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Gleanings from Trolley Days

市電に関する小ネタや断片的情報を集めた拾遺集

急行通過

1962年3月27日から開始された市電の急行運転(平日7~9時)だが,68年時点で全177停留場中通過は68停留場と,通過率は38.4%に留まった。晩年には殆どの停留場に交通信号機が設置される状況になったため,「運転停車」の増加でスムーズに通過できる箇所は限られた。急行通過停留場には,左写真(関田町)のように,安全地帯標識に「急行通過」の表示板が付加された他,弘亜社の停留場標識にも「終発時刻案内」の下に表示板が付いた。

東急東横線の急行は「隔駅停車」と揶揄されるが,それでも東横間20駅中通過は10駅と通過率50%を維持するのに対し,例えば無軌条線100系統では,14停留場中通過は4停留場(28.6%)に過ぎない。常設系統で最も通過率が低いのは19系統で,稲荷までの7停留場(3.2km)中,通過は札ノ辻のみ(通過率14.3%)だった。さらに伏見線関係の出入庫系統だと,特A入系統(京都駅~九条車庫1.8km)には通過停留場は含まれない。入庫便は朝ラッシュ終了時に見られ,急行時間帯に掛かる便があった可能性もあるが,全停留場停車の系統に急行板は不要だろう。

最短の常設(=毎日複数回運転される)臨時系統は右写真の錦特2系統(錦林車庫~銀閣寺0.6km)だったが,これは浄土寺を通過したため急行板の意味があった。(3/23/2023)


下鴨集荷場線

大戦末期には,トラック燃料の不足により貨物電車が運転された。中央卸売市場の貨物線については掲載済だが,そこへ物資を供給するための2箇所の集荷場についても引込線が建設された。下鴨集荷場に関しては「こんにちは京都市電」の図録111(「文化財ブックス」35,2022)に図面が掲載されている。元図は南が上に描かれる為,180°回転させた図を左に掲載するが,北大路通が水平に描かれる為,真北は1.5°ほど左に傾いた方角になる。元図は青焼きで極端に縮小されている為,文字の多くは判読不能だが,現在の「カストルム洛北」なる集合住宅の位置に集荷場があり,その西側に沿って延長85mの軌道が引かれたことが判る。

ただ図面には,同時期に建設された高野車庫の引込線が記載されていないことが奇異に感じられる。時期的には,貨物線が44年4月28日付で一括申請されたのに対し,高野車庫の設置申請は同年8月9日付である為,貨物線申請時点には車庫の計画が未確定だったと見られるが,貨物線自体8月3日の認可を待たずに7月31日に竣工したと記録される等,相当混乱した状況にあった。貨物輸送の営業開始は9月21日で,白梅町を通過する貨8号の写真が残ることから,高野~千本北大路~西大路七条~七条千本の経路で運転されたようだ。燃料事情の好転等により49年6月30日限で貨物輸送は休止になり,下鴨集荷場の引込線は50年2月2日付で撤去されている(「関西の鉄道」38, 1999)。

右に46年10月2日米軍撮影の航空写真を掲載する。(Mouse-on)で凡その軌道位置を示すが,①が下鴨集荷場建屋,②が高野車庫(烏丸分庫)建屋に相当する。なお高野車庫入口にはシーサスの存在が記録されるが,留置車両の関係で位置は確認できない。しかし下鴨署と共に,高野川左岸が何故「下鴨」かという疑問は残る。(3/9/2023)


錦特2/特5系統

奈良の青木様から,東近江市で保存されている市電1831号車のシートの間から「交通調査カード」が出て来たと,以前に写真をご提供頂いた。「乗継券のページ」に掲載している22系統のカードと同じ,1975年6月に実施された調査のカードである。日付は記憶に無かったが,交通調査は火曜日か木曜日に実施するのが定石である。京都市でも他の2回の調査日,67年6月6日,72年9月19日共に火曜日だったが,75年は6月12日(木)に実施されたことが判明した。

月曜日や金曜日は週末と近く,普段とは異なる動きが出る可能性があること,水曜日は当時殆どの百貨店が店休日だった為,買物客が少なくなる傾向があり,さらに6月も中旬を過ぎると梅雨の影響を受けて,自転車からの転移で通学客が増加する傾向がある為だ。因みに75年の近畿地方の梅雨入り(確定値)は,6月5日頃と記録されるが,調査当日は好天だった。

写真のカードは12乙系統のものだが,錦特2系統,錦特5系統の2つの部分系統と兼用している。錦林車庫⇔銀閣寺に「錦特2」,錦林車庫⇔河原町今出川に「錦特5」の注記があるが,そもそも河原町今出川の折返し線は交差点東詰にあり,西行の安全地帯は西詰にあったため,河原町今出川折返しでの営業は不可能だった。実際には,錦林車庫⇔烏丸今出川の折返し運転が存在した為,その誤りだと判断される。

この調査カードでは該当系統がパンチ穴で示されるから,このカードは錦特2系統,恐らく錦林車庫からの北行終電近くに発行されたものだろう。それを何らかの事情で,乗客が座席の隙間に突っ込み,気付かれないまま廃車を迎えたことになる。1831号は1975年当時錦林に所属していたが,錦林廃止に伴って76年に九条へ移り,さらに77年に烏丸に移って最期まで働いたが,その間誰もシートを確認しなかったことになる。(2/23/2023)


壬生車庫/Mibu Depot

アルバムの車庫空撮ページの画像は,1974年夏の撮影であるため壬生車庫は廃止後で,跡地では公団住宅の建設が進んでいた。同ページ作成時点(03年12月)では,46年頃の米軍撮影の画像以降,50~60年代の画像が未公開だった為,壬生車庫盛業中の画像を掲載できなかった。左は35年の図に加刷された53年の都市計画図,右は61年5月1日撮影の空中写真閲覧サービスの画像である。

壬生は九条と並んでループ線を有したが,左の都市計画図では北側の外回り線が後院通の手前で行止まりになっている。砂利積載線等だったのかも知れぬが,南行に出庫できない配線は不自然に見える。46年の空撮ではループ線は複線なので,行止まりの時期が本当にあったか疑わしい。右の空撮には新築移転5年目の交通局庁舎が写っているが,それ以外の建物も都市計画図の形状とはかなり異なる。また壬生川通の拡幅・付替えで,交通局用地が若干拡大されたように見え,トラバーサが敷地いっぱいまで延長されている。

壬生車庫東南角の南,灰色の線で囲んだ中京区壬生坊城町19番地(四条壬生川通の北西角)は,元の無軌条電車操車場の跡地(地積751.6平米)で,61年時点では更地のままだが,64年に住宅公団(現UR)壬生坊城アパートが建設された。壬生車庫跡地が「壬生坊城第2団地」と呼ばれるのは,この建物が先に存在した為だろう。

計画図には「公設市場」の記載がある。公設(小売)市場は第1次大戦後の米騒動に対する流通面の改善を目指して,1918年から旧6大都市で開設された。京都市でも延べ18ヶ所が存在したが,壬生の公設市場は45年に疎開・閉鎖されている。最後まで残ったのは,北野・田中・深草の3ヶ所だったが,歴史的使命を終えたとして06年3月末で廃止(民間移管)された。(2/12/2023)


補遺

(1) 下で触れた「油小路」行電車だが,「油小路」の方向幕を出した641号の写真が残る(表示ページで油小路を検索)。641号は烏丸に居た記憶しかないが,新製当初は九条に配属されたらしいことが判る。京都市営地下鉄でも,北大路-四条-九条や東山等,交差道路の名称を付けた駅が多数存在する。地下鉄は東西・南北方向に各1本しかないため交差箇所は特定できるが,それでも古くからある京阪線側が,祇園四条や清水五条等に名称変更をして混乱を避けている。油小路に関しては,市電路線との交差箇所は九条のみならず,今出川から七条まで計5ヶ所存在した為(ただし停留場が設けられたのは九条のみ),九条だと解れというのはやや無理があった気がする。

なお下の市街図では「札ノ辻」電停が上・下の2ヶ所に分かれているが,1931年発行の市街図までは「札ノ辻」1ヶ所だったため,分離期間は限られたようだ。一方,塩小路高倉~大石橋間については,八条通が未拡幅だったため駅直近に「京都駅南口」,その南に「東寺道」電停があった。奈良電にも京都~東寺間に「八条駅」が存在したが,これは京都駅を烏丸口に設置する計画で,八条側の「京都駅」はあくまで仮駅という位置づけだった為だろう。

(2) 嵐電北野線の廃止区間だが,島本氏の図はやや誤解を招く。1937年11月に市電がわら天神から白梅町に到達した段階では,等持院~北野間に小松原駅(場所は馬代通東側)があった。43年10月の白梅町~円町間の市電開通と同時に「白梅町駅」が交差点西側に設置され,入れ替わりに小松原駅は休止(後に廃止)になったが,昭和40年頃まではホームの残骸が残っていた。駅間距離は[等持院<0.4km>小松原<0.3km>白梅町<0.4km>北野]だった。

今出川延長線の第2期工事に伴って,58年7月15日限で嵐電の白梅町~北野間は休止され,9月16日の廃止を期に北野駅と白梅町駅を統合した「北野白梅町駅」に改称された。市バスは昔から「北野白梅町」だったが市電は「白梅町」,市バスの「西ノ京円町」と市電(JR)の「円町」同様,市バスでは旧大字名(衣笠村大字北野,朱雀野村大字西ノ京)を冠した停留所名が多かったようだ。市電の場合69年時点で,北野紙屋川町-下鴨東本町-下鴨高木町-田中大久保町-西院巽町-深草下川原町-竹田久保町くらいしか見当たらない。(2/1/2023)


旧第16師団と竹田街道

国際日本文化研究センター(日文研)所蔵
「京都市街全図」(1940;部分)
かつて深草には陸軍第16師団が置かれていた。旧司令部は聖母女学院本館として現存するが,現在でも師団街道や第一~第三軍道などの道路名に痕跡を留める。旧兵器支廠(「深草駅」西側の土塁で囲まれた区画)跡には龍谷大学や警察学校が立地しているが,戦前の路線図には旧軍用地と関連した停留場名が散見される。

かつて京阪藤森駅は「師団前駅」だったが,市電にも「練兵場前」と「営所道」と称する停留場があった。前者は後の竹田久保町,後者は七瀬川町に相当し兵舎最寄りを意味する。深草下川原町は後年の設置だが,この停留場を含む勧進橋~竹田久保町間は627mしかないのに対し,竹田久保町~竹田出橋間は764mもあり,市電の停留場間隔としては第3位だった。要するにこの間,竹田街道の東側は練兵場だったため,目立った沿線需要が無かったということだろう。因みに,1960年代後半の停留場間隔の1位は棒鼻~丹波橋で766m,2位は七条大宮~東寺前で765mだった。

上図には奈良電の上鳥羽口駅が存在しないが,同駅の開業は40年4月であり,40年発行の図に間に合っていない。同時に「城南宮前」は「竹田」に改称されたが,現駅より約350m伏見駅寄りに位置した。市電九条線は奈良電との平面交差を解消する必要から,九条大宮~九条油小路間が最後となった。この区間は奈良電の単立化を待って39年2月に開業したが,それまでの1年3ヶ月は「油小路」行の電車が走った。上図でも「九条大路油小路」停留場が記載されている。(1/19/2023)


錦林運輸事務所の開設前後

図1:1953.7.15図2:54.3.1図3:55.1.16図4:56.10.12~57.4.2
5系統の変遷」と一部重複するが,錦林運輸事務所開設前後における関連系統の変遷を見る。図1は1952年12月1日の系統全面改定後の系統であるが,銀閣寺と四条線を結ぶ13系統は53年7月14日まで設定が無かった。3-13系統は銀閣寺操車場,2-12系統は天王町操車場が担当したが,共に壬生運輸事務所の所管だった。この時点で壬生は,1-2-3-11-12-13-梅-無の8箇系統を所管したが,壬生車庫前で操車を行う系統は1-11の2箇系統のみだった。なお52年11月30日までは,銀閣寺~四河間に補四系統が設定されていた。

図2は白川線開通に伴う系統変更を示す。銀閣寺・天王町の両操車場は錦林操車場に統合されたが,引き続き壬生が所管した。2系統は丸太町,3系統は河原町の主力系統としてのイメージが強かったため,旧補四系統を復活させて2系統に,旧13系統を3系統に,各々包摂させる形で系統が設定された。農学部前・北白川に関しては,四条線への経路が旧13系統より遠回りになるものの,浄土寺~岡崎通間の5停留場が新たに四条線へのアクセスを持つことのメリットが勝ると言える。この時点では,小規模な留置線が設置されただけで車庫機能は未完成だったが,最寄停留場名は「錦林車庫前」とされた。

錦林運輸事務所の開設に伴って図3が示すように,2-12系統は錦林に移管され,新たに22系統が従来の臨22系統(天王町~円町)を延長して,平日朝夕のみ運転の系統として設定される。2乙系統が京都駅に延長されて旧3乙系統(河原町区間)を引継ぎ,四条以北の輸送段差対応は2→12系統に変更される。3系統の四条区間は壬生に残り,旧15系統を包摂する系統に変更される。この結果,農学部前・北白川は四条線への直通経路を失うが,両者とも百万遍または銀閣寺まで1停留場歩けば1-3系統が利用できた。

図4は下鴨線開通に伴う系統変更を示す。下鴨線を走った2箇系統のうち,13系統が錦林の担当となり2年半ぶりの復活を果たす。同時に,壬生3系統の起点が四条烏丸に変更され,21系統に改称される。この系統図は10号線(今出川延長線)の1期区間開通まで約半年有効だったが,以後22乙系統が新設され,北野紙屋川町→西大路七条→西大路九条と3段階で延長されたものの,図4の系統が本質的には63年6月19日まで継続された。翌日からは壬生の銀閣寺乗入れ系統が20系統に変更されたが,壬生操車の銀閣寺乗入れ系統は3→21→20と変更されつつ,72年1月22日まで17年間に渡って続いた。(1/8/2023)


市バス・京阪連絡定期券

京阪バスの経営状況はかなり悪いらしく,バスカード(回数券)の代替だったはずのPitapaの利用額割引が21年6月に還元率引下げ,22年6月に廃止となり,同時に市バスとの間の連絡定期券の割引制度も廃止になった。本来この割引は,山科地区からの市バス撤退に伴う代替措置の側面があったと思われるが,代わって市バス特80系統が乗入れると言っても殆ど存在感がない。

現在,京阪電車との間には地下鉄連絡定期券しか存在しないが,昔は市電・市バスとの間に連絡定期券が設定されていた。京阪以外の社線での設定は知らないが,京阪の三条~五条間は市電の特許路線だったことが関係したかも知れない。左はその例だが,裏面の「乗車粁程」にはキロ程ではなくて運賃が書かれている。割引などは無く単純な合算だと思うが,当時の定期運賃が月25往復を基準にしていたことを考えると,市バス運賃30円だと50倍で1500円だから通学(甲)の割引率40%に留まるのに対し,京阪の三条~宇治間の普通運賃70円に対して通学定期の割引率は79%に達する。券面の白梅町の「梅」が,阪急梅田の「田」を思わせる変体字になっている。(12/3/2022)