Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

市営交通百年史~三都物語


京阪神3都市の市営交通は,2003年から2017年に掛けて100周年を迎えた。しかし3都市の交通事業の歴史に対する姿勢は相当異なる。

大阪市電は日本初の公営路面電車として1903(明26)年9月12日に開業したため,路線開通と運営主体(当時は大阪市工務課)の発足は同時であり,3都市では最も早く2003年に100周年を迎えた。その際,上写真に示す「大阪市交通局百年史」が05年4月に刊行され一般に販売された。本編1134ページ,資料編289ページに及ぶ大部であり,相当気合の入った局史と言える。大阪維新の会による大阪市政の掌握は11年11月だったので,発刊時点では交通局民営化の方針は打ち出されていなかったが,結果的に大阪市の市営交通は開業115年(電気局の独立から95年)に当る2018年に終焉を迎えた。

最も遅く100周年を迎えたのは神戸市で,2017年のことである。神戸電気鉄道(現在の神鉄とは別会社)による路面電車の開業は1910(明治43)年4月5日と遅く,17(大6)年8月1日に神戸市電気局により買収・市営化された。路面電車の全廃は71年3月13日,神戸市営地下鉄の開業は6年後の77年3月13日であった。100周年を記念して「神戸市交通局100年史」が2020年3月に刊行された。これも前付30+504ページとかなりのボリュームがあるが,内容はPDFファイルとして全編公開されている。

京都の路面電車は1895(明28)年2月1日に京都電気鉄道により開業したが,これと並行して市営電車が京都市電気軌道事務所によって開業したのは1912(明45)年6月11日である。従って2012年6月11日に100周年を迎えることになったが,大阪・神戸のような「正史」は発刊されず,僅かに「京都市公営交通100周年記念リーフレット」が配布されただけのようだ。特定日に梅小路公園へ行ける人にのみ配布というのは,如何なものかと思う。どの程度のリーフレットかは,現物を見たことが無いので不明だが,1枚物を折り畳んだ仕様だと,情報量は限られるし,なぜWeb上での公開が無いのかも理解に苦しむ。

保存車の処遇についても,大阪市については緑木検車場内に独立した保存館があるが,規模が限られるため一部車両は森ノ宮に分散保存されている。京都市については,当初烏丸車庫内に保存庫が建設されたが,敷地売却に伴う漂泊が始まり,最終的に梅小路公園内に保存されるも,基本的に屋外保存であるため状態の劣化が懸念される。特に野ざらしになっている935号と2001号については,神戸市の名谷車庫に保存される2両同様,非公開でも地下鉄竹田車庫へ移送・保存することが望まれる。あの悲惨だった,藤が丘の名古屋市電展示場の二の舞は避けるべきだろう。

(11/2/2021)

甲・乙とGHQ?


WienのAnschluß宣伝バス(1938)
京都市電(特に循環系統)では甲・乙の区分が重要だった。操車室から見て右へ出るのが甲,左へ出るのが乙が原則だったと言われるが,その結果,殆どの系統で反時計回りが甲,時計回りが乙となった。大阪市電にも,大阪駅前とあべの橋を堺筋・四ツ橋筋経由で結ぶ1系統と上町筋・四ツ橋筋経由で結ぶ4系統の2つの循環系統があったが,所属の天王寺車庫の操車室から見て左へ出るのが1甲・4乙と一貫性が無いように見える。これは1系統が恵美須町で交差した為で,大阪駅前基準では時計回りが甲,反時計回りが乙となり,壬生・九条とは逆になった。

1935~45年のひらがな系統の時代には,時計回りと反時計回りに別の(隣接した)文字が振られた。上図は35年12月の循環系統を抜粋した系統図だが,壬生では「あ・い」と「う・ゑ」,七条大橋では「ま・み」と「む・め」の4系統がある。(現行ナンバープレートでは「お」の代わりに「を」が使われるが,京都市電では加えて「え」の代わりに「ゑ」が使われた。)これらに共通するのは,操車室に近い側(後の乙)が上位の文字になっている点であり,「あ」が1乙,「い」が1甲と,後年の序列と逆転していることに気付く。

これには例外があって,39年7月の「ま」系統は後の8甲,「み」系統は8乙と,上位の文字が九条車庫の操車室から遠い側になっているが,これは従前の「ま・み」系統の七条通での進行方向に合わせた為かも知れない。数字の系統に復帰したのは大戦末期の45年3月だが,その時点の甲・乙がどう振られたかは不明である。しかし敗戦直後から,GHQは交通方式の右側通行への変更を要求した為,右側通行の実施を見越して,操車室に近い側が甲になるように甲・乙を定めたと見るのは考え過ぎだろう。ともあれ,路面電車のポイント交換等に費用が掛かり過ぎること等を理由に,歩行者のみ右側通行にする「対面交通」(49年11月)でお茶を濁すに留まった。当時,前中扉車は大阪市の801/901型位しか無かったので,バスと異なり車両改修は大きな障害とはならなかった。

日本統治下の朝鮮半島には,서울・부산・평양等に路面電車があったが,46年に米軍(ソ連軍)の指令により右側通行に変更されている。沖縄でも占領下の45年11月から復帰後の78年7月まで,右側通行が実施された。欧州ではSwedenの"Dagen H"が有名で,67年9月3日を期して欧州大陸に最後まで残った左側通行の国が消えた。しかし昔はもっと多くの国が左側通行を実施しており,例えばAustria-Hungaryの右側通行切替は38年だった。下図は切替間もないWien市内における,Naziドイツのオーストリア併合への支持を宣伝するバスだが,交通方式の切替にはNaziの強権が必要だったということか。

写真は左側出入口の車両が右側通行する過渡的状況を捉えている点で興味深い。場所はMariahilfer Straßeとあるので,現在も市電52-60系統が走る,Wien西駅の南側だと思われる。それにしてもバスに掲出された"Wir danken Adolf Hitler!"の看板は,権威主義国家における個人崇拝の不気味さを物語る。("Remise"-Wien市交通博物館の展示写真より)

(10/11/2021)

横板(2)


↑旧17系統の横板画像は奈良の青木様提供
本ホームページは,阪急河原町延伸に伴う1963年6月20日の系統変更から伏見線廃止の1970年3月末の間の7年弱を基本期間としている。京都市電史上,最も長く系統変更が無かった期間だからである。63年の系統変更では,下に記した九条大宮乗入れ系統の振替え以外に,17系統と20系統の延長が実施され,ぎおん折返しの常設系統が消滅した。左に系統変更前後の17系統の横板(側面方向板)を比較するが,上は系統が曲がる交差点を網羅するのに対し,下では西大路七条と九条が西大路駅に纏められたのが特徴的で,変更後の方が系統が長いにも拘らず,記載される中間停留場は4→3に減少して(=案内が粗くなって)いる。

ぎおん(四条河原町)起終点の系統は,多客期の波動対応に有効だった。17系統については,春秋行楽期の動物園への集客を狙ったくまの延長(174系統),20系統については旧盆・彼岸期の墓参客の便宜を図る東山七条延長が実施されたが,このように四条以北と以南をクロスする運転等,ユニークな臨時系統は63年の系統変更以降激減した。

横板の記載内容を適当に想像することは可能だが,正確には写真判定になる。4系統の場合,長い循環系統なので,中間に4停留場を書くとすれば,方向幕にも登場する烏丸車庫と西大路七条は外せない。四条烏丸は繁華街として重要だとして,4甲系統の京都駅出発時の方向幕は円町→金閣寺に変化した経緯もあり,残りの1枠が金閣寺か円町か迷う所である。実際には円町だったことは写真から判定可能だが,車両写真に横板が写っていても判読不能な場合が多い。4月の記事の表にあるように,現時点で2甲・乙-8-12甲・乙-22甲・乙の4系統7種類が依然確認できていない。(9/30/2021)


22出庫/222系統

壬生車庫があった当時は,丸太町線西行最終は千本丸太町経由の20入庫系統だったが,壬生廃止後は丸太町→今出川循環の222甲系統になった。この系統の錦林車庫発は正確には覚えていないが23:00頃だったと思う。丸太町・今出川を一周すると約60分掛るので,入庫は24時頃になる。これを円町折返し(122系統)に代えても,ほぼ同じ出発時刻となるが,復路が2甲と続行運転になって無駄が多いのに対し,今出川経由にすれば今出川線東行の終電を兼ねることが可能になる。同様の理由で,初電時には今出川→丸太町循環の222乙系統が運転され,今出川線の西行初電と丸太町線の東行初電(12甲折返しより円町通過が10分弱早い)を兼ねた。

初電・終電としての今出川・丸太町循環系統は,壬生車庫があった当時には運転されなかったが,22甲系統(白梅町~錦林車庫)が存在した為,左回りについては22出庫系統として同様の運転があった。22甲系統は平日朝夕混雑時に運転されたが,朝と夕方それぞれの白梅町からの第1便は今出川経由で送り込まれた。朝の便は錦林車庫発7時頃だったが,当時朝7時台の今出川線西行は東行と比べて混雑していたので,朝約10分間隔で運転される22乙系統の間を縫って走る,比較的すいた電車として重宝した記憶がある。朝の便の白梅町通過は7:30頃,夕方の便は実乗経験はないが16時頃だったと思う。逆回りの22入庫系統については,運転されなかったように思う。

壬生廃止に伴って22系統は九条の循環系統となり,丸太町線を走る22甲系統は廃止されたが,代替として122系統(円町臨時)が運転された。

(9/21/2021)

交通局「時差通勤通学のお願い-ラッシュ時の混雑緩和のために」1967


中扉・車内時計

500型・1000型(京都市の区分では「大型ボギー車」)の中扉は1956.2.6に廃止され,扉の位置には座席が延長された。実は1000型の中扉から乗車した明確な記憶は1回(55年春,1甲系統に近衛通から乗車)しかない。中扉閉鎖後も1000型の一部には円形の戸閉スイッチ(ハンドルを差し込んで回転させる)が残っていたが,この扉を扱うためだけに3人乗務とするのは不効率だったことは否めない。

大型ボギー車は,高度成長期前半の大量輸送には役立ったが,混雑時の降車は困難を極めた。名古屋市電のように乗車専用扉にして,後部車掌が扱うようにすべきだったが,全扉が手動だった500型で同様な運用を行う為にはドアエンジン装備が必要であり,今更感があって見送られたと推察される。3人乗務廃止後,大型ボギー車では車掌の負担軽減のため車内放送機器が設置された。と言っても,車掌台にハンドマイクと,中扉の上部に広告板を設け,その裏側にスピーカーを設置しただけの簡易な設備だった。

画像はTucson 869号の櫛桁部分である。京都時代は両側2列の管球照明であり,中央部の蛍光灯は無かった。運転台とのH棒仕切りは,ワンマン化時に丸椅子を設置するために,櫛桁より客室側に移動した。1800/1900型では櫛桁中央部にスピーカーが設置されているが,かつてはこの位置には車両番号が記され,両側に広告枠があった。さらに1960年頃から67年頃まで,第1エンド側の中央部には電池時計が設置され,車両番号は左端に移されたが,料金箱制導入に際して時計は撤去された。(500型原形車を除く非蛍光灯車では,中央部に車両番号を記した照明用アングルが設置された。)

600型の原形(686型を除く)は櫛桁を持たなかったが,「締替え時」に追加された。ただし高さが浅かった為か,これらの600型には車内時計は設置されなかった。(9/1/2021)