路である烏丸線についても,四条通と御池通の2ヶ所で架線を切断する必要があったが,これらの交差点を電車はビューゲルを降ろして惰行運転した。

節分祭

節分の2大会場は,吉田神社と壬生寺である。現在でも「(臨)吉田神社-壬生寺」という,存在しない停留所を結ぶバスが運行されるが,この事情は電車時代から不変である。(現在の「壬生寺道」は2005年頃改称されたもので,それ以前は「四条坊城」であった。)
 四条線は1972.1.22限で廃止されたから,四条線最後の節分は1971年ということになる。この年には,(四条線と関係のない)「錦林車庫-百万遍-東山七条-京都駅」という臨時系統が運行されただけであるが, その前年までは,毎年決まったパターンの臨時電車が3系統運行された。(運転手の運行時刻表も,常設系統並みに印刷されたものが用意されていた。)

壬生116系統み ぶ-ぎおん-百万遍-北野白梅町
九条170系統九条車庫-四条大宮-ぎおん-百万遍
錦林121系統四条大宮-ぎおん-百万遍-錦林車庫

 見ての通り,四条大宮-百万遍間で3つの車庫の系統が重複運行する形となり,この区間では常設の1系統と合わせて,極めて高頻度の運行が確保されていた。(この日は百万遍の信号塔に人が上がり,南~東の渡り線が両方向使われた。)

2600型2両編成の(臨)たかの行。折り返し(6)京都駅行となる運行(ca.1968, 洛北高校前)

連結車の運行

京都市電最初のワンマンカーは,新製の2000型と600型の車体を延長改造した2600型で,すべて烏丸に配置されていた。製造(改造)初年は1964年で,双方各2両が新製・改造されたが,特に2600型は最初の2両を含め,大半が局工場の作品である。最終的に2000型は6両,2600型は18両がそれぞれ新製・改造されたが,この形式の特徴はワンマン装置とともに,総括制御のための装置を持っていたことである。そのため,他形式と区別するために前照灯が2個になるとともに,腰板部分青灰色の新塗色で登場した。
 1964.3.16から平日朝ラッシュ時の連結運転が始まり,6月からそれ以外の時間帯にもワンマンカーとして運行されるようになったが,当初は労働組合との折り合いが付かず,多くは急行板と同じ大きさの白いサボを掲げ,ツーマン運行されていた。二段の方向幕の上段には,赤字の「ワンマンカー」,青字の「連結車」と白幕が用意されていた。その意味で,後年の簡易ワンマン改造で使われた「ワンマンカー」のあんどんとは異質である。
 この当時,ワンマンカーは4系統の限定運用であったが,時には特定のダイヤに乗って,百万遍まで顔を出すこともあった。連結車となると,これは完全にダイヤ運行で,烏丸車庫-京都駅間を中心に,百万遍から北大路経由で西大路九条までの区間で運行された。たとえば,西大路通に入るのは,次の2運行であった。(運行時刻は1交差点間5分で計算した概算値であるが,誤差は5分程度に収まるはずである。)

烏車高野百万高野烏車千北円町西四西九西四円町千北烏車烏丸四烏烏丸烏車
6:557:05--7:057:157:207:307:35--7:357:407:507:558:058:108:158:25
7:007:107:157:207:307:357:457:508:008:108:158:258:30--------
  • 西大路四条折り返しの運行は,1969年頃から烏丸車庫-たかの間の往復が省略され,烏丸車庫7:15出庫となった。
  • 西大路九条折り返しの運行は,連結車が廃止された後もワンマンカーによる単行運転で,1976.3.31まで存続した。

  • 連結車の場合,前車に運転手と車掌,後車には車掌のみの3人乗務であった。いずれもワンマンカーの場合と同様に前乗り・後降りであったが,運賃は降車時に車掌に支払い,運転手は料金収受を行わなかった。(前扉の開閉も車掌が行った。)
     この乗務形態は,ツーマン車2両よりは省力化が進んでいるとはいうものの,他系統に在来車改造のワンマンカーが多数導入されるに及んで,総括制御機構の保守の手間も含めて,かえって生産性が悪いものとなった。

     このため,1970.1.16に烏丸車庫の1800型,1900型がワンマン運行に入ると同時に,連結車の運行は烏丸線の京都駅前-烏丸車庫前間を除いて「休止」となり,翌1971.3.31限で全ての連結車の運行が廃止された。 連結器は撤去の上,京福電鉄に売却され,嵐山線で現在も使用されている。