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Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

錦林運輸事務所の開設前後

図1:1953.7.15図2:54.3.1図3:55.1.16図4:56.10.12~57.4.2
5系統の変遷」と一部重複するが,錦林運輸事務所開設前後における関連系統の変遷を見る。図1は1952年12月1日の系統全面改定後の系統であるが,銀閣寺と四条線を結ぶ13系統は53年7月14日まで設定が無かった。3-13系統は銀閣寺操車場,2-12系統は天王町操車場が担当したが,共に壬生運輸事務所の所管だった。この時点で壬生は,1-2-3-11-12-13-梅-無の8箇系統を所管したが,壬生車庫前で操車を行う系統は1-11の2箇系統のみだった。なお52年11月30日までは,銀閣寺~四河間に補四系統が設定されていた。

図2は白川線開通に伴う系統変更を示す。銀閣寺・天王町の両操車場は錦林操車場に統合されたが,引き続き壬生が所管した。2系統は丸太町,3系統は河原町の主力系統としてのイメージが強かったため,旧補四系統を復活させて2系統に,旧13系統を3系統に,各々包摂させる形で系統が設定された。農学部前・北白川に関しては,四条線への経路が旧13系統より遠回りになるものの,浄土寺~岡崎通間の5停留場が新たに四条線へのアクセスを持つことのメリットが勝ると言える。この時点では,小規模な留置線が設置されただけで車庫機能は未完成だったが,最寄停留場名は「錦林車庫前」とされた。

錦林運輸事務所の開設に伴って図3が示すように,2-12系統は錦林に移管され,新たに22系統が従来の臨22系統(天王町~円町)を延長して,平日朝夕のみ運転の系統として設定される。2乙系統が京都駅に延長されて旧3乙系統(河原町区間)を引継ぎ,四条以北の輸送段差対応は2→12系統に変更される。3系統の四条区間は壬生に残り,旧15系統を包摂する系統に変更される。この結果,農学部前・北白川は四条線への直通経路を失うが,両者とも百万遍または銀閣寺まで1停留場歩けば1-3系統が利用できた。

図4は下鴨線開通に伴う系統変更を示す。下鴨線を走った2箇系統のうち,13系統が錦林の担当となり2年半ぶりの復活を果たす。同時に,壬生3系統の起点が四条烏丸に変更され,21系統に改称される。この系統図は10号線(今出川延長線)の1期区間開通まで約半年有効だったが,以後22乙系統が新設され,北野紙屋川町→西大路七条→西大路九条と3段階で延長されたものの,図4の系統が本質的には63年6月19日まで継続された。翌日からは壬生の銀閣寺乗入れ系統が20系統に変更されたが,壬生操車の銀閣寺乗入れ系統は3→21→20と変更されつつ,72年1月22日まで17年間に渡って続いた。(1/8/2023)


市バス・京阪連絡定期券

京阪バスの経営状況はかなり悪いらしく,バスカード(回数券)の代替だったはずのPitapaの利用額割引が21年6月に還元率引下げ,22年6月に廃止となり,同時に市バスとの間の連絡定期券の割引制度も廃止になった。本来この割引は,山科地区からの市バス撤退に伴う代替措置の側面があったと思われるが,代わって市バス特80系統が乗入れると言っても殆ど存在感がない。

現在,京阪電車との間には地下鉄連絡定期券しか存在しないが,昔は市電・市バスとの間に連絡定期券が設定されていた。京阪以外の社線での設定は知らないが,京阪の三条~五条間は市電の特許路線だったことが関係したかも知れない。左はその例だが,裏面の「乗車粁程」にはキロ程ではなくて運賃が書かれている。割引などは無く単純な合算だと思うが,当時の定期運賃が月25往復を基準にしていたことを考えると,市バス運賃30円だと50倍で1500円だから通学(甲)の割引率40%に留まるのに対し,京阪の三条~宇治間の普通運賃70円に対して通学定期の割引率は79%に達する。券面の白梅町の「梅」が,阪急梅田の「田」を思わせる変体字になっている。(12/3/2022)


横板(側面方向板)(3)

左は本サイトの基準期間(1963.6~70.3)に使用された横板をまとめたものである。そのうち現物の写真は1-9-10-11-15-17-18-21の8枚で,4-5-6-19-20の5枚は現物の写真(遠かったり,歪みや隠れた部分があるもの)に基づいて作成したものである。7甲系統の横板は現物の確認なしに「捏造」した物だが,この系統の方向幕に登場する経由地を並べたもので,それなりに妥当だろう。

基本的には横板の裏側はその逆方向が記載される(たとえば写真の1乙の裏側は1甲)が,10・11系統の場合は甲だけ,乙だけの組合せになるから,左の画像は同じ10・11乙系統の表裏になっている。伏見線では9と19が1枚になった板が使われた関係で,進行方向を示す矢印が両方向兼用になっていて,掲出時に進行方向と逆向きになる場合があったが,同様の現象は13い系統でも生じた。

13い系統には,烏車⇔高野間の出入庫区間と,四河⇔高野間の本系統区間が含まれるが,これを1枚の板にまとめたため,ここでも進行方向の矢印が両方向兼用になっていた。左は出入庫面を示すが,経由地の内容に疑義はないが,両端のどちらが右に書かれたかについては確証がない。13い系統では,出入庫区間の円板は(臨)表示であるにも拘らず,横板は(13)表記である点が特徴的だった。

左の一覧は,壬生営業所,烏丸営業所,八条口操車場の全系統を網羅しているが,何故か八条口の系統のみ系統数字のフォントがsans-serif体になっていることに気付く。九条営業所と錦林営業所の系統については情報が欠落しているため,これらの系統の横板が写った(判読可能な)写真をお持ちの方は,画像の提供をお願いします。(11/17/2022)


北野白梅町Fのりば

嵐電と市バスとの乗継ぎを改善するとの触込みで行われた,北野白梅町駅改築工事。これにより旧1番線の敷地に市バスFのりばが開設され,2020年3月から102号系統の経路を変更し, 昼間1時間2本の停車が始まったが,「改善効果」を誇れるほどの便数では無かった。

その後コロナ禍を理由とする減便や土休日運休が相次ぎ,ついには22年3月に系統自体が休止になり,このバス停への発着は無くなったから,当所への公衆トイレ整備が目的だったようにすら思える。右はGoogle Street Viewだが,バス停標識右側の掲示板には,停留所休止のお知らせが貼られている。左のバス停配置図では,皮肉なことにFのりばの位置には撤去された1番線が描かれている。

その後,22年5月3~5日の3日間,11月19,20,23,26,27日の5日間,「楽洛二条城・金閣寺ライン」(快速臨12系統)が当所に停車する手配が取られたが,1日17便(年136便)にしかならず,施設が有効に活用されているとは言い難い。前にも記したように,せめてかつてこの区間を経由した52系統を停車させるくらいは検討すべきだろう。

交通局が嵐電の軌道を撤去させて,その後継として走らせた路線を廃止したことは初めてではない。言うまでもなく北野線の廃止区間(北野~白梅町間0.4km)である。1925年11月3日に開業し58年7月15日限で休止したから,嵐電としての営業期間は32年8ヶ月,市電としての営業期間は58年9月16日から76年3月末日までの17年6ヶ月だった。(10/26/2022)


臨22出庫系統(2)

22甲
錦林07:00
熊野07:07
烏丸07:14
円町07:24
白梅07:28
白梅07:29
円町07:33
烏丸07:43
熊野07:50
錦林07:57
臨22出
錦林07:04
百万07:11
烏今07:18
白梅07:29
円町07:33
烏丸07:43
熊野07:50
錦林07:57
1964年の「始発通過時刻表」には,他系統と比べると格段に遅いにも拘らず,平日朝夕運転の22甲系統の時刻が,錦林車庫発7:00,白梅町発7:29と明記されている。当初は左のスタフイメージの時刻(円町→錦林間は外挿)で運転されたはずだが,1966年頃に突然右の時刻の臨時系統の運転が始まったと記憶する。毎朝7:15頃に河原町今出川を通過する「円町」行は,白梅町からは左の22甲の初電時刻に一致する時刻で運転された。これは一つには今出川線西行の混雑救済だったと思うが,そうなると本来の22甲初電はどうなったのかが気になる。

67年6月の交通調査時点での22甲系統の時間帯別運転本数(臨時系統を含まない本則系統のみ)は下表のように報告されている。どの地点での時間帯かは明記されていないが,素直に考えると車庫前出発時刻と見てよいだろう。いずれにせよ初電が繰上がって,6時台に1本運転されていたことになる。たとえば錦林車庫6:50発とし,以下7:10,25,40,55と続けば,白梅町からの「丸太町・銀閣寺」行は,7:19, 29, 39, 54,8:09, 24…等となるが,実態は当たらずと雖も遠からずだろうか?(10/15/2022)

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烏丸車庫のデルタ線

壬生・九条の両車庫にはループ線があったが,烏丸の出入庫線はかつて,北野車庫や現存の都電荒川車庫と同様にデルタ線を形成していた。 左は1935年の図に加刷された53年の都市計画図だが,東西両側から複線の出入庫線が描かれている。室町寄りにさらにもう1組西側からの引込み線が記載されているが,これは×印で撤去が示され,その跡地に交通局庁舎が記載されている。烏丸車庫には,56年11月19日に壬生の新庁舎へ移転するまで交通局の本局が置かれていた。右図は46年10月の米軍撮影の航空写真だが,交通局庁舎と東西からの出入庫線が見える。ただし西側出入庫線の使用頻度は低かったと見えて,東側のそれや検車棟手前のシーサスに見える軌道敷の油汚れは殆ど無い。西側の出入庫線の撤去時期は不明だが,使用頻度から見て余り支障は無かったと考えられる。室町寄りにあった引込み線だが,恐らく散水車への給水や保線用資材の積載線かと思われるが,単線で十分な気がする。 写真で電車の後方に見える3階建が旧交通局庁舎で,売却後は関西電力の営業所が入居していた。(既に建替え済だが,現在も関西電力の施設となっている。電気局から配電事業を切り離して関西配電に現物出資した経緯から,交通局と関西電力の施設は関係が深い。)
(10/5/2022)